ルカによる福音書1・26〜38
「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」
「六ヶ月目に」とあります。何の六ヶ月目なのかということを、最初にご説明いたします。今日の個所を理解するための重要なキーワードであると思われるからです。
見ていただきたいのは1・24です。「その後、妻エリサベトは身ごもって、五ヶ月の間身を隠していた」。このすぐあとに出てくる「六ヶ月目」ですから、これは「妻エリサベト」の妊娠期間を指しているというのが、ごく自然な読み方でしょう。
しかし、これは第一の可能性です。第二の可能性があると思います。そしてわたし自身は第二の可能性のほうを選びたいのです。それは六ヶ月前に起こった出来事との関連で考えられる可能性です。
六ヶ月前に何が起こったかは、1・8以下に書かれています。
「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。』」
この天使はガブリエルと名乗りました。マリアに現れた天使と同じです。そして、この天使の出現からまもなくして、ザカリアの妻エリサベトが男の子を身ごもりました。その名をヨハネと名付けました。のちの偉大な預言者、バプテスマのヨハネです。
それが六ヶ月前の出来事です。そして、六ヶ月目、マリアの前に、再び天使ガブリエルが現われました。つまり、「六ヶ月目」の意味の第二の可能性は、エリサベトの妊娠期間ではなく、天使ガブリエルの出現の間隔を指している、ということです。ルカは、天使の側の動きに注目し、そちらのほうを強調していると思われるのです。
この福音書の中で、次に天使が現われるのはどの場面かを、皆さんはよくご存じでしょう。最初のクリスマスイブです。野宿していた羊飼いたちの前です。「恐れるな」と、その夜も天使は言いました。ザカリアの前でも、マリアの前でも「恐れるな」と言いました。主の天使は、同じ言葉を少なくとも三回、それぞれ違う人々に向かって語りかけました。そのことをルカは、読者に伝えようとしているのです。
ルカがしているのは、要するに「天使の話」であるということです。ですから、これはもちろん、たいへん不思議な話に属します。天使の存在など信じない人々の時代にあっては、こんなのは「神話」であると言って否定する人々が出てきて当然であるとも言えます。
しかし、今日の最初に考えてみたいと願いましたことは、まさにこの問題です。「神話」と言います。「神の話」と書きます。よく考えてみますと、神さまのお名前が出てくる話は、じつはすべて「神話」なのです。
とはいえ、わたしたちの時代において「それは神話である」と言われるなら、ただちにそれは、すべてウソの話である、という意味になってしまいます。ところが、聖書は神の話で満ち満ちています。「神話」で満ち満ちています。ということは、聖書などという書物は、まったくウソに満ち満ちている、ということを意味せざるをえないのです。
しかし、わたしたちは、まさか、聖書のすべてがウソであると考えることはありません。ただ、もし「神話」という表現が誤解を招くようでしたら、「信仰の話」と言い換えるほうがよいかもしれません。なるほど、たしかに言いうることは、聖書の物語はすべて「信仰の話」です。神学も信仰の話です。信仰についての学問的認識です。しかしそれはウソの話ではありません。
次のように理解できるのではないでしょうか。エリサベトとマリア、そして羊飼いたちに天使が現われ、「恐れるな」と語りかけた。このように、彼らが信じたのです。彼らには天使の存在を信じる信仰があり、そして実際に彼らの前に天使が現われたと彼らが信じ、彼らに向かって天使が語りかける言葉を、彼らがたしかに聴いた、と信じたのです。
このことについては、だれも否定できないでしょう。もちろん、彼らの信仰の内容を、わたしたち自身の信仰として受け入れることができるかどうかは、別問題かもしれません。しかし、わたしたちは、彼らの信仰そのものを、否定することはできないのです。
「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」
天使はマリアの前にも現われました。天使がマリアのところに現われた、とマリア自身が信じた、ということでもあるでしょう。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。この言葉に対して、マリアは戸惑ったと書いています。びっくりした、という意味です。
しかし、彼女がびっくりしたのは、天使が現われたこと自体ではありません。天使の存在自体に驚いたわけではありません。
それどころか、34節を見ますと、マリアは、天使に向かって、まるで当たり前のように言葉を返しています。天使と会話しています。彼女は天使の存在に気づかされて驚いたのではないのです。天使が語りかけてきた言葉の内容に、びっくりしたのです。
「おめでとう、恵まれた方」。これがのちに、ラテン語の「アヴェ・マリア」という表現で広く知られるようになりました。
しかし、マリアが驚いたのは「おめでとう」と言われたからでしょうか。おそらくそれも、彼女の驚きの理由に含まれると思います。おそらくそれだけでは、まだ十分な説明にはなりません。これはマリアの時代のパレスチナ地方では、ごく普通に使われていた挨拶の言葉だったからです。
もっと重大な言葉を、彼女は聞いてしまいました。「主があなたと共におられる」と。
「主」とは、神さまのことです。そして、神である主が「あなたと共におられる」ということは、そのとき、ただちに、神の救いがあなたと共にある、ということを意味します。このような言葉を聞くことができるのは、神への信仰をもって生きている人々にとっては、最も幸せなことです。
「主があなたと共におられる」。この言葉だけでも驚愕に価します。しかし、この言葉を聴いたときのマリアは、まだ、その本当の意味を知りませんでした。
「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』」
マリアに告げられた言葉の内容は、ごく大まかに言うと、以下の点にまとめられます。
第一に、あなたは男の子を産むので、イエスと名付けなさい、ということ。第二に、その子は「いと高き方の子」と呼ばれる、ということ。第三に、この子に対して、神はダビデの王座を与えてくださり、ヤコブの家(イスラエルの民)を永遠に支配する者になる、ということです。
第一の「イエス」という名の意味については、ハイデルベルク信仰問答の第29問の答えに書かれているとおりです。イエスとは「救う者」であり、そして「罪の中から救い出す者」という意味です。ただし、このイエスという名前自体は、当時のパレスチナにおいて特別なものではなく、ごく普通のありふれた名前であったにすぎません。
第二の「いと高き方の子」と呼ばれる、ということに関して申し上げることができるのは、「いと高き方」というこの表現自体が意味していることは、必ずしも聖書的・ユダヤ教的・キリスト教的な意味での「神」に限定されるものではない、ということです。もっと広い意味であり、異教の神々や偶像のことさえ意味することがありえました。ですから、結論的に言いうることは、「いと高き方の子」という表現が、そのままただちに「神の子」を意味するというふうに、マリアが最初から理解できたとは思えないということです。
むしろ、マリアにとって最も分かりやすく、また驚くに価すると感じられたに違いないことは、第三の点です。あなたの子に神はダビデの王座を与え、ヤコブの家、イスラエルの民を支配すると言われたことです。要するに、「あなたの子どもは、イスラエルのお偉い政治家になりますよ」ということです。
しかし、これからマリアの身に起こる出来事は、それらのこととは比べ物にならない位に、もっともっと大きなことでした。「神の子」が、このわたしから産まれる。このことがマリアにとって最も驚くべき出来事であったはずです。マリアは、まだ、肝心のことに気づいていません。
「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』」
このときマリアが戸惑っているのは、わたしは、まだ結婚もしていないのに、子どもが産まれるはずがない、というこの点です。加えて先ほどの第三の点、あなたの息子は将来、立派な政治家になります、という知らせにも戸惑っている、と言えます。
しかし、彼女が驚くべきことは、もっともっと大きなことでした。「神の子」が生まれるのですから。マリアがすぐに事態を理解できなかったのは、ガブリエルが「いと高き方の子」というやや曖昧な表現を使っていることにも、責任があるかもしれません。
「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。』」
天使はマリアの気持ちを察してくれた、と言いうるでしょう。マリアの抱いた差し当たりの疑問と不安の内容は、結婚していないのに子どもが産まれることなどありえない、というこの点だけでしたから。
この点については心配しなくてよい、ということです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。そして「神にできないことは何一つない」と、天使は語りました。
「神にできないことは何一つない」は、一種の決めぜりふです。これを言われると、二の句が継げないものがあります。神にできないことは何一つない、と言われると、それ以上語りうる言葉も何一つなくなります。
でも、それでよいのです。神さまがすべてのことを最善に導いてくださるのです。最終局面では、すべてを神さまに任せてしまえばよいのです。
ただ、もしここで、わたしたちが、「マリアの偉大さ」ということを語りうるとしたら、この時点で彼女が次の言葉を語りえた、というこの点であると思います。
「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』」
この意味は、神の御言が、そのままに、自分の身に実現し、成就しますように、ということです。十分には理解できませんが、お任せします、ということでしょう。
しかし、「どうにでもなれ」というような、投げやりな言葉ではありません。神よ、あなたの言葉を信頼し、すべてを委ね、従います、という信頼と服従の表現です。
この言葉を語ることができた人、この信仰深い女性に、主なる神は、御子のご降誕の奇跡のみわざを委ねたのです。
(2004年11月28日、松戸小金原教会主日礼拝)