2004年11月8日月曜日

日本キリスト改革派教会創立宣言(1946年)現代語訳

日本キリスト改革派教会創立宣言(1946年)現代語訳

関口 康訳(改訂第2版)

2004年11月8日発行

I 第一の主張:キリスト教有神的人生観・世界観に基づく日本国家の建設

終戦後すでに九ヶ月、敗戦日本の再建は、さまざまな構想と方法とによって計画されつつあるとはいえ、聖書に「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(詩編127・1)とあるのは本当のことです。宇宙と人類とを支配しておられる、全知・全能にして、このうえなく聖であられ、このうえなく愛に満ちた神を信じるのでなければ、一つの国といえども、よく建ち、よく保持される道はないのです。

このたびの世界大戦に当たっては、信教の自由ははなはだしく抑圧され、わたしたちの教会も歪められ、真理が大胆に主張されることはありませんでした。わたしたちはこのことを神の御前で恥じ、国のために憂いを持っていました。しかし、歴史を支配しておられる神の摂理により、信教の自由は、敗戦を通して、ついにわたしたちの国日本にもたらされるに至ったのです。

今後、よりよい日本の建設のために、わたしたちは、心を尽くして、歴史を支配しておられる、全能にして、この上なく善であられる神の御心にかなう者にならなくてはなりません。神の戒めに従って、神を敬い、隣人を愛し、たんに精神的・文化的側面においてだけではなく、「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現わす」(コリント一10・31)ことをもって最高の目的にしなければなりません。

この有神的人生観・世界観(Theistic life- and world-view)こそ、新しい日本を建設するための、ただ一つの確かな基礎である、ということは、日本キリスト改革派教会の第一の主張であり、わたしたちの熱心はここにあるのです。

ただし、真の宗教だけが国家の基礎、また文化の根底であるという主張は、国政や文化活動そのものを宗教団体の支配下に置くべきであるとする教権主義思想を意味しているわけではありません。とりわけ、地上の政権と宗教との関係について、わたしたちは、政教分離の原則(Separation of Church and State)が、近代国家の知恵であると共に、聖書の教えにかなうものであると信じていますので、信教の自由、教会の自律性を尊重するのです。

II 第二の主張:信仰告白・教会政治・善き生活を具備した教会の建設

そもそも人類は、神の御前に一体であり、等しく罪に仕える者でした。しかし、神は、罪ある人類のために、永遠の熟慮によって救いの御計画を打ちたててくださり、御子イエス・キリストの歴史的な贖いのみわざをもってこれを歴史の中に実現してくださり、永遠の生命に定められた人々に信仰をお与えになり、召してくださり、これを義と認めてくださり、神の子としてくださり、聖なる者に造りかえてくださりながら、その神が人間と共に住んでくださるのです。

これがわたしたちの信じる宗教なのであって、その救いは人類の罪の起源と共に古く、それからまた人類のまったき救いの完成の日にまで至ります。

四千年の昔、神はアブラハムをお選びになって「信仰の父」にしてくださり、彼と契約を結び、彼の子孫に恵みを与えてくださり(ただし不信仰な者はしりぞけられました)、彼らにその知恵、大能、慈愛、真理をあらさわれたのでした。

それからまた、時は満ち、御子イエス・キリストをお遣わしくださり、このお方の十字架の死と復活によってわたしたちの救いの基礎が置かれたとき、不思議な御摂理により、この救いの福音はユダヤ人の不信仰を通して全世界に及ぶことになったのです。

すなわち、神の救いは、旧約時代の一時的なユダヤ民族的な枠組みを克服して、本来有していた国際性を発揮し、使徒たちによって「すべての国民の主、世界の光」として宣べ伝えられましたので、新約時代にあって、キリスト教会は、全世界にその存在を見ることができるようになったのです。

神だけが明らかにご存じであられる、いわゆる「見えない教会」(invisible Church)は、全世界にわたって、過去、現在、未来というすべての歴史を通し、地上と天上とを貫いている、聖なる唯一の公同教会として存在しています。

しかしながら、わたしたちは、地上において、見えない教会の唯一性が、第一に信仰告白(Confession)、第二に教会政治(Church-government)、第三に善き生活(good life)という三つの要素を充分に備えている「一つの見える教会」(visible Church)として具現化されなければならないということを確信するのです。これが、日本キリスト改革派教会の第二の主張です。

1) 信仰告白

「一つの見える教会」を構成する第一の要素である「信仰告白」について言えば、教会は、この問題に関して神の栄光と自分自身の永遠の救いのために、絶え間ない霊的な闘いに励まなければなりません。新約のキリスト教会も、初代から今日に至るまで、あらゆる異端と闘い、これに勝利し、真理を保持してきたのです。わたしたちは、このキリスト教信仰の正しい伝統に立つことに熱心な者たちです。日本キリスト改革派教会が、次に記す前文を付加してウェストミンスター信仰告白ならびに大・小教理問答書を信仰基準として採用した意図も、ここにあるのです。

日本キリスト改革派教会信仰規準の前文

神がご自身の教会にお与えになった神の御言である旧・新両約聖書は、教会の唯一で無謬の正典です。聖書において啓示されている神の御言は、教会によって信仰告白されて、教会の信仰規準になるのですが、これが教会の信条というものです。教会は、昔から、使徒信条、ニカイア信条、アタナシウス信条、カルケドン信条という四つの信条を、キリスト教会の基本信条ないし公同信条として共有してきました。宗教改革の時代に至って、改革派諸教会は、それら諸信条の正統的な信仰の伝統に立ちましたが、これらに留まるのではなく、純正に福音的であろうとし、それだけではなく、すべての教理にわたり、さらに純正であると共に、すぐれて体系的である新しい信条の作成に導かれるに至ったのです。その三十数個の信条の中では、ウェストミンスター信仰規準は、聖書に教えられている教理の体系として、最も完備されているものであることを、わたしたちは確信しています。わたしたち日本キリスト改革派教会は、わたしたち自身の言葉をもって、さらに優れた信条を作成する日を祈り求めているとはいえ、このウェストミンスター信仰規準こそ、今日、わたしたちの信仰規準として最もふさわしいものであることを確信し、讃美と感謝とをもって教会の信仰規準とするのです。

2) 教会政治

第二の要素である「教会政治」に関して言えば、長老主義(presbyterianism)が聖書的教会に固有な政治形態である、と信じることをもって、わたしたち日本キリスト改革派教会は、これを純正に実施したいと願っています。監督制(episcopalianism)、会衆制(congregationalism)は、法王制(Papism)と共に、人間的見地からすれば、それぞれに長所を持っているものなのですが、教理の純正と教会の清潔を守ることのために、長老制に勝るものはありません。わたしたちは、単に伝承主義的(traditionalistic)な意味で長老制に固執しているわけではなく、健全な理性の判断によっても、長老制は最良の政治様式であると言わざるをえないのです。第二次大戦前の「日本基督教会」は、少なくとも教会規定の上では、長老制を採用していたのです。

3) 善き生活

第三の要素である「善き生活」とは何でしょうか。わたしたちは律法主義者ではありませんが、律法廃棄論者でもありません。キリストによる贖いに基づいて、聖霊なる神がわたしたちのうちに恵みとして与えてくださる聖化は、信仰者がかならず熱心に祈り求めなければならないものです。完全な聖化は、地上においては与えられません。わたしたちは、日毎に自分自身の罪の赦しを求めていきます。わたしたちは、自分に罪を犯す者の罪を赦さなければならないとはいえ、聖霊に感化されて互いに兄弟の罪を戒め合うことは、キリストにある者がしなければならないことなのです。宗教改革運動の主要な潮流である改革派教会の最大の指導者、ジャン・カルヴァンが働いたジュネーヴの教会が、信仰生活の訓練に関して模範的な実績を示したことは、多くの人が知っている事実ではないでしょうか。

このように、わたしたちは、一つの見えない教会を、第一に信仰告白、第二に教会政治、第三に善き生活という三つの要素を有する「一つの見える教会」として具現化し、これをもって唯一の聖なる公同の教会の肢であるという事実を確信させられ、わたしたちの救いの確かさを証しすることを願っています。各地に散在している各個教会(local church)の統一は、あくまでもこれら三つの要素の一致に基づくべきであり、またこの三点は、相互に深く論理的・体系的に関係づけられていますので、教理と教会政治と生活の三者は一元的なものなのです。

日本におけるプロテスタント諸派の完全合同をめざした合同運動は、「日本キリスト教団」(United Church of Christ in Japan)の成立により、いちおう目的を達成したと考える人がいます。けれども、「日本キリスト教団」は、今日に至ってもなお、今述べたような意味での一つの教会になることができているわけではありません。彼らの全面的不成功は、それを求める方法が間違っていることに原因がある、と言う他はありません。

以上の略述によって明らかにされたと言いうることは、わたしたち日本キリスト改革派教会は、ほんの少しでも、いわゆる分派的精神(sectarianism)に由来するものではありえないのだ、という一つのことです。正しい筋道に従って形成して行く教会の公同性と統一性は、わたしたちの最も大切にするところであり、わたしたちの教会の真髄なのです。

「改革派教会」(Reformed Church)という名称も、新しい造語であるかのように誤解されてはなりません。教会の歴史が明らかにしているとおり、改革派教会とは、宗教改革によって生み出されたプロテスタント諸教会の内部に組織されたひとかたまりの教会に付けられた名称です。この名をもって呼ばれている教会は、年代的にはすでに四百年以上の歴史を持っており、ヨーロッパ大陸においてはその四分の三を占めるプロテスタント諸教派の中では最大の教派なのです。

しかも、一時代的な、あるいは一地方的な性格を帯びている教派ではありません。改革派教会は、宗教改革の原則を首尾一貫して主張する真の福音主義であるだけではなく、さらに真正なる公同性と正統性をも保有するものであって、聖書的・使徒的教会の再現を標榜する教会です。イングランドやアメリカにおいて長老教会と呼ばれる教会は、すべてこれに属しているのです。

真に世界的で正統的な地上教会でありたいと志すこの光り輝く歴史的改革派教会の一つの肢として、今日、日本人によって、日本において、わたしたち日本キリスト改革派教会が組織され、設立されるに至ったことを、わたしたちは、神の深い恵みの導きとして、厚く感謝せざるをえません。

けれどもまた、わたしたちの教会の誕生が、この国のキリスト教会の歴史における画期的な一頁となり、源清く正しい進展を経由してきたキリスト教教理を堅持する教会として、果敢な進軍をなし、健全な発達を遂げて行くことこそ、日本とその国民に対して示す、わたしたちの愛の最も優れた表現なのです。

III 世界の希望としてのカルヴァン主義

世界はまさに転換しつつあります。近代世界は、すでに終止符を打たれました。新しい世代は、すでに胎動を開始しました。そうであるならば、これから迎えようとしている時代の精神的指導者となるのは、誰なのでしょうか。宗教はすでに実力を喪失し、無神論的唯物史観に場所を譲ったと断定できるでしょうか。いいえ、そうではありません。

過去を公平に静止する人々は、世界における人類の精神文化を生み出し、かつ指導してきた最大の能力は宗教であったということを、否定できません。しかも、純正な宗教の上にだけ、健全な文明は築かれたのです。

ヨーロッパ文明について、このことを見てみましょう。古代社会の危機に際し、個人の道徳観念の腐敗、国家や社会の秩序の崩壊を救い、中世文明を樹立したのはイエス・キリストの宗教(原始キリスト教)に他なりません。中世の危機に際し、同じような働きをしたのはイエス・キリストの宗教(宗教改革のキリスト教)に他なりません。今や三度目に、近代文明がまたもや危機に直面しているのです。世界は、これが救いであるというものを何に求めることができるのでしょうか。同じように、イエス・キリストの宗教(改革派のキリスト教)の他には無いのです。

宗教改革のキリスト教は、原始キリスト教の再興です。改革派教会は、この宗教改革の真理を最もよく保有している教会です。中世に原始キリスト教が、近代に宗教改革のキリスト教が、それぞれ果たした使命こそ、じつに改革派のキリスト教が次の世代に対して負うことができる大きな使命であるということは、わたしたちの自負としてというよりも、重い責任として痛感しているところなのです。

世界の希望はカルヴァン主義の神にあるのです。

神よ、あなたの栄光を仰がせてくださいますよう、お願いいたします。わたしたちは、与えられた一切をあなたにおささげしますので、あなただけを、わたしたちの神、わたしたちの希望として仰がせてください。あなたがすでにわたしたちのうちに始めてくださっている大いなるみわざを完遂してくださいますように。

アーメン。

昭和21年4月29日 (創立大会日)

原典は「教会ハンドブック 宣言集」第三刷(1988年2月20日発行)