2006年3月26日日曜日

「神の国はあなたがたの間にある」

ルカによる福音書17・20~37



「神の国はあなたがたの間にあるのだ。」



これは、どういう意味でしょうか。「神の国」とは、わたしたちがよく知っている言葉で言い換えるとすれば、天国のことです。神の国と天国は、同じ意味です。聖書の中にも「天国」という言葉が出てきます。それは、神の国のことです。



それでは、聖書はなぜ同じ意味の事柄について「神の国」と書いたり「天国」と書いたりしているのでしょうか。その理由は要するに昔のユダヤ人の考え方によるということができます。ユダヤ人たちにとって神さまはとても恐ろしくて近づきにくい存在でした。そのため彼らは、わたしたち人間は神の御名を直接口にしてはならないと考えるに至りました。人間が神の御名を直接口にすることはあまりにも恐れ多い行為であると考えたのです。



そのため、ユダヤ人たちは、「神」という言葉を表わすために、「神」というお名前以外の別の表現が必要になりました。その一つが「天」であった、ということです。



ですから、このことが当てはまるのは今日の個所だけではなく、聖書の中に出てくる「天」という言葉のほとんどに、今わたしが言ったことが当てはまるわけです。つまり、聖書の中に「天」という字が出てきたら、その多くの場合に、それは「神さま」という意味ではないかと、疑ってみる必要が、わたしたちにはある、ということです。



そうしますと、わたしたちが次に考えなければならないことが見えてきます。それは、すぐにお分かりいただけると思いますが、イエスさまが「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われているのは、「天国はあなたがたの間にあるのだ」と言われているのと、全く同じである、ということです。



驚いたり、疑問を感じたりする方がおられるかもしれません。「天国」は、わたしたちの世界の外側にある。あるいは、それはわたしたちの人生の向こう側にある、と考えてきた方々にとっては、「天国はあなたがたの間にあるのだ」というこのイエスさまの御言葉は、びっくりする教えであるし、素直に受け容れることはできない教えかもしれません。



しかし、わたしは、このイエスさまの御言葉を、ぜひとも皆さんに信じていただきたいし、受け容れていただきたいと心から願っております。なぜそのように願うのでしょうか。少し理屈っぽいかもしれませんが、わたしは次のように考えているからです。



もしわたしたちが「天国はあなたがたの間にあるのだ」というこのイエスさまの御言葉を信じ、受け容れることができるならば、そのとき、同時に起こることがある。それは、先ほどわたしが触れたことです。天国はこの世界の外側にある。あるいは、天国は人生の向こう側にあるというような考え方です。それがイエスさまの御言葉を受け容れた途端、ガラガラと音を立てて崩れ去る、ということが起こるのです。



天国が、わたしたちの世界の外側や、わたしたちの人生の向こう側にある、という教えは、逆に言えば、この世界にも、わたしの人生にも、天国、あるいは神の国と呼ぶことができる要素は、全くない、ということを意味している、とも言えるわけです。



天国の反対を地獄と呼ぶならば、わたしたちの世界とこの人生の間は「神の国=天国」はない。ということは、逆に言えば、今のすべては地獄である、ということです。



このように考える人々の多くは、自分自身の人生、今、ここに、この世界の中に生きていること自体が、嫌で嫌でたまりません。神さま、わたしは、もうこれ以上生きるのは、たくさんです。どうか神さま、このわたしを、あなたのおられる天国に一刻も早く連れて行ってください。このように願うのです。



イエスさまがこの御言葉を語られた場面をよく読んでみますと、これをイエスさまは、ファリサイ派の人々の「神の国はいつ来るのか」という質問に対するお答えとして語っておられるということが分かります。はっと気づくことがあります。それは、ファリサイ派の人々の「神の国はいつ来るのか」という質問も、裏を返せば、神の国はまだ来ていないということが話の大前提にある、ということです。ファリサイ派の質問は、今はまだ来ていない神の国は、いつになったら来るのか、という質問であると考えてよいでしょう。



もちろん、神の国は、まだ完全な仕方では、来ていないかもしれません。イエスさまの時代から、今日に至るまで、その状態は変わっていないというべきかもしれません。しかしまた、それは全く来ていない、神の国はどこにもない、断片すらない、と考えるのか、少しは来ている、わたしたちはこの地上で、神の国をある程度までは見ることができると考えるのかでは、大きな違いである、ということは、分かっていただけることでしょう。



この点で、イエスさまの教えははっきりしています。イエスさまの答えは、神の国は、すでに来ている、ということです。その意味は、わたしたちの人生、わたしたちの世界に神の国(=天国)と呼んでもよい部分がある、ということです。



難しい顔で「神の国とは何か」と論じることが神の国の実現ではありません。そんなことではなく、わたしたちは、自分の人生を喜び楽しんでよい、ということです。放蕩息子が帰って来たことを喜ぶ父親が開く祝宴でごちそうをたべてよいし、笑って歌って踊ってよいし、遊んでよい。わたしたちは、父なる神によって罪赦された者として、この地上の人生を、喜んで自由に生きてよいのです。まさにそれこそが「神の国はあなたがたの間にあるのだ」というイエスさまの御言葉の意味であると思われるのです。



ここでわたしたちは、このイエスさまの御言葉の意味をできるだけ正確に理解しておく必要があるように思います。とくに注目したいのは、「あなたがたの間」と言われている、この「間」の意味は何か、ということです。なぜなら、ここで「間」という日本語に訳すことが本当に適切かどうかについては、いろいろ考えてみなければならないと思われる面があるからです。別の言い方をすれば、「間」という日本語には独特の曖昧さがあり、なんとなく分かったような気にさせられてしまったり、反対に、よく分からないままごまかされてしまったりするようなところがあるからです。



たとえば、広辞苑で「間」という字の意味を調べてみますと、次のようないろんな意味があることが分かります。



(一)二つのものに挟まれた部分、物と物とにはさまれた空間・部分。
(二)時間のへだたり、絶え間。
(三)ここからあそこまで一続きの空間・時間。
(四)二つ(以上)のもののかかわりあい、結びつき。
(五)空間・時間上の範囲。
(六)・・・ゆえ、・・・から。



わたしは今日の個所のこの「間」という字を見て、最初に思い浮かべた意味は、広辞苑が第一に挙げている「二つのものに挟まれた部分」でした。



つまり、こういうことです。神の国はあなたとわたしに挟まれた部分にある。あるいは、“神の国さん”が、今日初めてわたしたちの教会の礼拝に出席してくださり、皆さんが座っておられるのと同じ椅子に、皆さんの隣の席に、○○さんと□□さんの間に、座っているのです。そして、礼拝の後、皆さんに「こんにちは。わたしは神の国と申します。よろしくお願いいたします」と挨拶をする。そういうイメージが、わたしの心に、最初に浮かびました。



しかし、初めからどうもしっくり来なかったことは事実です。「間」というと、どうしても、間に挟まれるという意味が思い浮かんできます。しかしそうなりますと、“神の国さん”は、わたしたちの仲間に加わり、入り込んできてはいるものの、まだ余所余所しいといいますか、わたしたちの間に挟まれて座っているだけ、ただそこにいる、というだけです。



しかし、イエスさまがおっしゃっていることは、明らかにもっと深い関係です。イエスさまは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」と語っておられますが、その意味として考えられることは、まさに今申し上げたことと関係しています。“神の国さん”が、今日は出席したとか、今日は欠席であるというような話ではない、ということです。



もしそのような話であるとすれば、それは、いわばオプションとして付録しているパーツとしての神の国です。それは、わたしたちの人生の付録であり、おまけです。自分が都合の良いときに、いつでも装着したり、取り外したりすることが可能なものです。面倒になったら捨ててしまえばよい。人間で言えば、追い出してしまえばよい。パソコンで言えば、リセットボタンを押してしまえばよい。そういうふうな何かです。



しかし、わたしたちは、神の国というものを、まさか、そんなふうに考えることはできないはずです。「神の国はあなたがたの間にある」。この「間」という字の意味は、まさか、そういう意味ではないでしょう。イエスさまがそんなことをおっしゃるはずがないのです。



ですから、むしろ考えられることは、もっと深い関係です。広辞苑の「間」の定義でいえば四番目あたりに出てくる「二つ(以上)のもののかかわりあい、結びつき」というのに、強いて言えば最も近いものです。



そもそも「神の国」とは、神とわたしたち自身との関係を示す表現です。神御自身が王としてわたしたち自身を保ち、治め、支配してくださるということです。ですから何よりも第一に考えなければならないのは、神とわたしたちの関係です。



しかし、話はそこで終わりません。「神の国」とはすなわち“国”である、ということを忘れることができません。神とわたし一人だけの関係を、通常は“国”とは呼ばないわけです。そこにわたしだけが住んでいる“国”など妄想の世界です。そこには必ず、わたしの隣人の存在がある、ということを抜きにして「神の国」を語ることはできません。「神の国」という言葉には、必ず、わたしたちと神との関係と、わたしたちと隣人との関係が、同時に含まれているのです。



そうだとすれば、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」とい御言葉の意味は、そこからおのずから分かってくるでしょう。「間」とは要するに、切っても切れない関係のことです。神とわたしの間に、またわたしとあなたの間に、もはやどんなことがあっても切れることのない永遠の絆がつくられている。「間」とは、そのようなかかわり合い、結びつきの意味であると考えられるのです。



やってみるとよい、とは申しません。わたしはそのようなことを、皆さんに勧めたりはしません。しかし、わたしたちが、一度でも、神さまとの関係をやめてみるということをしたら、どうなるのかということを、想像してみることくらいはできるかもしれません。



わたし自身は、もはや、取り外し不可能である、と感じています。牧師の仕事のことではありません。牧師の仕事は、わたしたちは、いつか必ずやめなければなりません。70才になったら定年退職しなければなりません。これも一つの仕事ですから、いつでもやめる覚悟がなければ、できません。



そんなことではないです。わたしが申し上げたいことは、神さまとの関係をやめられるか、という問題です。神の国はまだ全く来ていないとか、そんなものはどこにもないとか、地上の世界はすべて地獄であるとか、神さまとの関係は、わたしたちが死んだ後、向こうの世界に行ったときに初めて開始されるものだ、というようなことを、わたしたち自身が考えることができるか、ということです。



わたしには、それはできません。みなさんも同じであると思います。もちろん、神さまとの関係を与えられているわたしたちの人生は、毎日天国であるとか、バラ色の人生とか、そういうことではありません。重荷を負い、負わされ、苦労があり、悩みがあり、痛みがあり、毎日のように涙を流しながら生きています。



しかし、たとえそうであっても、だからといって、ここは地獄であるわけではない、ということです。楽しいことも、よいこともあります。また、神さまの慰めと赦しと情熱的な愛の御言葉が、語られているのも、この地上の世界です。



神さまが、誰の声も届かない独りの世界にこもっているこのわたしの殻を、外側から壊してくださり、「おーい、生きてるか」と声をかけてくださる。その声を聞いた人は、はっと我に返り、「ここで生きてみよう」という勇気が与えられる。心に感謝と喜びがあふれてくる。



そこに神の国があります。わたしたちの人生が、神の国になるのです!



(2006年3月26日、松戸小金原教会主日礼拝)