2004年11月7日日曜日

喜びを禁じる掟はない


ガラテヤの信徒への手紙5・22~26

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑みあったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」

今日の個所に書かれていることを一言でまとめて言うならば、わたしたちキリスト者に与えられる霊的な賜物とは、どのようなものか、ということです。

「霊の結ぶ実」とあります。「実」の意味はフルーツ(くだもの)です。結果という意味もあります。「霊の結ぶ実」とは、救い主イエス・キリストを信じる人の内に聖霊なる神が住み込んでくださった結果として、その人に与えられる霊的な賜物のことです。賜物とは、贈り物(プレゼント)です。

このことを理解していただくために開いていただきたい関連の個所は、マタイによる福音書7・17~18です。ここでイエス・キリストは、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともできない」と語っておられます。実を見て木を知りなさい、という意味です。

しかし、これは、原因と結果の関係を機械的・法則的に結び合わせる、あの単なるいわゆる「因果論」とは異なるものである、と言わなければなりません。

マタイによる福音書をご覧いただきますと、「実を見て木を知る」という御言が記されている段落は、「偽預言者を警戒しなさい」という警告から始まっています。そして、次のように言われます。「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」。

ここでイエスさまが問題にしておられることは、明らかに、ひとりの人間の「内と外」、つまり、心の中にあるものと外側に見えるものとの関係です。単純に、原因と結果の関係についての話ではない、ということが分かるのです。

むしろ、ある意味で、もっと厳しいかもしれません。あの人は、あのものは、外側から見ると善いものに見えるかもしれないが、内側がひどいということがありうるから、気をつけなさい、というわけですから。

パウロの場合も、じつは、同じことが言えると思われます。

「霊の結ぶ実」、すなわち、聖霊なる神がわたしのうちに住み込んでくださった結果としてわたしに与えられる霊的賜物の意味は、このわたしの「内と外」、すなわち一人の人間の内面性と外面性は決して無関係ではありえない、ということを語っているのである、と理解することができるのです。

少し分かりにくい言い方になってしまったかもしれません。もっと平易に言い直せると思います。ごく単純に言えば、たとえば、わたしたちは、とても腹が立っているときニコニコ笑っていられることは、ほとんどありえないだろう、というようなことです。

もちろん、なかには、「顔で笑って・心で泣いて」ということが上手な方がおられるかもしれません。そのほうがオトナらしい態度であり、中身が丸見えというのはコドモっぽい、と思われるかもしれません。しかし、顔のどこかが歪んでいる。目の奥が笑っていない、ということがありえます。見抜く人は、見抜くのです。

あるいは、逆に考えてみて、その人が今このとき考えていること、心の中で思っていることが、全く外から見えないし、分からない、というのは、恐ろしいことでもあります。

児童心理学者たちが口を揃えて言うことは、「グズグズ言ったりわがままを言ったりするくらいの子どものほうが健全である」ということでしょう。

思ったことを口にできないし、表情にも表さない。質問しても答えない。固い殻に閉じこもり、無表情のマスクをかぶり、自分の中身、真の姿、あからさまな正体を寸部漏らさず隠し通してしまえる子どもがいるとしたら、周囲の人は心配になります。

いや、心配になるくらいなら、まだマシなのかもしれません。何かを隠している様子が、ほんの少しでも伺えるなら、まだ良いほうです。全く分からない。いや、じつは、自分自身でも自覚がない。自覚がない、というのが、最も恐ろしいことかもしれません。

先ほどのマタイ7章の「偽預言者を警戒しなさい」という御言にこだわるようですが、ここでイエスさまが「偽預言者」と呼んでおられるのは、明らかに、当時の宗教家たちである、ということが、ここで注目されるべき点です。

彼らは当時、最も尊敬されていたのです。誇り高い仕事でした。しかし、その宗教家たちが偽物だと。「偽預言者だ」と、イエスさまは告発されました。彼ら自身に、そうであることの自覚が無かった可能性があります。

偽預言者は本物の預言者にそっくりである、と言われます。偽キリストは本物のキリストにそっくりである、と言われるのと同じです。悪い意味でのイミテーションは、本物と見分けがつかないくらい酷似しているからこそ、商売が成り立つのです。

しかし、です。たとえ、その人々が、どんなに固い殻に閉じこもり、無表情のマスクをかぶり、また、いかなる行いにおいても善意をもって振舞うことができ、人々の尊敬を集めることができたとしても、どうしても、最後まで隠し通すことができない部分がある。本物か偽物かが、バレてしまう。

そういうところが必ずある。この点こそがまさに、イエスさまの言われる「実を見て木を知ること」であり、パウロの語る「御霊の結ぶ実」という言葉の真意です。明らかに、ひとりの人間の内側と外側との関係の問題が語られているのです。

しかし、わたしは今日ここでユダヤ教の批判をしたいわけではありません。イエスさまの時代の宗教家たちの批判をしたいわけでもありません。

あるいはまた、わたしたちの時代の、あの人・この人の批判をしたいわけでもありません。わたしたち自身の日常生活の反省や自己批判をしたいわけでもありません。そうすることは大切なことではありますが、今日の話の目的ではありません。

そうではなくて、わたしが今日申し上げたいことは、わたしたち人間は、言ってみれば、じつは「薄皮一枚」のような存在であるということです。

「神さまの目から見たら」と付け加える必要があるかもしれません。

わたしたちの内側と外側との関係、内面性と外面性との関係は、少なくとも神さまの目からご覧になったときには、まさに薄皮一枚にすぎない。透けて見える。全部見える。何もかも顕わである。神はすべてをお見通しである、ということです。神の御前で何かを隠そうだなんてことを考えること自体が愚かである、ということです。

しかし、まだ、この点だけなら、わたしたちは、どこかで責められているような気持ちが残ると思います。牧師は、何かを言いたがっている。奥歯に物が挟まったような口ぶりがある、と思われるかもしれません。

しかし、今日のポイントは、誰かへの批判でもなければ、自分への批判でもありません。むしろ、神さまの目から見るとまさに「薄皮一枚」であるこのわたしの存在は、入れ物であり、器(うつわ)であり、容器である、ということです。

そして、その入れ物の中に、もし救い主イエス・キリストを信じる信仰があり、また、その信仰を持っている人々の内側に聖霊というお方が住み込んでくださるならば、その人の存在はまさに光り輝くものになるのだ、ということです。そして、その光は、外側から見ても、よく見えるものなのだ、ということです。

まだダメでしょうか。

まだ責められているような気がする。あるいは、どこか貶(けな)されているような気がする。人間は入れ物だ。その中に宿ってくださる神が輝いている、と牧師は語る。入れ物である人間、このわたし自身は、ガラスのような存在であり、道具にすぎない、ということだ。それならば、神さまが輝くんでしょ。人間自身が輝くわけではないんでしょ、と思われるでしょうか。

しかし、そうではありません。たしかに、わたしたちは、ある意味で、わたしたちの内なる御霊の働きの輝きを外側に照らし出すことが許されている存在です。自分自身は薄皮一枚のような存在であり、透明ガラスのような存在です。けれども、わたしたちは単なる道具なのか、自分自身には存在する目的も意味もない物体にすぎないのか、というと、決してそういうことではないのです。

パウロは語ります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。ここでまず認めたいことは、これらの“善きもの”が、わたしたちの中には確かにある、という事実です。

そして、その上で、その次に、先週学んだガラテヤ5・16以下の御言葉、とくに19節の「肉の業は明らかです」以下に書かれていた、いわゆる「悪徳表」の内容を思い起こさなければなりません。あれらの“悪しきもの”も、わたしたちの内側には、たくさん潜んでいます。そのことを完全に否定できる人は一人もいないのです。

しかしまた、このように考えてくると分かるのは、このわたしという一人の人間の中には“善きもの”と“悪しきもの”との両方が共存している、ということです。

そして、もしそうであるならば、わたしたちの中身がすべて透けて見える、ということのすべてが悪いわけではない、と考えることもできるでしょう。わたしたちの内側にあるものすべてが悪いわけではないからです。「ほらほら、見て見て」と多くの人々に見せびらかしたいものも、わたしたちの内側には確かにあると信じることができるからです。

それこそがわたしの愛、わたしの喜びです。

わたしの内に神御自身が与えてくださった喜びは、たとえば、わたしの中で、わたしを抜きにして、神さまだけが勝手に喜んでおられるというようなものではありえません。

それは全くおかしな話です。プレゼントなのですから。神の喜びがわたしの喜びになるのです。

また、わたしの平和、わたしの寛容、わたしの親切、わたしの善意です。わたしの誠実、わたしの柔和、わたしの節制です。

そういうものを、わたしたちは、いわば先天的に生まれ持っている、と語ることについては、慎重でなければならないと思います。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。わたしたちの心の中に、生まれたときから良いものがある、ということは、絶対的に否定されるべきことではありません。

しかし、問題が起こるのは、むしろ、“生まれた後”でしょう。

「ほらほら、見て見て」と見せびらかしたいような、このわたしの内なる善きものを、見て見ぬふりをされる。全く評価してもらえない。「それがどうしたの?」と冷たくあしらわれる。「うるさいな!」と突き飛ばされる。

そのような積み重ねの中で、わたしたちは、次第に、わたしの内なる“善きもの”には意味も価値もない、と思い込み、わたしの外に追い出してしまおうとするのです。

けれども、また、ここに挙げられている“善きもの”を、パウロが「霊の結ぶ実」と呼んでいることが救いです。

なぜなら、それが人間の内に生まれる前から備わっていたもの、と言われているのではなくて、聖霊なる神の賜物である、と言われているかぎり、それは、まさに、あとから、外から、このわたしの中に入れ込まれ、混ぜ込まれた何かである、ということを意味する以外にないからです。

そうだとすれば、一度くらい失われても、いや、何度失われても、何度でも、詰め込み直すことができるものである、と信じることができます。

そうであるならば、わたしたちは、自分の中には“善きもの”がない、ということで、絶望すべきではありません。わたしの中の“善きもの”は、言うならば、「これから身につけていくことができるもの」であり、「いつでも詰め込むことができるもの」なのです。

だからこそ、わたしは、このわたしたちの小さな入れ物の中に、大いに、どんどん、大量の神の恵みを詰め込んでいきましょう、と先週申し上げたのです。

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿る「ようにしましょう」。讃美歌をうたい、祈りましょう、と。

豊かに宿る「ようにする」のは、自分自身です。このわたしが、キリストの言葉を、自分の中に、たくさん詰め込むのです。それは自分の努力目標です。わたしのなすべき仕事です。これこそが、先週ご紹介しましたコロサイの信徒への手紙3・16~17の真意なのです。

御言葉と讃美と祈りは、わたしたちの存在を支える生命そのものです。これらのものが失われると、わたしたちの存在は倒れてしまうのです。

豊かな神の恵みによって、このわたしが喜びに満ちあふれる存在になること。このことを禁じる掟は、どこにもない。

喜んで、楽しんで、礼拝して、讃美して、祈って、何が悪いのか、ということです。

このわたしが喜びの人生を送ることを、誰にも、何にも、邪魔させない!

これがパウロのメッセージです。

(2004年11月7日、松戸小金原教会主日礼拝)