2004年12月24日金曜日

すべての人々を救うために

テトスへの手紙2・11~15

「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。」

わたしたちは今、クリスマスイヴの礼拝をささげております。たくさんの讃美、聖歌隊の讃美、ヴァイオリンとピアノによる讃美、そして小学生たちによる聖書朗読など、豊かな恵みをいただくことができ、感謝です。

今お読みいたしましたのは、使徒パウロが伝道者仲間であるテトスに宛てて書いたとされる手紙の一節です。

テトスは、クレタ島にいました。世界で最も美しい海として知られるエーゲ海にある、最も美しい島です。そこで、テトスは大切な仕事をしていました。まだそこにキリスト教の教会が存在していない地域、という意味での「伝道未開拓」の地域に新しく教会を生み出す仕事です。開拓伝道と呼ばれます。

そのことが分かるように書いているのが、1・5の御言葉です。「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。」

どこかの町に教会が新しく生まれるとは、どういうことでしょうか。

教会が新しく生まれると聞いて、多くの人々が思い浮かべることは、新しい教会の建物が立つことでしょう。新しい教会の建物ができる、ということも、大切なことです。しかし、いわばもっと大切なことがある、とわたしたちは考えてきました。

そこに少なくとも二人以上の「長老」が選ばれる必要があるのだ、と。牧師を加えた少なくとも三名以上の議員による「小会」が形成される必要があるのだ、と。

もちろん、長老たちが選ばれ、小会が形成されれば、それで終わりというわけではなく、さらに教会が組織化され、制度化され、現実的・実際的に運営されていく、という必要があるのだ、と。

なぜなら、教会とは建物ではなく、人(ひと)だからです。救い主イエス・キリストを信じる信仰によって心から喜びつつ、礼拝と奉仕をささげている人々が、集まっている。それこそが教会なのです。

当時のクレタ島は、ほとんどの島民にとってはキリスト教の「キ」の字も無かった頃です。それでも、その中の一握りの人々が、新しく宣べ伝えられた信仰を受け入れ、パウロたちが主宰する諸集会に定期的に出席してくれるようになったのでしょう。

しかも、いくつかの町ごとに分かれた複数の集会が生まれていました。そこで、パウロが去ったあと、テトスに残された仕事は、複数の集会の中から長老となるべき人を選び出すこと、そしてその長老たちを中心とした教会組織を作り上げて行くことだったのです。

そのような状況の中で、パウロは、テトスにこの手紙を書き送りました。そして、この手紙の中で特に強調していることは、新しい信仰としてのキリスト教信仰を受け入れた人々は、やはり、それまでとはいくらか違った「生き方」をしなければならない、ということです。

「教会」というところに通いはじめた。最初は、おそるおそる近づいてきた。何となく敷居が高いとも感じていた。しかし、そこで教えられている信仰に、次第に目が開かされてきた。そして、やがて信仰を受け入れ、キリスト教の洗礼を受け、ついに「キリスト者」と公に名乗って生きるようになった。

そのような変化が、人生の中にもたらされた。

そのときに起こらなければならないことは何か。考え方、物の見方、価値観などが変わるにすぎないのか。それとも、生き方そのもの、生活態度にも変化が起こるのか。そこで起こるのは、"頭の中だけの変化"にすぎないのか。"体全体の変化"も伴うのか。

パウロが書いている勧めの内容は、それほど特殊なことではないと思います。見方にもよりますが、ごく普通のテーブルマナーや、一般常識程度のことです。あまりお酒を飲みすぎてはなりませんとか、思慮深く振る舞いなさいとか、良い行いの模範になりなさい、など。

「そんなの、どうでもよいことではないか。たとえそれが教会であっても、たとえそれが聖書に基づいている言葉であるといっても、このわたしの個人の生き方や立ち居振る舞いについて、こうしろ、ああしろと、とやかく言われることなど、真っ平です」と思われてしまうかもしれません。

あるいは、もう少し生真面目な人々からは、「わたしは大酒を飲むのをやめられないし、思慮深い人間にもなれない。まして、誰かの模範になることなど絶対にできません。こんなふうに言われてしまうならば、わたしはキリスト教に入ることができません」と言われてしまう理由になるかもしれません。

そのようないろいろな反応を、わたしたちは、いろんな機会に何度も聞いてきましたので、よく知っています。しかし、だからといって、わたしたちは、その先の言葉を語ることができないわけではありません。

パウロも書いています。「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません」(2・15)。

キリスト教の信仰をもって生きるようになった人々には、体全体の変化、存在そのものの変化がそこに必ず伴うのだ、ということを語ることにおいて、わたしたちは、だれにも侮られてはならないのです。

その意味での「わたしたちの人生における変化」を、パウロは「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」という言葉で表現しています。そこで起こるのは、神の恵みによって救われた人々の人生が、そのことにふさわしいものへと作りかえられるという出来事です。

そして、もう一つ言えることは、生活の変化ということでわたしたちが思い描いてよいことは、この手紙の文脈を考えてみると明らかに、教会の組織とか制度というような次元の事柄と、決して無関係ではありえない、ということです。

パウロが書いているのは、教会の「長老」や「執事」や「監督」(この文脈では「牧師」の意味です)としてふさわしいのはどういう人々であるかとか、教会の交わりを大切にしていくためには、どのような生き方をすべきか、ということです。

ここで問われていることは、地上の教会に集まる人々の姿です。毎週の礼拝や諸集会に定期的に出席するようになるとか、役員として奉仕することなど、です。

このような、教会の具体的・実際的な活動に参加していく中で、わたしたちの生活が、だんだんと作りかえられて行くのです。

もっとはっきり言えば、教会の行事に、わたしたちの生活を重ね合わせていこうとするときに、それが起こるのです。

日曜日は朝早く出かけ、教会の礼拝に出席する。それでは、土曜日のお酒は少し控え目にしましょうとか、できるだけ早く眠りましょう、といった感じのことです。

言ってみれば、その程度のことにすぎません。しかし、そのようなことが、場合によっては、人生の大問題にもなりうるのです。

「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは」という意味は、キリストが十字架の上で御自身の命をささげてくださったことだけではありません。

加えて、フィリピの信徒への手紙2・6〜7に書かれているように、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」というクリスマスの出来事を含んでいます。

神の御子が人間となられたこと自体が、わたしたちのために御自身をささげてくださることなのです。

それは、「わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだった」とパウロは言います。「良い行いに熱心な民」、これが教会です。

神の御子が地上の人間としてお生まれになったのは、キリストの体なる教会をこの地上にお立てになるためです。

クリスマスの出来事の目的は、地上に教会を生み出すためです。それは、教会に連なる人々が「良い行いに熱心な民」となり、教会の中で、良い行いを行い、良い人生を生きることができるようになるためです。

クリスマスイブに、このように、みんなで教会に集まって礼拝をささげることも、そうです。クリスマスに最もふさわしいことは、教会に集まることです。

教会には、高級ホテルのようなディナーも、豪華な飾りも、美味しいお酒もありません。しかし、ここにはわたしたちの心を満たしてくれるものがあります。神の恵みがあります。

今夜初めて教会の礼拝に来てくださったという方は、ぜひメールで感想を寄せてください。プレゼントを差し上げたいと思います。

「よかった」でも「つまらなかった」でも構いません。わたしたちはこれがクリスマスの本当の祝い方であると信じています。そのことを、すべての人々に分かっていただきたいのです。

(2004年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイヴ礼拝)



2004年12月19日日曜日

この喜びの日を祝おう クリスマス礼拝

ルカによる福音書2・8~20


2004年度 松戸小金原教会クリスマス礼拝


関口 康


今日は、クリスマス礼拝です。わたしたちは、今日、救い主イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いするために集まってきました。


また今日、三名の方々が新しく松戸小金原教会の会員になりました。本当に素晴らしいことであり、大いに喜ぶべきことです。


この喜びの日を、みんなで心からお祝いしたいと思います。


「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」


「主の栄光」とは、そこに主なる神御自身がおられることを示す、天の光です。その光が彼らの周りを照らしました。


そのとき、何が起こったのでしょうか。天におられる神が、彼らに近づいてこられた、ということです。しかし、それだけではありません。神のおられる天そのものが、彼らのいる地上の世界へと、近づいてきたのです。


「天」と申しました。これを「天国」と呼ぼうと、「神の国」と呼ぼうと、同じことです。それぞれに別の場所があるわけではありません。


「天」とは神がおられる場所のことです。それはどこなのか、ということについては、説明しがたいものがあります。神がおられる場所が「天」なのです。


そして、この天が地上の世界に近づいてきた、ということは、天とは動くものである、ということです。


そのように考えるのでなければ、わたしたちキリスト者がいつも祈っている「御国を来たらせたまえ」という主の祈りの言葉の意味を理解することはできません。


「御国を来たらせたまえ」とは「御国が来ますように」、つまり、神のおられる天そのものが、わたしたちのいる地上の世界へと近づいてきますように、という意味です。


わたしたち夫婦が、事あるごとに二人の子どもたちに言い聞かせていることは、こうです。一般的には理解されないことかもしれません。


「ぼくたちは、『死んだら天国に行く』のではないよ。天国のほうから、ぼくたちのほうに来てくれるんだよ。天国は『行くところ』ではなくて、『来てくれるところ』なんだよ。そんなふうに、いつも祈っているじゃないか」。


救い主イエス・キリストがお生まれになったとき、ベツレヘムの羊飼いたちのいる場所で起こった出来事も、まさにそのことでした。「主の栄光が周りを照らした」。天国が、彼らに近づいてきたのです!


しかし、彼らは、そのことを、非常に恐れました。当然のことかもしれません。


天国が近づいてきた、ということを、わたしたちならば、どのように考えるでしょうか。


やはり、そこでどうしても考えてしまうことは、地上の人生がついに終わる、ということではないでしょうか。「お迎えに来る」という言い方があるくらいです。


羊飼いたちが自分の死を覚悟しなければならないほどの苦境に立たされていたかどうかは分かりません。厳しい労働を強いられていたとか、生命の危険があった、というようなことは、どこにも書かれていません。


しかし、人生の終わりは、ある日突然、何の予告もなく、やってくることがある、ということも事実です。天国が向こうから突然近づいてくる、ということは、人間の恐怖の理由でもあるのです。


ところが、天使の言葉は、羊飼いたちに、安心と喜びを与えるものでした。


「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」


天使が告げたのは、大きな喜びの知らせでした。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という知らせでした。


ひとまず明らかなことは、「天国が近づいてくる」という出来事の意味は「わたしの人生が終わる」ということだけではない、ということです。


「わたしたちのために救い主がお生まれになる」ということも、言葉の十分な意味で「天国が近づいてくること」なのです。


神の御子イエス・キリストは、わたしたちと同じ姿で、わたしたちのいる地上の世界にお産まれになりました。それは、わたしたちのいるこの地上に、真の救いがもたらされた、ということです。


わたしたちがイエス・キリストとの出会いを果たし、救われる場所は、この地上において、なのです。


なぜわたしは、このようなことを強調するのでしょうか。わたしたちの時代に生きている多くの人々が、地上での生活に絶望しているからです。


もちろん、それは今に始まったことではありません。


地上には救いがない。世界は邪悪な力で満ちている。暴力があり、殺人があり、戦争がある。わたしたちは、ここでどんなに長く生きていても、何の救いもないし、喜びもないし、希望もない。


そのように感じている人々、人生が嫌になっている人々が、たくさんいるのです。


しかし、そうではないのだ、と。この地上に、あなたがたのために、救い主がお産まれになったのだと、主なる神は、天使を通して、羊飼いたちに教えてくださいました。


死んだら天国に行けるのだから、早く天国からお迎えに来てもらいたい。地上の人生など一刻も早く終わりにしたい、などと考えるのは、やめなさいと、主なる神は、わたしたちにも教えてくださっているのです。


たとえ、傷だらけ、あざだらけの人生であるとしても、です。生きることが大切です。そして、この人生の中で、救い主なるキリストと現実に出会い、現実に救われることこそが大切なのです。


天使は、羊飼いたちに、今日お産まれになった乳飲み子は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている、と教えることによって、その方を探しに行くように促しました。


救い主は、あなたがたのすぐ近くにおられる。歩いて行ける距離に、同じ町の中におられる。そして、「その方だ」と、見ればすぐ分かるようなお姿をしておられる。


そのことを、天使を通して、主なる神は、彼らに教えてくださいました。


なぜ飼い葉桶なのか、なぜ家畜小屋なのかについての説明はありません。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と書かれています。しかし、これは原因ではあっても、理由ではありません。


ただ、おそらく一つだけ、わたしたちに知らされていることがあります。


それは、ここで「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」ということこそが、羊飼いたちがその方を救い主であると識別するための「しるし」である、と語られていることです。


ここで考えさせられることは、ベツレヘムの羊飼いたちが、そのとき置かれていた境遇は、どのようなものであったか、ということです。


言い換えるなら、“彼らにとって”、その方こそが救い主であると“感じる”ことができる姿は、どのようなものであったか、ということです。


わたしたち自身のこととして考えてみると、よく分かるでしょう。“わたしたちにとって”、その方こそが救い主であると“感じる”ことができる姿は、どのようなものでしょうか。


おそらく、わたしたちの多くは、「ごく普通の生活」をしています。そういう自覚があると思います。


この、ごく普通の生活をしている、ごく普通の人間たちにとって、自分自身の生活感覚からして、あまりにもかけ離れた姿を持つ存在を「わたしの救い主」と信じて告白することができるでしょうか。


「わたしの救い主」は、少なくとも、まさか、人生のすべてを贅沢で埋め尽くしているような存在の姿ではないだろう、と思われるのです。


贅沢のすべてがいけない、という話ではありません。わたしは今、そういう話をしようとしているのではありません。


しかし、貧しさや飢えに苦しんでいる人々が現実に存在するにもかかわらず、そのようなことに関心も配慮もなく、贅沢な人生を送っているような存在を、誰が尊敬するでしょうか。そんな救い主を、誰が信じるでしょうか。


むしろ、誰よりも貧しい姿で、枕して眠る場所もないような苦境に置かれている、そのようなお方こそ、わたしたちの人生の柱とし、支えとして信じ、受け入れるべき存在なのである、ということが語られているのです。


「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」


ベツレヘムの平原に、天使の賛美の歌声が、響きわたりました。この歌の内容も、神のおられる天とわたしたち人間の住む地上の世界との関係は、どのようなものであるのか、ということに関わっています。


そして、ここでも思い起こすべきは、「御国を来たらせたまえ」という祈りの言葉です。神の御子イエス・キリストのご降誕によって、神の栄光が輝く御国が地上に近づいてきたのです。


地上で、ひとが救われるのです。現実の救いを、地上で体験できるのです。


そして、その救いは「地上の平和」という形でもたらされるのだ、と信じてよいのです。


「地上の平和」などないではないか、と叫びたくなるような現実の中にあっても、です。わたしたちは、それを熱心に祈り求める必要があります。


地上にいるかぎり、その祈りをやめることはできません。その祈りをやめるならば、まさに、真の絶望に陥るのです。


「地には平和、御心に適う人にあれ」という訳は適切なものです。しかし、ギリシア語の原文を見ますと、もっと端的で、もっと意味深い言葉が書かれていることが分かります。


「御心に適う人」〔アンスローポイス・エウドキアース〕の「御心」〔エウドキア〕とは、わたしたち改革派教会が重んじるウェストミンスター信仰告白などでグッド・プレジャー・オブ・ゴッド(Good pleasure of God)と訳されている言葉です。


グッド・プレジャー(Good pleasure)のグッド(Good)は「善い」であり、プレジャー(pleasure)は「喜び」という意味です。ですから、直訳するならば「神の善い喜び」ということになりますが、そのような日本語はありません。「善意」とか「好意」と訳すことはできるでしょう。


しかし、それこそが、ここで「御心」と訳されている言葉の真意です。そうだとすれば、せめて、「喜びに満ちあふれた神の御心」と訳したいところです。神の御心の中身は「喜び」なのです!


「御心に適う人」とは「喜びに満ちあふれた神の御心に適う人」のことであり、要するに「喜びの人」です。


それは"永遠に神を喜ぶ"人です。しかし、それだけではありません。


だれよりも先に神御自身が「喜ぶ存在」である、ということを知り、神の喜びをわたしの喜びとして受け入れ、わたし自身が喜びに満たされて生きることができる人のことです。


地上に平和が実現することを神御自身が喜んでくださるのです。その喜びをこのわたしの喜びとすることができる人。それが「御心に適う人」です。


救い主イエス・キリストのご降誕という出来事の真の意味は、父なる神が、御子をお遣わしくださったことによって、御子を信じる者たちが、この地上の人生を喜ぶことができるようにしてくださった、ということです。


救いも、平和も、喜びも、生きながらにして体験し、味わうことができるものなのだ、ということを、神御自身が示してくださったのです。


歩いて行ける距離のところに、救いが実現しているのです。


だからこそ、です。


人生に絶望してはなりません!


恐れることなく生きていきましょう!


遠慮なく喜びましょう!


わたしたちの救い主は、いつもわたしたちと共におられるのです。


(2004年12月19日、松戸小金原教会主日礼拝)




2004年12月12日日曜日

イエスの誕生

ルカによる福音書2・1〜7


関口 康


今日の聖書の個所に記されているのは、神の御子イエス・キリストのご降誕の次第です。


神の御子は、人間の母マリアからお産まれになりました。お母さんのお腹が大きくなり、そのお腹の中から子どもが産まれるという、そのこと自体はどこにでもある、ごく普通の出来事が起こりました。


しかし、そのようにして産まれた子どもは、神の御子であられました。決して普通ではない、全く特別な出来事が起こったのです。


「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」


当時のユダヤは、ローマ帝国の属国でした。ルカは、イエス・キリストの誕生の出来事を、ローマ皇帝アウグストゥスが、ユダヤを含むローマ帝国の全領土の住民に、住民登録をするようにとの勅令を出した、という歴史的出来事へと関連付けています。


住民登録の目的は、ローマ帝国に税金を納める義務を負う人々の数を調べることであったと言われます。その「最初の」住民登録が実施された、ということは、このとき以前には実施されていなかったことを示しています。


これは明らかに、ローマ帝国によるユダヤへの締め付けが、それまで以上に強化されたことを意味しています。


税金の問題、と言われると、わたしたちにとっても決して他人事ではないでしょう。毎日の生活に直接かかわる事柄です。


生活上の苦しみが増し加わるとき、人々の心の苦しみも必ず増し加わります。ユダヤの人々にとっては間違いなく屈辱的なことでした。しかし、逆らう術を持たない一般市民には、どうすることもできないことでした。


「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」


ヨセフとマリアも、住民登録をするために出かけました。出かけ“なければなりません”でした。マリアは身重の体で、ヨセフはマリアをかばいながら、長く苦しい旅をしなければなりませんでした。


ごく普通に考えてみて、妊娠中の女性が長旅を強いられるというのは、ひどい話です。ドクターストップものです。また、どんなことであれ、否応なく、強制的に何かをさせられる、ということ自体、腹立たしいことです。


しかし、そのようなこともまた、力なき一般市民にとっては抵抗することのできない運命として受け入れざるをえないことでした。


しかしまた、ルカがこのことを記している目的は、ただ単に、力なき彼らが従わざるをえなかった過酷な運命を描くことだけではない、と思われます。

実際、ルカは、たとえば、彼らの置かれた境遇はどんなものであったのか、とか、そのとき彼らが感じたことは何であったか、というようなことについては、一言も記していません。「彼らは嫌々ながら出かけて行った」とか「ローマ皇帝の勅令を怨みながら出かけて行った」というようなことは、一切書いていません。

むしろ、ルカが積極的に記していることは、御子イエス・キリストがお産まれになった場所が、ヨセフが住民登録をするために出かけて行ったダビデの町ベツレヘムであった、ということです。

明らかに「強いられた」という仕方で行かざるをえなかった彼らの旅行の行く先として指し示されたベツレヘムの地で起こった出来事は、主なる神がイスラエルの民に約束してくださっていたことの実現として起こったことである、ということです。

キリストがベツレヘムでお産まれになることについての聖書的根拠に関しては、マタイによる福音書2・4以下に書かれていることが、参考になります。

イエス・キリストがお産まれになったことを知って駆けつけた東方の博士たちの言葉を聞いたヘロデ王が、民の祭司長たちや律法学者たちに、メシアの生まれる場所について聖書にはどう書いているかを調べさせた結果、彼らは次のように答えました。

「彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」』」

ここで彼らが引用しているのは、旧約聖書のミカ書5・1です。ただし、実際のミカ書を見ますと、内容は違っているように見えます。

「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」

このような違いがどうして起こったのかは分かりません。しかし、ベツレヘムからイスラエルの牧者ないしイスラエルを治める者が出る、という最も大切な点については、一致しています。

ですから、このように語ることができます。

待望されたメシアは、ベツレヘムで産まれる。そのことは、あらかじめ約束されていた。その約束の成就が起こるために、ヨセフとマリアは、ベツレヘムに出かけなければならなかった。

ところが、彼らが出かけなければならなかった直接の原因ないし理由は、ローマ皇帝アウグストゥスの命令であった。アウグストゥスがそれを命令したのは、彼自身の政治的野望の具体化でもあった。

そうであるならば、アウグストゥスの野望は、彼自身の思いや計画を越えて、メシアとしてのキリストがベツレヘムで産まれる、という主なる神御自身の約束の実現のために「用いられた」と理解する他はない、と。

わたしは今、このように語りながら、とんでもないことを口にしているような気がしています。ローマ皇帝の政治的野望は、神御自身がお与えになったものである、と言っているのと同じことですから。そんなことがあってたまるか、とお叱りを受けるかもしれません

しかし、このようなことが実際にありうる、ということは、じつは、聖書のそこかしこに見出すことができます。

最も有名な個所の一つは、旧約聖書・出エジプト記の最初の部分に登場するエジプト王ファラオの例です。

主なる神は、モーセに対し、エジプトにいるイスラエルの民を約束の地カナンに連れて行くようにお命じになります。ところが、そのモーセたちのエジプト脱出計画をエジプト王ファラオが再三にわたって阻止しようとします。

そのファラオの行為は、モーセたちを激しく悩ませ、苦しめるものとなるのですが、なんと、ファラオの心をそのように頑なにしているのは、他ならぬ主なる神御自身である、ということが、はっきりと書かれているのです(出エジプト記7・3など)。

他にも、似たような例があります。

創世記37章以下に出てくるヨセフ物語を、皆さんはよくご存知であると思います。ヤコブの十一番目の息子ヨセフが、父の寵愛を受けていたことを、十人の兄たちが妬み、弟ヨセフをエジプトの奴隷商人に銀二十枚で売り飛ばしてしまう、という物語です。

ところが、そのヨセフが、なんと、エジプトの国務大臣になります。そして、ヨセフの兄弟たちが飢饉に悩まされ、エジプトに助けを求めに来たときに、彼らの命を助ける役目を、ヨセフ自身が果たします。

そのときにヨセフが、かつて彼自身を売り飛ばした兄弟たちに対して語ったのが、次の言葉でした。

「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(創世記45・4〜5)。

もちろん、これは、ヨセフ自身が語った一種の信仰告白です。しかし、彼が信じ、かつ告白している神のなさったことは、ヨセフを売り飛ばした兄たちの行為は、他ならぬ神御自身のご計画であった、ということに他なりません。

“こんなこと”を、“神さま”がなさるのです。モーセたちを苦しめたファラオの心を頑なにしたのは、神御自身である。ヨセフを苦しめた兄弟たちの行為は、神御自身のご計画である。“こんなことをなさる神”を、聖書は証ししているのです!

そして、そうであるならばこそ、イエス・キリストが約束の地ベツレヘムでお産まれになるために、身重のマリアと夫ヨセフに苦しい長旅をさせたローマ皇帝アウグストゥスの政治的野望もまた、神御自身のご計画にあって「用いられた」のだ、と語ることができるのです。

ひどい話といえば、こんなにひどい話はない、と言わなければならないほどです。しかし、これこそが、神さまのなさり方です。

主なる神は、わたしたちには思いも寄らない仕方で、想像を絶する仕方で、天地万物を支配し、保ち、御心のままに導いておられます。神のご計画の量りがたさを思わずにはいられません。

主なる神御自身が天地万物を支配しておられ、悪魔的な人々のわざでさえもご自身のご支配の下に置いておられるというこの信仰を、わたしたちは、「神の摂理」を信じる信仰と呼びます。

ハイデルベルク信仰問答の第27問に「神の摂理」についての解説が記されています。

「神の全能の、いま働く力です。神はこの力によって、天と地と、その中にあるすべての被造物を、いまも、手で支えるように、保持しておられます。また、神がこの力によって、これらを統治しておられますので、木の葉も草も、雨も旱魃(ひでり)も、豊かな実りの年も実らぬ年も、食べ物も飲み物も、健康も病いも、豊かさも貧困も、これらすべてが、偶然にではなく、慈しみ深き父としての神の御手から、わたしたちに届くのであります。」

「実らぬ年も」です。「病い」も「貧困」も、と告白されています。神の摂理というと、神からいただく良いものばかり、と考えがちですが、わたしたちを苦しめ、困らせるものも、摂理的に与えられるものなのです。

「神さま、そんなものは要りません。どうか取り除けてください」と、思わず言いたくなるかもしれません。

しかしまた、神の摂理というものは、わたしたちにとって、嫌なことばかりであり、主なる神への不信感の原因となるばかりである、というわけでは決してない、と語ることができます。

視野を少し広げて考えてみると分かります。モーセたちの邪魔をしたファラオも、ヨセフを売り飛ばした兄弟たちも、ヨセフとマリアを苦しめたアウグストゥスも、すべては主なる神の力強いご支配の下にある罪人たちにすぎないことが、分かるのです。

そして、そのような悪魔的な人々をも、主なる神は、御自身のご支配の下に置いておられます。神の許しなしには、彼らもまた、何一つ行うことができないのです。

そうであるならば、神を畏れる者たちは、そのような悪魔的な人々を恐れる必要が全くありません。彼らは、まさか神ではなく、神以上の存在でもないのです。

この信仰を告白することができるとき、わたしたちは、まことの神だけを畏れ、他の何ものをも恐れない、まことの強さを身につけることができるのです。

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

ヨセフとマリアには、さらに嫌なことが続きました。

彼らは、目的地であるベツレヘムには、何とか到着しました。そして、マリアは、初めての子どもを産みました。ところが、その子どもを飼い葉桶に寝かせた、というのです。

どこの親が、自分の子どもを、飼い葉桶に寝かせたいと思うでしょうか。ありえないことです。

しかし、ルカは、彼らの心の中の思いを描き出すことなしに書いています。このこと自体は驚くべきことです。

また、一つ指摘しておきたいことは、今日の個所にはまだ、イエス・キリストのご降誕に伴う"喜びの要素"が全く語られていない、ということです。

どちらかというと、嫌な話ばかりです。"苦しみの要素"ばかりです。「神の摂理」とは、これほどまでに過酷で苦しいものなのか、と思わせられるようなことばかりです。

また、このたび初めて気づかされたことがあります。

マタイによる福音書でも、ルカによる福音書でも、イエスさまがお産まれになったとき、ヨセフやマリア自身が「喜んだ」とは書かれていない、ということです。

東方の博士やベツレヘムの羊飼いの「喜び」については書かれています。ところが、ヨセフとマリアの「喜び」については、どこにも書かれていません。まるで、彼ら自身は喜んでいなかったかのようです。

しかし、どうかご安心ください。

神の摂理のみわざの下にあって本当の苦しみを苦しみぬいたこの夫婦に、本当の喜びが与えられました。

まさに東方の博士たちが、羊飼いたちが、小さな羊たちが、天使の軍勢が、御子のご降誕を、心から喜んでくれたではありませんか。

マリアとヨセフとしては、「産みの苦しみ」をさんざん味わわされ、閉口するばかりだったかもしれません。

しかし、彼らの苦しみの結果として起こった、神の御子イエス・キリストのご降誕の出来事を、心から喜ぶ人々の笑顔を見て、大いなる慰めを得たに違いありません。

今日の午後、日曜学校のクリスマス会を行います。子どもたちが、クリスマス劇をしてくれます。一生懸命に準備してくださった先生たちと生徒の皆さんに、感謝いたします。ご苦労もあったと思います。

今日こそ、みんなで楽しもうではありませんか!

(2004年12月12日、松戸小金原教会主日礼拝)




2004年12月11日土曜日

わたしはあなたと共にいる


ヨシュア記1・5~9

今日は、初めて日本国際ギデオン協会千葉北支部の例会に出席し、奨励の奉仕をさせていただくことができますことを、心より感謝しております。

わたしは松戸小金原教会に今年の4月に赴任しました。3月までは山梨県の教会におりました。その前は、高知県や福岡県の教会で、牧師として働いていました。

わたしの行く先々に、ギデオン協会支部があり、非常に活発な活動がなされていました。高知県にいたときに、高知で全国大会が行われました。福岡県に行きましたら、次の全国大会は福岡県で開きましょうという計画を聞かされました。

全国大会が開催される地域のギデオン協会の支部は、ふだんから活発な活動がなされているところではないでしょうか。

そして、ギデオン協会といっても、そこに参加しているのは、その地の教会の信徒の方々です。間違いなく言いうることは、ギデオンが活発な地域では、教会も活発であるということです。

また、活発であるだけではなく、健全です。聖書の御言を少しでも多くの人々に何とかして読んでもらいたいという動機が、不純なわけがないのです。

そして、どの地の教会でも、ギデオン協会に関わっている人々の多くは教会の役員です。その教会の中で柱となっている方々です。

わたしの確信は、ギデオン協会が活発である地域は、教会が活発になり、健全になる、ということです。これは、お世辞で言っているのではなく、本当にそう思っております。

さて、先ほど司会の方が、旧約聖書のヨシュア記1・5~9を読んでくださいました。モーセの後継者ヨシュアに対して、主なる神御自身が語られた御言葉です。わたしの本当に大好きな御言葉でもあります。

「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」

神の民イスラエルは、40年の間、モーセという力強い指導者に率いられて、カナンの地を目指して、砂漠の旅を続けてきました。

しかし、人間に与えられた地上の命は、永遠に続くものではありません。わたしたち信仰によって生きる者たちには、永遠の命というものが約束されているにせよ、とにかく一度は死ななければなりません。とにかく一度は、死の力が、わたしたちの行く手をさえぎるのです。

神の民イスラエルに起こった問題も、まさにそのことでした。指導者モーセが死んだ。そのため、すみやかに、指導者の交代が起こらなければならなかったのです。

そこで、主なる神が神の民イスラエルの次の指導者としてお選びになったのが、ヨシュアでした。モーセは、主の命令に従い、ヨシュアにすべての職務を委ねました。

しかし、当時のヨシュアは、誰の目から見ても頼りなさを感じる、年若い人物でした。年令がすべてではないと言われるかもしれませんが、指導力やカリスマ性から考えると、天と地ほどの差があった、と思われるのです。

また、この種の問題は、周りの人々がどう見るかということよりも、本人の自覚や思いはどうか、ということのほうが重要だったりします。

「わたしは、まだ若いので、指導力が足りない。そのような重い責任は、わたしには負いきれない」と自分で思い込んでしまう。そう感じた途端、腰や足の力が抜けて、やる気を失い、指導力を発揮できなくなる人々もいるのです。

ヨシュアはどうだったでしょうか。彼自身は、弱音を吐かない人でした。彼の弱音を記した個所は、聖書の中には、ほとんど見当たりません。

しかし、それは彼が強かったからでしょうか。精神的にも・肉体的にも強靭な人物だったからでしょうか。そうではないでしょう。

むしろ、主なる神御自身が、ヨシュアに対して、いつも、「わたしは、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」と語りかけ、励まし続けてくださったから、重い職務を担うことができたのです。

神の御言が彼の存在とわざを、年若き頃から地上の人生の終わりに至るまで、力強く支え続けたのです。

少し気になる点を指摘しておきます。「わたしはモーセと共にいたように」(5節)とか、「わたしの僕モーセが命じた律法を」(7節)と書かれている個所です。

ここで強調されていることは、ヨシュアは、あくまでも「モーセの後継者」である、ということです。それ以上でも・それ以下でもない、ということです。

実際問題として言いうることは、初代の開拓者と二代目以降の後継者との間には、根本的な違いがある、ということです。このことは、否定したくてもできない、動かしがたい事実であり、現実です。

牧師仲間たちの中にも、初代の開拓者と比較されて、悩んだり、苦しんだり、腹を立てたりする人々を、しばしば見かけます。

しかし、わたしは、この種の問題については、よくも悪しくも開き直るしかない、と受けとめています。

開拓者には開拓者に固有な喜びと悩みがあり、後継者には後継者に固有な喜びと悩みがあるからです。

今日の例会の中で、この聖書の個所が読まれた理由を、わたしは知りません。千葉北支部の課題として、世代交代の問題があるのでしょうか。そんなことも全く知りません。もしかしたら、的外れなことを申し上げているのかもしれません。

しかし、今日皆さまにお勧めいたしますことは、主なる神を信じて歩みましょう、ということです。そして、良い意味で開き直って行きましょう、ということです。

あの牧師、あの役員、あの会員は年が若いとか、何が足りないとか、何をしてくれないと、不平不満を言い出したら、きりがありません。この種の不平不満は、世代交代期には避けられないことです。しかし、取るに足らない者を主の御用のために用いてくださる神の選びと召しとを信じて、歩んで行きたいと願います。

そして、主がヨシュアに対して「わたしはモーセと共にいたように」とお語りになったように、今や主は、わたしたちに対しても「わたしはモーセとヨシュアと共にいたように、あなたと共にいる」とお語りになります。イエス・キリストを信じるすべての人々と共に、主なる神が生きて働いてくださいます。

「あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」

これは、わたしたちにも、今、主なる神御自身が語りかけてくださっている御言葉です。

ギデオン協会千葉北支部の働きが祝福されますよう、お祈りしております。

(2004年12月11日、日本国際ギデオン協会千葉北支部例会、日本キリスト教団柏教会)



2004年12月5日日曜日

マリアの賛歌

ルカによる福音書1・46~56

わたしたちは今日、アドベント第二主日を過ごしております。

わたしたちはアドベントを「待降節」と訳しますが、アドベントという言葉自体には「待つ」という意味はありません。アドベントの意味は「来る」です。「待望」ではなく「到来」です。

神の御子イエス・キリストがわたしたちのところに到来してくださるのを待ち望む。かつて来てくださり、やがて再び来てくださる主の到来を待ち望む。これがアドベントにふさわしいことです。

さて今日の個所に記されていますのは、マリアの歌です。天使ガブリエルによって救い主イエス・キリストのご降誕の事実を告げられたマリアがうたったとされる歌です。

この歌は、日本でもラテン語で「マグニフィカート」と呼ばれることがあります。この歌の最初の歌詞である「わたしの魂は主をあがめ」はMagnificat anima mea Dominum(マグニフィカート・アニマ・メア・ドミヌム)といいます。この中の「あがめる」を意味するマグニフィカートが、この歌のタイトルとして覚えられてきたのです。

マリアはこの歌をヨハネの母エリサベトの前で歌いました。エリサベトは聖霊に満たされて「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と言いました。「そこで」マリアは、歌ったのです。

歌の内容に入る前に、エリサベトの言葉の中の最も大切な点を以下三点のみ指摘しておきます。

第一点は、エリサベトがマリアのことをはっきりと「わたしの主の母」と呼んでいる、ということです。

「主」とは、明らかに、神御自身を指して言う言葉です。ですから、エリサベトの言葉は「わたしの神の母」と言っているのと同じである、ということです。マリアは「神の母」と呼ばれたのです。実際、古代教会において、マリアは「神の母」を意味するテオトコスと呼ばれました。

これは異端的な表現ではありません。マリアの存在を正しく適切に示す表現として、教会において正統的に受け入れられました。わたしたちの教会の信仰によると、イエス・キリストは端的に神御自身である、と告白しなければならないのです。

第二点は、エリサベトの言葉の中に出てくる、マリアの挨拶の声を聞いて喜んで踊った「胎内の子」とは、バプテスマのヨハネのことである、ということです。

とくに興味深く感じましたのは「踊った」というこの表現です。非常に面白い表現ですし、またとても素晴らしい翻訳であると感じました。

外国の聖書を調べてみましたところ、たいていの場合「喜んで跳ねる」(leap for joy; huepfen vor Freunde; van vreugde opspringen等)という意味の言葉で訳されていました。

しかし日本語の「踊る」は明らかにダンスを連想させます。ダンシング・ベイビーです!この幼子こそがバプテスマのヨハネなのです。

第三点は、エリサベトがマリアに語りかけた言葉とマリアの歌との間には関係があるかどうか、ということです。

マリアの歌の内容は必ずしも、エリサベトの言葉への返事とは言えないと思われます。そのような対応関係は見当たりません。むしろ、マリアが歌っている内容は、彼女自身の体験です。全く個人的な体験です。

また、もう一つ明らかなことは、このマリアの歌には明らかにモデルがあったということです。旧約聖書サムエル記上2・1〜10の「ハンナの祈り」です。読み比べてみると非常に似ていることが分かります。

マリアは当然「ハンナの祈り」の言葉を聖書を通して学び、よく知っていたに違いありません。マリアは、それを思い起こし、ハンナの体験と自分自身の体験とを重ね合わせて見ているのです。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

「わたしの魂は」とか「わたしの霊は」と言われています。ハンナの祈りでは、「わたしの心は」と言われています。これは、「わたし自身は」という意味です。

旧約聖書の言語であるヘブライ語には、自分自身(I myself)とかそれ自体(itself)ということを表現するためのselfに当たる再帰代名詞が存在しないので、このように表現するしかなかったと言われます。マリアはこの旧約聖書的な表現を、ハンナの祈りから受け継いでいます。

わたしの「魂」や「霊」だけが、あるいは「心」だけが、神を讃美するのではありません。このわたし自身の存在そのものが、そしてわたしの全身全霊が、救い主なる神を讃美するのです。

「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」

マリアは、わたしが救い主なる神を喜び、讃美する理由は何であるかを述べています。

その際、彼女は自分のことを「身分の低い、主のはしため」と呼んでいます。この表現はハンナの祈りにはありません。

これについては、二つの読み方が考えられます。

本当は身分が高いのに、謙遜の表現として、自分自身をおとしめている、というような読み方がありえます。

しかし、そうではないという読み方もありえます。後者のほうが正しいと、わたしは考えます。マリアは当時のいわゆるこの世的な価値判断においては実際に「身分が低い」と見られても仕方がないような境遇や立場にあったのです。

裕福であるとはとても言えない。人から誉められたり羨ましがられたりするようなところも、特に何もない。むしろ、人から軽んじられることのほうが多いと感じる。

そのようなことで悩んだり、なんとなく憂うつな気持ちになったり、人生に絶望したりしている人は、おそらく非常に多いのだと思います。

しかし、何も持っていないほうが気楽と感じることもきっとあるでしょう。そのほうが多いかもしれません。

あの人はたくさん持っている、と思われている人が、意外に不満だらけの人生を送っているということがありえます。ごく一般論として「世の中にはお金で買えないものがある」と言われるではありませんか。

マリアは、人からうらやましがられるようなものをわたしは何一つ持っていない、と自覚しています。しかしわたしは幸せである。わたしの心は喜びで満たされている。そして今や神を喜び、讃美している。なぜなら、神がこのわたしのことを顧みてくださったからである、と歌っているのです。

「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」

これは、マリアが本当に喜んでいた様子がよく分かる表現であると思います。

たしかにマリアは、自分が神さまから顧みられたことを喜んでいます。しかし、その彼女は明らかに、そのことをできるだけ多くの人々に知らせたいと願っていることが分かるのです。

なぜならば、マリアのことを、今から後、いつの世の人も、"あの人は幸せ者である"と語り継いでいくためには、まず最初にマリア自身が、自分の身に起こった出来事を多くの人々に語る必要があるからです。この喜びを誰かに伝えたいという意思が伝わってくるのです。

ただし、そうは言いましても、ところ構わず、だれかれなしにそういう話をしますと、自慢話のように聞かれてしまいます。煙たがられたり誤解されたりすると思いますので注意が必要です。

教会なら大丈夫です。同じ信仰を持つ仲間ならば、安心して「神さまの話」「信仰の話」ができます。

実際、そのことは、マリアにも当てはまるでしょう。「今から後、いつの世の人も」彼女を幸せ者であると言うのは、そのことを語り伝える聖書と教会があるからです。聖書と教会の存在を抜きにして考えることは、できません。

「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

ここは、マリアの歌の中で、おそらく最も具体的なことが語られている個所でしょう。ただし、ここで歌われている内容は、かなりの部分において、ハンナの祈りと重なり合います。

 「勇士の弓は折られるが よろめく者は力を帯びる。

  食べ飽きている者はパンのために雇われ

  飢えている者は再び飢えることがない。

  子のない女は七人の子を産み 多くの子を持つ女は衰える。

  主は命を絶ち、また命を与え 陰府に下し、また引き上げてくださる。

  主は貧しくし、また富ませ 低くし、また高めてくださる。

  弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から高く上げ

  高貴な者と共に座に着かせ 栄光の座を嗣業としてお与えになる。」

  (サムエル記上2・4〜8)

上のものが下になり、下のものが上になる。天地万物のすべてが逆さまになっていく様子が、描き出されています。

このことが神の民イスラエルに起こるというのです。「アブラハムとその子孫」に起こる。信仰によって義とされたすべての人は「アブラハムの子孫」であると使徒パウロは言いました。わたしたち教会の者たちも「アブラハムの子孫」なのです。

その出来事についてマリアの歌では「権力ある者をその座から引き降ろす」と言われ、またハンナの祈りでは「勇士の弓は折られる」と言われて、いずれも国家権力とか戦争などを示す、非常にはっきりとした政治的な表現が使われています。

ですから、ここには政治的なことが語られていると考えることもできるでしょう。

しかし、イエス・キリストの存在のみわざは、政治よりもはるかに大きいのです。政治のほうが大きいのではないかと考える人もいるかもしれません。しかし、イエス・キリストは、政治的な問題よりも、より大きく、より根本的な問題に触れているのです。

「思い上がる者を打ち散らす」とあります。傲慢の罪が問題だということです。身分や地位や名誉そのものがただちに悪いわけではないのです。それらのものが人間を傲慢にするかぎりにおいて悪いのです。

この、まさに最も根本的な問題としての「傲慢の罪」から生じるすべての問題を解決するために、救い主が来てくださったのです。

神の御子であられる方が、ご自分の立場を捨てて人間になられました。それによって、まことの「謙遜」を示してくださいました。この最も謙遜なお方を前にして、すべての人の傲慢が明らかにされたのです。

すべての傲慢な人間に“鉄槌”を食らわすために、謙遜な主イエス・キリストが来てくださったのです。

マリアがその人生の中で実際にどのような問題で悩んでいたかということは、わたしたちには知る由もありません。彼女の身近に誰か傲慢な人がいて、困らされていたのでしょうか。そのようなことも、全く分かりません。

しかし人間の傲慢の罪、このわたし自身の傲慢の罪の大きさと深さを知らされるとき、この罪から、このわたしを、わたしたちを、だれが救い出してくださるのだろうか、と祈り願う思いは、時代や歴史、人種や民族を越えて、共通のものがあります。

(2004年12月5日、松戸小金原教会主日礼拝)


2004年11月28日日曜日

受胎告知

ルカによる福音書1・26〜38

「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」

「六ヶ月目に」とあります。何の六ヶ月目なのかということを、最初にご説明いたします。今日の個所を理解するための重要なキーワードであると思われるからです。

見ていただきたいのは1・24です。「その後、妻エリサベトは身ごもって、五ヶ月の間身を隠していた」。このすぐあとに出てくる「六ヶ月目」ですから、これは「妻エリサベト」の妊娠期間を指しているというのが、ごく自然な読み方でしょう。

しかし、これは第一の可能性です。第二の可能性があると思います。そしてわたし自身は第二の可能性のほうを選びたいのです。それは六ヶ月前に起こった出来事との関連で考えられる可能性です。

六ヶ月前に何が起こったかは、1・8以下に書かれています。

「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。』」

この天使はガブリエルと名乗りました。マリアに現れた天使と同じです。そして、この天使の出現からまもなくして、ザカリアの妻エリサベトが男の子を身ごもりました。その名をヨハネと名付けました。のちの偉大な預言者、バプテスマのヨハネです。

それが六ヶ月前の出来事です。そして、六ヶ月目、マリアの前に、再び天使ガブリエルが現われました。つまり、「六ヶ月目」の意味の第二の可能性は、エリサベトの妊娠期間ではなく、天使ガブリエルの出現の間隔を指している、ということです。ルカは、天使の側の動きに注目し、そちらのほうを強調していると思われるのです。

この福音書の中で、次に天使が現われるのはどの場面かを、皆さんはよくご存じでしょう。最初のクリスマスイブです。野宿していた羊飼いたちの前です。「恐れるな」と、その夜も天使は言いました。ザカリアの前でも、マリアの前でも「恐れるな」と言いました。主の天使は、同じ言葉を少なくとも三回、それぞれ違う人々に向かって語りかけました。そのことをルカは、読者に伝えようとしているのです。

ルカがしているのは、要するに「天使の話」であるということです。ですから、これはもちろん、たいへん不思議な話に属します。天使の存在など信じない人々の時代にあっては、こんなのは「神話」であると言って否定する人々が出てきて当然であるとも言えます。

しかし、今日の最初に考えてみたいと願いましたことは、まさにこの問題です。「神話」と言います。「神の話」と書きます。よく考えてみますと、神さまのお名前が出てくる話は、じつはすべて「神話」なのです。

とはいえ、わたしたちの時代において「それは神話である」と言われるなら、ただちにそれは、すべてウソの話である、という意味になってしまいます。ところが、聖書は神の話で満ち満ちています。「神話」で満ち満ちています。ということは、聖書などという書物は、まったくウソに満ち満ちている、ということを意味せざるをえないのです。

しかし、わたしたちは、まさか、聖書のすべてがウソであると考えることはありません。ただ、もし「神話」という表現が誤解を招くようでしたら、「信仰の話」と言い換えるほうがよいかもしれません。なるほど、たしかに言いうることは、聖書の物語はすべて「信仰の話」です。神学も信仰の話です。信仰についての学問的認識です。しかしそれはウソの話ではありません。

次のように理解できるのではないでしょうか。エリサベトとマリア、そして羊飼いたちに天使が現われ、「恐れるな」と語りかけた。このように、彼らが信じたのです。彼らには天使の存在を信じる信仰があり、そして実際に彼らの前に天使が現われたと彼らが信じ、彼らに向かって天使が語りかける言葉を、彼らがたしかに聴いた、と信じたのです。

このことについては、だれも否定できないでしょう。もちろん、彼らの信仰の内容を、わたしたち自身の信仰として受け入れることができるかどうかは、別問題かもしれません。しかし、わたしたちは、彼らの信仰そのものを、否定することはできないのです。

「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」

天使はマリアの前にも現われました。天使がマリアのところに現われた、とマリア自身が信じた、ということでもあるでしょう。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。この言葉に対して、マリアは戸惑ったと書いています。びっくりした、という意味です。

しかし、彼女がびっくりしたのは、天使が現われたこと自体ではありません。天使の存在自体に驚いたわけではありません。

それどころか、34節を見ますと、マリアは、天使に向かって、まるで当たり前のように言葉を返しています。天使と会話しています。彼女は天使の存在に気づかされて驚いたのではないのです。天使が語りかけてきた言葉の内容に、びっくりしたのです。

「おめでとう、恵まれた方」。これがのちに、ラテン語の「アヴェ・マリア」という表現で広く知られるようになりました。

しかし、マリアが驚いたのは「おめでとう」と言われたからでしょうか。おそらくそれも、彼女の驚きの理由に含まれると思います。おそらくそれだけでは、まだ十分な説明にはなりません。これはマリアの時代のパレスチナ地方では、ごく普通に使われていた挨拶の言葉だったからです。

もっと重大な言葉を、彼女は聞いてしまいました。「主があなたと共におられる」と。

「主」とは、神さまのことです。そして、神である主が「あなたと共におられる」ということは、そのとき、ただちに、神の救いがあなたと共にある、ということを意味します。このような言葉を聞くことができるのは、神への信仰をもって生きている人々にとっては、最も幸せなことです。

「主があなたと共におられる」。この言葉だけでも驚愕に価します。しかし、この言葉を聴いたときのマリアは、まだ、その本当の意味を知りませんでした。

「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』」

マリアに告げられた言葉の内容は、ごく大まかに言うと、以下の点にまとめられます。

第一に、あなたは男の子を産むので、イエスと名付けなさい、ということ。第二に、その子は「いと高き方の子」と呼ばれる、ということ。第三に、この子に対して、神はダビデの王座を与えてくださり、ヤコブの家(イスラエルの民)を永遠に支配する者になる、ということです。

第一の「イエス」という名の意味については、ハイデルベルク信仰問答の第29問の答えに書かれているとおりです。イエスとは「救う者」であり、そして「罪の中から救い出す者」という意味です。ただし、このイエスという名前自体は、当時のパレスチナにおいて特別なものではなく、ごく普通のありふれた名前であったにすぎません。

第二の「いと高き方の子」と呼ばれる、ということに関して申し上げることができるのは、「いと高き方」というこの表現自体が意味していることは、必ずしも聖書的・ユダヤ教的・キリスト教的な意味での「神」に限定されるものではない、ということです。もっと広い意味であり、異教の神々や偶像のことさえ意味することがありえました。ですから、結論的に言いうることは、「いと高き方の子」という表現が、そのままただちに「神の子」を意味するというふうに、マリアが最初から理解できたとは思えないということです。

むしろ、マリアにとって最も分かりやすく、また驚くに価すると感じられたに違いないことは、第三の点です。あなたの子に神はダビデの王座を与え、ヤコブの家、イスラエルの民を支配すると言われたことです。要するに、「あなたの子どもは、イスラエルのお偉い政治家になりますよ」ということです。

しかし、これからマリアの身に起こる出来事は、それらのこととは比べ物にならない位に、もっともっと大きなことでした。「神の子」が、このわたしから産まれる。このことがマリアにとって最も驚くべき出来事であったはずです。マリアは、まだ、肝心のことに気づいていません。

「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』」

このときマリアが戸惑っているのは、わたしは、まだ結婚もしていないのに、子どもが産まれるはずがない、というこの点です。加えて先ほどの第三の点、あなたの息子は将来、立派な政治家になります、という知らせにも戸惑っている、と言えます。

しかし、彼女が驚くべきことは、もっともっと大きなことでした。「神の子」が生まれるのですから。マリアがすぐに事態を理解できなかったのは、ガブリエルが「いと高き方の子」というやや曖昧な表現を使っていることにも、責任があるかもしれません。

「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。』」

天使はマリアの気持ちを察してくれた、と言いうるでしょう。マリアの抱いた差し当たりの疑問と不安の内容は、結婚していないのに子どもが産まれることなどありえない、というこの点だけでしたから。

この点については心配しなくてよい、ということです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。そして「神にできないことは何一つない」と、天使は語りました。

「神にできないことは何一つない」は、一種の決めぜりふです。これを言われると、二の句が継げないものがあります。神にできないことは何一つない、と言われると、それ以上語りうる言葉も何一つなくなります。

でも、それでよいのです。神さまがすべてのことを最善に導いてくださるのです。最終局面では、すべてを神さまに任せてしまえばよいのです。

ただ、もしここで、わたしたちが、「マリアの偉大さ」ということを語りうるとしたら、この時点で彼女が次の言葉を語りえた、というこの点であると思います。

「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』」

この意味は、神の御言が、そのままに、自分の身に実現し、成就しますように、ということです。十分には理解できませんが、お任せします、ということでしょう。

しかし、「どうにでもなれ」というような、投げやりな言葉ではありません。神よ、あなたの言葉を信頼し、すべてを委ね、従います、という信頼と服従の表現です。

この言葉を語ることができた人、この信仰深い女性に、主なる神は、御子のご降誕の奇跡のみわざを委ねたのです。

(2004年11月28日、松戸小金原教会主日礼拝)


2004年11月21日日曜日

十字架のほかに誇るものなし

ガラテヤの信徒への手紙6・11~18

「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」

ここで必ず問題になることが二つあります。第一は、なぜパウロはこの部分を「大きな字で」書いたと言っているのか。第二は、なぜパウロはこの部分を「自分の手で」書いたと言っているのか、ということです。

第一の問題は「大きな字」の理由です。考えられる答えの一つは、内容を強調するために大きな字で書いた、ということです。もう一つは、パウロは大きな字しか書けなかった、ということです。

結論から言いますと、前者の説明のほうがよいと思われます。内容を強調するために、大きな字で書いたのです。しかし、後者の説明のほうがよいと考える人々もいます。その理由として挙げられるのが4・12以下に記されていることです。

パウロは、とても重い病気にかかりました。その病気の姿を見たガラテヤ教会の人々はさげすんだり忌み嫌ったりしませんでした。それどころか、自分の目をえぐり出してでもパウロに与えようとしたのです。

ですから、パウロは目の病気にかかったのではないか。パウロの目は、その後も十分に癒されることは無かったのだ。それでパウロは大きな字しか書けなくなってしまったのだ、というわけです。

しかし、パウロの病気が何であったのかは特定できません。その点がはっきりしないかぎり、この問題は解決しません。仮説の上に仮説を重ねて行くことは危険です。それよりも前者の説明のほうがよいでしょう。

第二の問題は「自筆」の理由です。ここに書いてあることを素直に受けとるとしたら、今この個所から、パウロ自身が筆をとって書きはじめた、という意味にとれます。しかし、それなら、これまでの文章は、誰が書いていたのでしょうか。

この問題については、ローマの信徒への手紙16・22の記事がおそらく参考になります。「この手紙を筆記したわたしテルティオ」という名前が出てきます。パウロには、秘書がいたのです。この点は明言されていますので確実に言いうることです。ただし、ガラテヤの信徒への手紙を筆記したのがテルティオだったかどうか、までは分かりません。

しかし、わたしたちにとって大切なことは、この手紙を筆記した人物が誰か、というようなことよりも、むしろ、パウロの伝道活動は、多くのスタッフによる助けとサポートによって成り立っていた、という事実そのものです。

パウロは、自分ひとりで何もかもしていたのではありません。それどころか、彼ひとりでは何もできなかったであろう、というべきです。

誰にも迷惑をかけたくない。わたしひとりで何でもできる。誰の助けも必要ないという思いは、まことに尊いものですが、限界もあるでしょう。

パウロでさえ、自分の手で長い文章を書いたりはしませんでした。伝道旅行にも、必ずパートナーを連れて行きました。旅行先でも、いろんな人々に助けてもらっていました。

「わたしは、誰にも迷惑をかけないで、ポックリ死にたい」と仰る方々がおられます。そのような方々には、どうか、もっとたくさん、周囲の人々に迷惑をかけてください、と申しあげたいのです。教会に大勢の人々が集まっていることの理由を考えてみていただきたいのです。

「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」

今日の個所、この手紙の最後には、この手紙全体の要点が書かれている、と考えることができます。内容的には、繰り返しです。もう一度全体の内容を思い返してみてください。長々と書いてきましたが、わたしの言いたかったことは要するにこの点です、ということを最後に整理し、まとめる意図があると言えます。

ガラテヤ教会の人々に、割礼を受けさせようとした人々がいました。とくに「異邦人」と呼ばれる人々は、ユダヤ人のように、幼いときに割礼を受けてはいませんでした。その異邦人たちにも割礼を受けさせるべきだ、と主張した人々がいたのです。

しかし、パウロは、そのような主張に強く反対し、また、そのようなことを語る人々に向かって激しく抗議しました。そのようなことを語る人々の中には、当時のキリスト教会の最高権威者であった使徒ペトロさえ混ざっていたのです。

そういう人に逆らって何かを語ること自体、とてもたいへんなことであると思います。とくに、当時のパウロは、キリスト教会にとっての"新入り"でしたから。

また、彼にはかつてキリスト教会に対する熱心な迫害者であった、という"前歴"がありましたから。そのような彼が、教会の中で信頼されるようになるためには、かなりの時間や努力が必要だったに違いありません。

しかし、この個所を読みながら、わたしは、もう一つの見方ができるのではないか、と思わされました。

ここでパウロは「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに」と書いています。

これはおそらくパウロの言うとおりなのだとは思いますが、少し微妙な問題が含まれているのでは、とも感じました。とにかく一度、逆の立場から考え直してみる必要があるのではないか。パウロが激しく抗議した人々、とくに使徒ペトロの側にも、いくらか同情の余地があるのではないか、と感じたのです。

どういうことかと申しますと、たとえば、わたしたち自身のこととして考えてみたときに、同じ教会の仲間たちが、誰かから激しい迫害を受けているような姿を黙って見ていることができるでしょうか。死んでも殺されても構わないという決意や自覚は、尊いものかもしれません。しかし、実際に殺されて死んでいく人々を、冷静に直視できる人がいるでしょうか。難しいと思うのです。

たとえば、もし、このときのペトロの行動が「教会のだれ一人、もう二度と傷つけたくないし、失いたくない」という思いに根ざしたものであったとしたら、同情の余地があるはずです。全く理解できない、とまでは言い切れないものが、あるのです。

しかし、パウロの言葉のほうが、全く理解できない、と言いたいわけではありません。そういう意味ではありません。そして、パウロが語っていることこそが、どちらかといえば"弱い人々"の立場に立っていると感じます。パウロは、イエス・キリストへの信仰を告白し、洗礼を受けたばかりの、生まれたての赤ちゃんの信仰者たちの信仰を守ろうとしているのです。

迫害の手を恐れるがゆえに、迫害を受けないように、こちら側の態度を改める、というのは、結局のところ、迫害者の側に身を置くことを意味します。事実上、迫害の正当性を認めることを意味し、当時新しく誕生したばかりのキリスト教会の信仰の自由を否定することを意味します。

しかし、本当にそれでよいのか、というのがパウロの言い分である、と言えるでしょう。迫害に屈してはならないし、認めてもならない。イエス・キリストを信じて生きる自由によって生きはじめた人々の信仰を守り抜くことこそが、教会の牧者の責任ではないのか、ということを、パウロは語っているのです。

「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていません」と書かれています。律法主義者は、少しも律法を守っていない、つまり、神の御心を行っていない、という意味です。律法主義は端的に罪なのです。

迫害を恐れて行動することには、同情の余地があります。しかし、だからといって、罪を是認することはできないのです。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがありますように。」

先ほどわたしは、パウロの道だけではなく、ペトロの道もある、少なくとも同情の余地はありうる、というような話をしました。パウロのように前に進むか、ペトロのように後ろに下がるか、です。

しかし、さらによく考えてみると、そもそも、この点で、行くべきか・戻るべきかということを判断すること自体、わたしたちキリスト者には、もはや許されていないのではないか、という問題も残るのです。

それはなぜか、と言いますと、わたしたちは、まさにパウロが言うように、今はもう、イエス・キリストと共に十字架にはりつけにされてしまっているからです。

キリストへと結び合わされ、キリストと共に生きるようになった者は、十字架にはりつけにされているのです。そこから降りることは、もはやできません。イエス・キリストと共に生きる人生を、途中でやめることはできないのです。

しかし、このことを、わたしは、何か悲壮感のようなものから、申し上げているのではありません。どんなに苦しくてもつらくても、煮え湯を飲まされても、キリスト者であることをやめることができない、というような悲壮感ではありません。

そうではないはずです。わたしたちは、救われたとき、何よりもまず、この人生を喜ぶ道を教えられたはずです。

ある先生は言いました。

「騙されたと思って、信じてください。わたし自身は、キリスト者になったこと、この信仰に生きるようになったことを、ただの一度も後悔したことはありません。」

わたしも、本当にそうだと思います。しかし、わたしは少し違った言葉でお勧めします。

「決して騙したりはしません。騙されたとは思わないで、信じてください。わたし自身は、キリスト者になったこと、この信仰に生きるようになったことを、ただの一度も後悔したことはありません。」

なぜなら、信仰によって生きるとき、わたしたちには人生の喜びが与えられるからです。罪の泥沼の中で、這いずり回り続ける苦しみから解放されるからです。

だからこそ、パウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものがあってはならない」と書いています。「大きな字で、自分の手で」書いています。

わたしには、他に誇るものは何もない。何の取り柄もないし、善いところもない、と感じる。人に見せびらかすことができるようなものは、何一つ持っていない。

しかし、わたしの誇りは、十字架である。十字架につけられて死んでくださった救い主イエス・キリスト、そして、イエス・キリストと共にこのわたしがはりつけにされているこの十字架を、わたしは誇る。

あの十字架、あの救い主イエス・キリストの贖いの死ということなしには、わたしたちは、罪の中から決して救われることはなかったのです。

十字架を誇る、とは、わたしが(キリストの十字架によって)罪から救われていることを誇る、ということでもあります。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」

最後の最後に、パウロは、またなんだか、ぶっきらぼうで、嫌味っぽい感じのことを書いています。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい」。

こんな手紙を二度と書きたくない、という意味かもしれません。この手紙の中には、ケンカ腰で書いたとしか思えない、非常に乱暴に書きなぐった感じの部分もありました。こんな手紙は二度と読みたくない、と思われてしまうかもしれません。

しかし、彼はただ、分かってほしかっただけなのです。パウロの願いは、信仰によって生きる人生の幸福をみんなに味わってほしいという、ただそれだけです。

割礼を受けるかどうかなど、そんなことは、どうだってよいことだ。そんなことは問題にならない。

あなたには信仰があるか。生きる喜びがあるか。それだけが問題だ。

そのことを、それだけを、彼らに分かってほしかった。ただそれだけなのです!

このパウロの願いが、わたしたちみんなの願いとなり、この手紙を読む、すべての時代の、すべての教会の、すべての信徒たちのものとなりますように、祈りましょう。

(2004年11月21日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年11月14日日曜日

互いに重荷を担いなさい

ガラテヤの信徒への手紙6・1~10

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

ここでパウロがガラテヤ教会の人々に勧めていることは、すべての時代のすべての教会の信徒たちが、お互いに行うべき「魂の配慮」の必要性です。

教会内で行われる、この意味での「魂の配慮」を、わたしたちは「牧会」という名で呼んできました。「牧会」という言葉そのものは、牧師の「牧」の字、教会の「会」の字が使われますので、つい牧師だけの仕事であるかのように思われがちです。しかし、この意味での牧会は、牧師だけの仕事ではありません。教会員全員の仕事です。

この「牧会」というものを信徒相互で行うことを「相互牧会」と言います。ですから、パウロが書いているのは「相互牧会のすすめ」と呼ぶことができる事柄です。

「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」とあります。「万一・・・不注意にも」という言葉で強調されていることは、「故意や悪意からではない罪」ということでしょう。故意や悪意は少しも無かった。しかし、たとえそうであっても、「万一・・・不注意にも」、わたしたちは罪を犯してしまうことがある、ということを、パウロは認めています。

そのような場合には、「霊に導かれて生きているあなたがた」、すなわち、聖霊のみわざにおいて救い主イエス・キリストへの信仰を与えられて生きているあなたがたは、「そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」とパウロは勧めているのです。

怖い目でにらみつけて、毛嫌いするのではありません。正反対です。「柔和な心で正しい道に立ち帰らせる」とは、罪を犯した人が真に悔い改めて、正しい信仰に基づく教会生活を再開することです。キリストの兄弟姉妹として、神の家族として、赦し合い、受け入れ合うことができるようにするために、聖書の教えに従って生きる道へと戻っていただくように、働きかけることです。そのことを、わたしたちは「牧会」において最も大切なことと考えます。

しかも、パウロは、この意味での「牧会」を「霊に導かれて生きているあなたがた」がしなさい、と言っています。わたしがします、というのではありません。牧会は伝道者・牧師だけの仕事ではありません。伝道者・牧師の仕事でもあります。しかし、それは聖霊に導かれて生きている、すべてのキリスト者の務めです。教会員全員の務めなのです。

続けて、パウロは、「あなたがた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」と書いています。この言葉には、二つの意味を考えることができます。

考えられる第一の意味は、この言葉どおり、自分自身が罪のわざへと誘惑されないようにする、自分自身への注意と反省です。

「人のふり見てわがふり直せ」と言います。「他山の石」という言葉もあります。イエスさまは、語られました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイによる福音書7・1〜2)。他人の罪を裁く人は、その裁きのまなざしの中から自分自身を見失ったり、見落としたりしてはならない、ということです。

考えられる第二の意味は、当時の律法学者たちに対する厳しい批判です。

イエスさまやパウロの目から見ると、律法学者たちは、自分のことを棚に上げて、他人を批判することに熱心な人々でした。他人の問題や欠点を見つけ出しては、その人の重荷を増し加えることが得意な人々でした。彼らは「あなたのここが問題だ。ここが悪い」と、ただ指摘するだけです。イエスさまが、そしてパウロが厳しく批判した人々は、どうやら、そのあたりに、大きな問題があったのです。

他人の批判をするだけなら、簡単です。イエスさまは、次のようにも語られました。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイによる福音書7・3〜5)。そのとおりです。他人の問題を指摘したいと思う人は、その前に自分の問題を、まず解決することが求められているのです。

しかし、パウロの言葉は、いわばもう一歩、先に踏み込んでいます。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。ここに「互いに重荷を担う」とありますのは、以前の日本聖書協会訳の新約聖書(1954年)では「互に重荷を負い合いなさい」と訳されていました。前の訳のほうが、わたしの心には、ぴったりはまりますし、パウロの意図を明確に言い当てることができます。

「重荷を互いに負い合う」とは、わたしの重荷をあなたが負い、あなたの重荷をわたしが負う、という相互の助け合いの関係です。この関係は「相互依存関係」(インターディペンデンス)の一種であると理解できます。「完全に自立した両者の対等関係」(サイド・バイ・サイド)を、必ずしも意味しません。言うならば、わたしの目の中の丸太をあなたに取り除いてもらいながら、あなたの目の中のおが屑をわたしに取らせていただくことです。

そのような関係が、わたしたち教会の中では許されることであるし、必要なことでもあるのです。

「完全に自立した両者の対等関係」(サイド・バイ・サイド)の関係は、ある意味で理想的であると言えます。しかし、ただそれだけが、教会の中での信徒同士の協力関係のあり方である、となると、ある人々にとっては、辛いと感じるだけです。

しかし、ある人が他の人に依存しているだけの状態が、いつまでも続く、というのも、考えものです。

一方だけが重荷を負う役目、他方は重荷を負わせる役目、というような関係が固定し、ずっと続いてしまうようであれば、やっぱりちょっと困るし、できればその関係は変えていかなければならない、と感じるでしょう。一方は、毎日泣いている。他方は、毎日笑っている。それでは困ります。

つらいときは、みんな一緒。喜ぶときも、みんな一緒。このような関係は、どのようにしたら、作っていけるのでしょうか。

「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」

ここには、ずいぶんと厳しい言葉が語られているようにも感じます。しかし、ポイントは明確です。先ほど申し上げたことに付随する、もう一つの側面であると思われます。

パウロは、まず「互いに重荷を担いなさい」と書きました。先ほどわたしは、このことを「相互依存関係」(インターディペンデンス)という表現を用いて説明しました。しかし、パウロとしては、それだけで問題が解決するわけではないと思ったのでしょう。さらなる問題がある。「お互いに」というこの一点が教会の中で真剣に考え抜かれなければならないときには、どうしても避けられない問題がある、ということです。

第一の問題は、一言で言ってしまえば、そのような協力関係の中にさえ、思わず知らず、傲慢の罪というものが忍びこんでくる危険性がある、ということになるでしょう。

「互いに重荷を担う」とはいえ、現実はもう少しシビアである、という場合があります。一方には、常に「みんなの重荷を負わなければならない」と必死で踏ん張っている人々がいる。他方には、常に「わたしの重荷は全部だれかに負ってもらいたい」と感じている人々がいる。このような構造的な関係が、たとえ教会の中であっても、避けがたく起こってきてしまう、という問題です。

そういうときに、教会の中に忍び込んでくるのが、傲慢の罪であると、パウロは考えているようです。もっとも、ここでパウロが「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人」と、非常に辛らつな言葉で指摘しているのは誰のことかについては、はっきり特定することができません。

「みんなの重荷を負わなければならない」という言い方そのものが傲慢だ、という意味でしょうか。「わたしの重荷は全部だれかに負ってもらいたい」という言い方のほうが傲慢でしょうか。この判断は難しいものです。

しかし、だからこそ、第二の問題が生じます。「互いに重荷を負い合う」という目標を真に達成し、実現するためには、「めいめいが自分の重荷を担う」ということが、どうしても必要であるということです。一方は全責任を負わされる、他方は全責任を丸投げする、というわけには行かないのです。

ただ、そう言いながら、わたし自身の中には、少し、どちらかと言うと弱いほうの立場を、弁護ないし応援したくなる気持ちがわいてきます。これは、教会に限った話ではありません。どこの社会にも、自分で自分の重荷を負うことが、もはや全くできない状態にある人がいるからです。自分で負える部分は、いわばゼロ。他の人に百パーセント担ってもらわなければ、生きていくことさえできない人がいるのです。

しかし、その人の重荷を担う人の側も、一苦労です。少しくらい、不平や不満を口にしたくなるときがあるでしょう。その言い分も、十分に分かるつもりです。

しかし、そういうときにこそ、わたしたちは、教会だからこそ、考えなければならないことがあるのではないでしょうか。それは、互いに重荷を担うこの場所が他ならぬ「教会」である、というこの点です。

「教会」とは、ただ単なる個人の集まりであるという以上に、組織化され、制度化された「団体」であるという性格を持っているのです。「教会」が「団体」であるかぎり、同じ負担であっても、特定の個人に偏った負担という方法ではなく、できるかぎりこの団体の総力を結集したところで「互いに担い合う」という方法がふさわしいのです。

教会の信徒同士の"魂の配慮"という意味での「牧会」ないし「相互牧会」とは何かということについて、わたしたちは、10月17日に行いました特別伝道集会の午後の第二部で、関口津矢子さんの発題から、いろいろなことを学ぶことができました。わたしも勉強させていただきました。発題の要旨が『まきば』の10月号に掲載されています。

その中で、とくに、ぜひ読み返していただきたい言葉は、以下の部分です。

「カルヴァンは、教会の組織化・制度化によって、ルターよりもいっそう教会の牧会的機能を推し進め、キリスト者がどのように生きるべきかという牧会的配慮に強調点を置きました。これが現代に受け継がれ、『教会訓練』を重んじることが改革派教会の特長になりました」(松戸小金原教会『まきば』第293号、2004年10月24日発行、5ページ)。

このことに関して、わたし自身、いつも考えさせられておりますことは、教会の組織化・制度化の目的は何か、ということです。わたしたち日本キリスト改革派教会は、おそらく日本の他のどの教派・どの教団よりも、教会の組織化・制度化ということに熱心であると思います。これは、大いに自慢してよいところです。

しかし、問題は、その目的は何か、ということです。わたしたちが重んじる教会の組織化・制度化の目的は、ただひたすら「牧会的配慮」ということが、きちんとなされていくためである、ということです。

教会には、いろんな人が集まります。しかも、多くの人々が、自分の人生に重大な危機が訪れ、大きな問題を抱えて駆け込んできます。その意味で、教会は「問題だらけ」です。「そんな言い方、しないでくださいよ」と言われるかもしれませんけれども、わたし自身は、教会とはそういうものであってよいし、そうあるべきだと考えています。

しかし、そこで、わたしたちの話が終わるわけではありません。関口津矢子さんが書いています。「わたしたちは危機的状況を乗り越えたときにこそ、信仰的な成長が与えられることを知っています。そして十分ないやしと慰めが与えられると、今度は他者を理解する者・支える者へと変えられていくのです」(同上頁)。

教会生活の「長さ」のことを言われると、立つ瀬がない、とお感じになる方がおられるようです。おそらく謙遜の表現として「教会生活の年数が長いばかりで、中身はちっとも成長していません」と言われる方がおられます。

しかし、それは禁句にしましょう。他の人々よりも少し先に救われた者たちは、やはり、今度こそは、他の人を助ける働きに就くことが求められているのです。

ただし、その場合、自分自身の重荷も、まだ少し、あるいは、たくさん、他の人々に負うてもらわなければならない状態のままであることには、変わりない。完全な意味での「自立」は、できていない。しかし、たとえそうであったとしても、他のひとの重荷を負い合おうと思う気持ちや心があるかどうかが、問われているのです。

そういう心を持っている人々が増えてくるときに、教会がぐんぐん成長しはじめます。先週、この教会のある方から伺いました。

「最近、教会に来るのが、楽しくなりました。前はそうではなかった、という意味ではありません。でも、教会の門をくぐったばかりの最初の頃は、緊張していましたし、理解できないところもありました。教会に通うのがおっくうだ、と感じたこともあります。しかし、今は、教会の中に友達もできたし、聖書の御言葉もだんだんと理解できるようになったので、教会が楽しくなりました。朝起きたときに、これから教会に行こう、という気持ちがわいてくるのです」。

この気持ちが大切ではありませんか。一つのポイントは、教会の中に友達ができた、ということです。教会の中でこそ、互いに重荷を負い合える仲間が与えられるのです。信仰によって互いに結び合わされた神の家族が与えられるのです。

そして、いわばその次に来る大事なポイントとして、この「互いに重荷を負い合おう」という一人一人の小さな心を集めて、より大きな力とするために、教会の組織化・制度化ということを、きちんとして行かなければならないのです。

この続きのところで、パウロは、いわゆる教会のお金の問題、とくに説教者への謝礼とか、牧師給与といった事柄に直接的に関わってきてしまう非常に具体的な問題を、取り上げています。わたしは牧師という立場にありますので、正直に言って、ちょっと触れにくい問題です。しかし、非常に大事なことだと思っています。

教会の組織化・制度化の目的の大きな一つに、教会財産の管理があります。しかし、そのことが直接的に、「牧会的な」問題でもあります。

なぜかといえば、わたしたちの多くが、教会の中で、信仰的なつまずきを覚え、もはや信仰生活を続けていけないのではないか、と思うほどの深い傷を受けてしまうことさえある、その最も大きな原因は、かなりの部分で、お金の問題なのです。

このことをきちんとしていくことが、教会形成において、「魂の配慮」として、最も重要なことでもあるのです。

(2004年11月14日、松戸小金原教会主日礼拝)


2004年11月8日月曜日

日本キリスト改革派教会創立宣言(1946年)現代語訳

日本キリスト改革派教会創立宣言(1946年)現代語訳

関口 康訳(改訂第2版)

2004年11月8日発行

I 第一の主張:キリスト教有神的人生観・世界観に基づく日本国家の建設

終戦後すでに九ヶ月、敗戦日本の再建は、さまざまな構想と方法とによって計画されつつあるとはいえ、聖書に「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(詩編127・1)とあるのは本当のことです。宇宙と人類とを支配しておられる、全知・全能にして、このうえなく聖であられ、このうえなく愛に満ちた神を信じるのでなければ、一つの国といえども、よく建ち、よく保持される道はないのです。

このたびの世界大戦に当たっては、信教の自由ははなはだしく抑圧され、わたしたちの教会も歪められ、真理が大胆に主張されることはありませんでした。わたしたちはこのことを神の御前で恥じ、国のために憂いを持っていました。しかし、歴史を支配しておられる神の摂理により、信教の自由は、敗戦を通して、ついにわたしたちの国日本にもたらされるに至ったのです。

今後、よりよい日本の建設のために、わたしたちは、心を尽くして、歴史を支配しておられる、全能にして、この上なく善であられる神の御心にかなう者にならなくてはなりません。神の戒めに従って、神を敬い、隣人を愛し、たんに精神的・文化的側面においてだけではなく、「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現わす」(コリント一10・31)ことをもって最高の目的にしなければなりません。

この有神的人生観・世界観(Theistic life- and world-view)こそ、新しい日本を建設するための、ただ一つの確かな基礎である、ということは、日本キリスト改革派教会の第一の主張であり、わたしたちの熱心はここにあるのです。

ただし、真の宗教だけが国家の基礎、また文化の根底であるという主張は、国政や文化活動そのものを宗教団体の支配下に置くべきであるとする教権主義思想を意味しているわけではありません。とりわけ、地上の政権と宗教との関係について、わたしたちは、政教分離の原則(Separation of Church and State)が、近代国家の知恵であると共に、聖書の教えにかなうものであると信じていますので、信教の自由、教会の自律性を尊重するのです。

II 第二の主張:信仰告白・教会政治・善き生活を具備した教会の建設

そもそも人類は、神の御前に一体であり、等しく罪に仕える者でした。しかし、神は、罪ある人類のために、永遠の熟慮によって救いの御計画を打ちたててくださり、御子イエス・キリストの歴史的な贖いのみわざをもってこれを歴史の中に実現してくださり、永遠の生命に定められた人々に信仰をお与えになり、召してくださり、これを義と認めてくださり、神の子としてくださり、聖なる者に造りかえてくださりながら、その神が人間と共に住んでくださるのです。

これがわたしたちの信じる宗教なのであって、その救いは人類の罪の起源と共に古く、それからまた人類のまったき救いの完成の日にまで至ります。

四千年の昔、神はアブラハムをお選びになって「信仰の父」にしてくださり、彼と契約を結び、彼の子孫に恵みを与えてくださり(ただし不信仰な者はしりぞけられました)、彼らにその知恵、大能、慈愛、真理をあらさわれたのでした。

それからまた、時は満ち、御子イエス・キリストをお遣わしくださり、このお方の十字架の死と復活によってわたしたちの救いの基礎が置かれたとき、不思議な御摂理により、この救いの福音はユダヤ人の不信仰を通して全世界に及ぶことになったのです。

すなわち、神の救いは、旧約時代の一時的なユダヤ民族的な枠組みを克服して、本来有していた国際性を発揮し、使徒たちによって「すべての国民の主、世界の光」として宣べ伝えられましたので、新約時代にあって、キリスト教会は、全世界にその存在を見ることができるようになったのです。

神だけが明らかにご存じであられる、いわゆる「見えない教会」(invisible Church)は、全世界にわたって、過去、現在、未来というすべての歴史を通し、地上と天上とを貫いている、聖なる唯一の公同教会として存在しています。

しかしながら、わたしたちは、地上において、見えない教会の唯一性が、第一に信仰告白(Confession)、第二に教会政治(Church-government)、第三に善き生活(good life)という三つの要素を充分に備えている「一つの見える教会」(visible Church)として具現化されなければならないということを確信するのです。これが、日本キリスト改革派教会の第二の主張です。

1) 信仰告白

「一つの見える教会」を構成する第一の要素である「信仰告白」について言えば、教会は、この問題に関して神の栄光と自分自身の永遠の救いのために、絶え間ない霊的な闘いに励まなければなりません。新約のキリスト教会も、初代から今日に至るまで、あらゆる異端と闘い、これに勝利し、真理を保持してきたのです。わたしたちは、このキリスト教信仰の正しい伝統に立つことに熱心な者たちです。日本キリスト改革派教会が、次に記す前文を付加してウェストミンスター信仰告白ならびに大・小教理問答書を信仰基準として採用した意図も、ここにあるのです。

日本キリスト改革派教会信仰規準の前文

神がご自身の教会にお与えになった神の御言である旧・新両約聖書は、教会の唯一で無謬の正典です。聖書において啓示されている神の御言は、教会によって信仰告白されて、教会の信仰規準になるのですが、これが教会の信条というものです。教会は、昔から、使徒信条、ニカイア信条、アタナシウス信条、カルケドン信条という四つの信条を、キリスト教会の基本信条ないし公同信条として共有してきました。宗教改革の時代に至って、改革派諸教会は、それら諸信条の正統的な信仰の伝統に立ちましたが、これらに留まるのではなく、純正に福音的であろうとし、それだけではなく、すべての教理にわたり、さらに純正であると共に、すぐれて体系的である新しい信条の作成に導かれるに至ったのです。その三十数個の信条の中では、ウェストミンスター信仰規準は、聖書に教えられている教理の体系として、最も完備されているものであることを、わたしたちは確信しています。わたしたち日本キリスト改革派教会は、わたしたち自身の言葉をもって、さらに優れた信条を作成する日を祈り求めているとはいえ、このウェストミンスター信仰規準こそ、今日、わたしたちの信仰規準として最もふさわしいものであることを確信し、讃美と感謝とをもって教会の信仰規準とするのです。

2) 教会政治

第二の要素である「教会政治」に関して言えば、長老主義(presbyterianism)が聖書的教会に固有な政治形態である、と信じることをもって、わたしたち日本キリスト改革派教会は、これを純正に実施したいと願っています。監督制(episcopalianism)、会衆制(congregationalism)は、法王制(Papism)と共に、人間的見地からすれば、それぞれに長所を持っているものなのですが、教理の純正と教会の清潔を守ることのために、長老制に勝るものはありません。わたしたちは、単に伝承主義的(traditionalistic)な意味で長老制に固執しているわけではなく、健全な理性の判断によっても、長老制は最良の政治様式であると言わざるをえないのです。第二次大戦前の「日本基督教会」は、少なくとも教会規定の上では、長老制を採用していたのです。

3) 善き生活

第三の要素である「善き生活」とは何でしょうか。わたしたちは律法主義者ではありませんが、律法廃棄論者でもありません。キリストによる贖いに基づいて、聖霊なる神がわたしたちのうちに恵みとして与えてくださる聖化は、信仰者がかならず熱心に祈り求めなければならないものです。完全な聖化は、地上においては与えられません。わたしたちは、日毎に自分自身の罪の赦しを求めていきます。わたしたちは、自分に罪を犯す者の罪を赦さなければならないとはいえ、聖霊に感化されて互いに兄弟の罪を戒め合うことは、キリストにある者がしなければならないことなのです。宗教改革運動の主要な潮流である改革派教会の最大の指導者、ジャン・カルヴァンが働いたジュネーヴの教会が、信仰生活の訓練に関して模範的な実績を示したことは、多くの人が知っている事実ではないでしょうか。

このように、わたしたちは、一つの見えない教会を、第一に信仰告白、第二に教会政治、第三に善き生活という三つの要素を有する「一つの見える教会」として具現化し、これをもって唯一の聖なる公同の教会の肢であるという事実を確信させられ、わたしたちの救いの確かさを証しすることを願っています。各地に散在している各個教会(local church)の統一は、あくまでもこれら三つの要素の一致に基づくべきであり、またこの三点は、相互に深く論理的・体系的に関係づけられていますので、教理と教会政治と生活の三者は一元的なものなのです。

日本におけるプロテスタント諸派の完全合同をめざした合同運動は、「日本キリスト教団」(United Church of Christ in Japan)の成立により、いちおう目的を達成したと考える人がいます。けれども、「日本キリスト教団」は、今日に至ってもなお、今述べたような意味での一つの教会になることができているわけではありません。彼らの全面的不成功は、それを求める方法が間違っていることに原因がある、と言う他はありません。

以上の略述によって明らかにされたと言いうることは、わたしたち日本キリスト改革派教会は、ほんの少しでも、いわゆる分派的精神(sectarianism)に由来するものではありえないのだ、という一つのことです。正しい筋道に従って形成して行く教会の公同性と統一性は、わたしたちの最も大切にするところであり、わたしたちの教会の真髄なのです。

「改革派教会」(Reformed Church)という名称も、新しい造語であるかのように誤解されてはなりません。教会の歴史が明らかにしているとおり、改革派教会とは、宗教改革によって生み出されたプロテスタント諸教会の内部に組織されたひとかたまりの教会に付けられた名称です。この名をもって呼ばれている教会は、年代的にはすでに四百年以上の歴史を持っており、ヨーロッパ大陸においてはその四分の三を占めるプロテスタント諸教派の中では最大の教派なのです。

しかも、一時代的な、あるいは一地方的な性格を帯びている教派ではありません。改革派教会は、宗教改革の原則を首尾一貫して主張する真の福音主義であるだけではなく、さらに真正なる公同性と正統性をも保有するものであって、聖書的・使徒的教会の再現を標榜する教会です。イングランドやアメリカにおいて長老教会と呼ばれる教会は、すべてこれに属しているのです。

真に世界的で正統的な地上教会でありたいと志すこの光り輝く歴史的改革派教会の一つの肢として、今日、日本人によって、日本において、わたしたち日本キリスト改革派教会が組織され、設立されるに至ったことを、わたしたちは、神の深い恵みの導きとして、厚く感謝せざるをえません。

けれどもまた、わたしたちの教会の誕生が、この国のキリスト教会の歴史における画期的な一頁となり、源清く正しい進展を経由してきたキリスト教教理を堅持する教会として、果敢な進軍をなし、健全な発達を遂げて行くことこそ、日本とその国民に対して示す、わたしたちの愛の最も優れた表現なのです。

III 世界の希望としてのカルヴァン主義

世界はまさに転換しつつあります。近代世界は、すでに終止符を打たれました。新しい世代は、すでに胎動を開始しました。そうであるならば、これから迎えようとしている時代の精神的指導者となるのは、誰なのでしょうか。宗教はすでに実力を喪失し、無神論的唯物史観に場所を譲ったと断定できるでしょうか。いいえ、そうではありません。

過去を公平に静止する人々は、世界における人類の精神文化を生み出し、かつ指導してきた最大の能力は宗教であったということを、否定できません。しかも、純正な宗教の上にだけ、健全な文明は築かれたのです。

ヨーロッパ文明について、このことを見てみましょう。古代社会の危機に際し、個人の道徳観念の腐敗、国家や社会の秩序の崩壊を救い、中世文明を樹立したのはイエス・キリストの宗教(原始キリスト教)に他なりません。中世の危機に際し、同じような働きをしたのはイエス・キリストの宗教(宗教改革のキリスト教)に他なりません。今や三度目に、近代文明がまたもや危機に直面しているのです。世界は、これが救いであるというものを何に求めることができるのでしょうか。同じように、イエス・キリストの宗教(改革派のキリスト教)の他には無いのです。

宗教改革のキリスト教は、原始キリスト教の再興です。改革派教会は、この宗教改革の真理を最もよく保有している教会です。中世に原始キリスト教が、近代に宗教改革のキリスト教が、それぞれ果たした使命こそ、じつに改革派のキリスト教が次の世代に対して負うことができる大きな使命であるということは、わたしたちの自負としてというよりも、重い責任として痛感しているところなのです。

世界の希望はカルヴァン主義の神にあるのです。

神よ、あなたの栄光を仰がせてくださいますよう、お願いいたします。わたしたちは、与えられた一切をあなたにおささげしますので、あなただけを、わたしたちの神、わたしたちの希望として仰がせてください。あなたがすでにわたしたちのうちに始めてくださっている大いなるみわざを完遂してくださいますように。

アーメン。

昭和21年4月29日 (創立大会日)

原典は「教会ハンドブック 宣言集」第三刷(1988年2月20日発行)


2004年11月7日日曜日

喜びを禁じる掟はない


ガラテヤの信徒への手紙5・22~26

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑みあったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」

今日の個所に書かれていることを一言でまとめて言うならば、わたしたちキリスト者に与えられる霊的な賜物とは、どのようなものか、ということです。

「霊の結ぶ実」とあります。「実」の意味はフルーツ(くだもの)です。結果という意味もあります。「霊の結ぶ実」とは、救い主イエス・キリストを信じる人の内に聖霊なる神が住み込んでくださった結果として、その人に与えられる霊的な賜物のことです。賜物とは、贈り物(プレゼント)です。

このことを理解していただくために開いていただきたい関連の個所は、マタイによる福音書7・17~18です。ここでイエス・キリストは、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともできない」と語っておられます。実を見て木を知りなさい、という意味です。

しかし、これは、原因と結果の関係を機械的・法則的に結び合わせる、あの単なるいわゆる「因果論」とは異なるものである、と言わなければなりません。

マタイによる福音書をご覧いただきますと、「実を見て木を知る」という御言が記されている段落は、「偽預言者を警戒しなさい」という警告から始まっています。そして、次のように言われます。「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」。

ここでイエスさまが問題にしておられることは、明らかに、ひとりの人間の「内と外」、つまり、心の中にあるものと外側に見えるものとの関係です。単純に、原因と結果の関係についての話ではない、ということが分かるのです。

むしろ、ある意味で、もっと厳しいかもしれません。あの人は、あのものは、外側から見ると善いものに見えるかもしれないが、内側がひどいということがありうるから、気をつけなさい、というわけですから。

パウロの場合も、じつは、同じことが言えると思われます。

「霊の結ぶ実」、すなわち、聖霊なる神がわたしのうちに住み込んでくださった結果としてわたしに与えられる霊的賜物の意味は、このわたしの「内と外」、すなわち一人の人間の内面性と外面性は決して無関係ではありえない、ということを語っているのである、と理解することができるのです。

少し分かりにくい言い方になってしまったかもしれません。もっと平易に言い直せると思います。ごく単純に言えば、たとえば、わたしたちは、とても腹が立っているときニコニコ笑っていられることは、ほとんどありえないだろう、というようなことです。

もちろん、なかには、「顔で笑って・心で泣いて」ということが上手な方がおられるかもしれません。そのほうがオトナらしい態度であり、中身が丸見えというのはコドモっぽい、と思われるかもしれません。しかし、顔のどこかが歪んでいる。目の奥が笑っていない、ということがありえます。見抜く人は、見抜くのです。

あるいは、逆に考えてみて、その人が今このとき考えていること、心の中で思っていることが、全く外から見えないし、分からない、というのは、恐ろしいことでもあります。

児童心理学者たちが口を揃えて言うことは、「グズグズ言ったりわがままを言ったりするくらいの子どものほうが健全である」ということでしょう。

思ったことを口にできないし、表情にも表さない。質問しても答えない。固い殻に閉じこもり、無表情のマスクをかぶり、自分の中身、真の姿、あからさまな正体を寸部漏らさず隠し通してしまえる子どもがいるとしたら、周囲の人は心配になります。

いや、心配になるくらいなら、まだマシなのかもしれません。何かを隠している様子が、ほんの少しでも伺えるなら、まだ良いほうです。全く分からない。いや、じつは、自分自身でも自覚がない。自覚がない、というのが、最も恐ろしいことかもしれません。

先ほどのマタイ7章の「偽預言者を警戒しなさい」という御言にこだわるようですが、ここでイエスさまが「偽預言者」と呼んでおられるのは、明らかに、当時の宗教家たちである、ということが、ここで注目されるべき点です。

彼らは当時、最も尊敬されていたのです。誇り高い仕事でした。しかし、その宗教家たちが偽物だと。「偽預言者だ」と、イエスさまは告発されました。彼ら自身に、そうであることの自覚が無かった可能性があります。

偽預言者は本物の預言者にそっくりである、と言われます。偽キリストは本物のキリストにそっくりである、と言われるのと同じです。悪い意味でのイミテーションは、本物と見分けがつかないくらい酷似しているからこそ、商売が成り立つのです。

しかし、です。たとえ、その人々が、どんなに固い殻に閉じこもり、無表情のマスクをかぶり、また、いかなる行いにおいても善意をもって振舞うことができ、人々の尊敬を集めることができたとしても、どうしても、最後まで隠し通すことができない部分がある。本物か偽物かが、バレてしまう。

そういうところが必ずある。この点こそがまさに、イエスさまの言われる「実を見て木を知ること」であり、パウロの語る「御霊の結ぶ実」という言葉の真意です。明らかに、ひとりの人間の内側と外側との関係の問題が語られているのです。

しかし、わたしは今日ここでユダヤ教の批判をしたいわけではありません。イエスさまの時代の宗教家たちの批判をしたいわけでもありません。

あるいはまた、わたしたちの時代の、あの人・この人の批判をしたいわけでもありません。わたしたち自身の日常生活の反省や自己批判をしたいわけでもありません。そうすることは大切なことではありますが、今日の話の目的ではありません。

そうではなくて、わたしが今日申し上げたいことは、わたしたち人間は、言ってみれば、じつは「薄皮一枚」のような存在であるということです。

「神さまの目から見たら」と付け加える必要があるかもしれません。

わたしたちの内側と外側との関係、内面性と外面性との関係は、少なくとも神さまの目からご覧になったときには、まさに薄皮一枚にすぎない。透けて見える。全部見える。何もかも顕わである。神はすべてをお見通しである、ということです。神の御前で何かを隠そうだなんてことを考えること自体が愚かである、ということです。

しかし、まだ、この点だけなら、わたしたちは、どこかで責められているような気持ちが残ると思います。牧師は、何かを言いたがっている。奥歯に物が挟まったような口ぶりがある、と思われるかもしれません。

しかし、今日のポイントは、誰かへの批判でもなければ、自分への批判でもありません。むしろ、神さまの目から見るとまさに「薄皮一枚」であるこのわたしの存在は、入れ物であり、器(うつわ)であり、容器である、ということです。

そして、その入れ物の中に、もし救い主イエス・キリストを信じる信仰があり、また、その信仰を持っている人々の内側に聖霊というお方が住み込んでくださるならば、その人の存在はまさに光り輝くものになるのだ、ということです。そして、その光は、外側から見ても、よく見えるものなのだ、ということです。

まだダメでしょうか。

まだ責められているような気がする。あるいは、どこか貶(けな)されているような気がする。人間は入れ物だ。その中に宿ってくださる神が輝いている、と牧師は語る。入れ物である人間、このわたし自身は、ガラスのような存在であり、道具にすぎない、ということだ。それならば、神さまが輝くんでしょ。人間自身が輝くわけではないんでしょ、と思われるでしょうか。

しかし、そうではありません。たしかに、わたしたちは、ある意味で、わたしたちの内なる御霊の働きの輝きを外側に照らし出すことが許されている存在です。自分自身は薄皮一枚のような存在であり、透明ガラスのような存在です。けれども、わたしたちは単なる道具なのか、自分自身には存在する目的も意味もない物体にすぎないのか、というと、決してそういうことではないのです。

パウロは語ります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。ここでまず認めたいことは、これらの“善きもの”が、わたしたちの中には確かにある、という事実です。

そして、その上で、その次に、先週学んだガラテヤ5・16以下の御言葉、とくに19節の「肉の業は明らかです」以下に書かれていた、いわゆる「悪徳表」の内容を思い起こさなければなりません。あれらの“悪しきもの”も、わたしたちの内側には、たくさん潜んでいます。そのことを完全に否定できる人は一人もいないのです。

しかしまた、このように考えてくると分かるのは、このわたしという一人の人間の中には“善きもの”と“悪しきもの”との両方が共存している、ということです。

そして、もしそうであるならば、わたしたちの中身がすべて透けて見える、ということのすべてが悪いわけではない、と考えることもできるでしょう。わたしたちの内側にあるものすべてが悪いわけではないからです。「ほらほら、見て見て」と多くの人々に見せびらかしたいものも、わたしたちの内側には確かにあると信じることができるからです。

それこそがわたしの愛、わたしの喜びです。

わたしの内に神御自身が与えてくださった喜びは、たとえば、わたしの中で、わたしを抜きにして、神さまだけが勝手に喜んでおられるというようなものではありえません。

それは全くおかしな話です。プレゼントなのですから。神の喜びがわたしの喜びになるのです。

また、わたしの平和、わたしの寛容、わたしの親切、わたしの善意です。わたしの誠実、わたしの柔和、わたしの節制です。

そういうものを、わたしたちは、いわば先天的に生まれ持っている、と語ることについては、慎重でなければならないと思います。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。わたしたちの心の中に、生まれたときから良いものがある、ということは、絶対的に否定されるべきことではありません。

しかし、問題が起こるのは、むしろ、“生まれた後”でしょう。

「ほらほら、見て見て」と見せびらかしたいような、このわたしの内なる善きものを、見て見ぬふりをされる。全く評価してもらえない。「それがどうしたの?」と冷たくあしらわれる。「うるさいな!」と突き飛ばされる。

そのような積み重ねの中で、わたしたちは、次第に、わたしの内なる“善きもの”には意味も価値もない、と思い込み、わたしの外に追い出してしまおうとするのです。

けれども、また、ここに挙げられている“善きもの”を、パウロが「霊の結ぶ実」と呼んでいることが救いです。

なぜなら、それが人間の内に生まれる前から備わっていたもの、と言われているのではなくて、聖霊なる神の賜物である、と言われているかぎり、それは、まさに、あとから、外から、このわたしの中に入れ込まれ、混ぜ込まれた何かである、ということを意味する以外にないからです。

そうだとすれば、一度くらい失われても、いや、何度失われても、何度でも、詰め込み直すことができるものである、と信じることができます。

そうであるならば、わたしたちは、自分の中には“善きもの”がない、ということで、絶望すべきではありません。わたしの中の“善きもの”は、言うならば、「これから身につけていくことができるもの」であり、「いつでも詰め込むことができるもの」なのです。

だからこそ、わたしは、このわたしたちの小さな入れ物の中に、大いに、どんどん、大量の神の恵みを詰め込んでいきましょう、と先週申し上げたのです。

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿る「ようにしましょう」。讃美歌をうたい、祈りましょう、と。

豊かに宿る「ようにする」のは、自分自身です。このわたしが、キリストの言葉を、自分の中に、たくさん詰め込むのです。それは自分の努力目標です。わたしのなすべき仕事です。これこそが、先週ご紹介しましたコロサイの信徒への手紙3・16~17の真意なのです。

御言葉と讃美と祈りは、わたしたちの存在を支える生命そのものです。これらのものが失われると、わたしたちの存在は倒れてしまうのです。

豊かな神の恵みによって、このわたしが喜びに満ちあふれる存在になること。このことを禁じる掟は、どこにもない。

喜んで、楽しんで、礼拝して、讃美して、祈って、何が悪いのか、ということです。

このわたしが喜びの人生を送ることを、誰にも、何にも、邪魔させない!

これがパウロのメッセージです。

(2004年11月7日、松戸小金原教会主日礼拝)