2004年12月5日日曜日

マリアの賛歌

ルカによる福音書1・46~56

わたしたちは今日、アドベント第二主日を過ごしております。

わたしたちはアドベントを「待降節」と訳しますが、アドベントという言葉自体には「待つ」という意味はありません。アドベントの意味は「来る」です。「待望」ではなく「到来」です。

神の御子イエス・キリストがわたしたちのところに到来してくださるのを待ち望む。かつて来てくださり、やがて再び来てくださる主の到来を待ち望む。これがアドベントにふさわしいことです。

さて今日の個所に記されていますのは、マリアの歌です。天使ガブリエルによって救い主イエス・キリストのご降誕の事実を告げられたマリアがうたったとされる歌です。

この歌は、日本でもラテン語で「マグニフィカート」と呼ばれることがあります。この歌の最初の歌詞である「わたしの魂は主をあがめ」はMagnificat anima mea Dominum(マグニフィカート・アニマ・メア・ドミヌム)といいます。この中の「あがめる」を意味するマグニフィカートが、この歌のタイトルとして覚えられてきたのです。

マリアはこの歌をヨハネの母エリサベトの前で歌いました。エリサベトは聖霊に満たされて「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と言いました。「そこで」マリアは、歌ったのです。

歌の内容に入る前に、エリサベトの言葉の中の最も大切な点を以下三点のみ指摘しておきます。

第一点は、エリサベトがマリアのことをはっきりと「わたしの主の母」と呼んでいる、ということです。

「主」とは、明らかに、神御自身を指して言う言葉です。ですから、エリサベトの言葉は「わたしの神の母」と言っているのと同じである、ということです。マリアは「神の母」と呼ばれたのです。実際、古代教会において、マリアは「神の母」を意味するテオトコスと呼ばれました。

これは異端的な表現ではありません。マリアの存在を正しく適切に示す表現として、教会において正統的に受け入れられました。わたしたちの教会の信仰によると、イエス・キリストは端的に神御自身である、と告白しなければならないのです。

第二点は、エリサベトの言葉の中に出てくる、マリアの挨拶の声を聞いて喜んで踊った「胎内の子」とは、バプテスマのヨハネのことである、ということです。

とくに興味深く感じましたのは「踊った」というこの表現です。非常に面白い表現ですし、またとても素晴らしい翻訳であると感じました。

外国の聖書を調べてみましたところ、たいていの場合「喜んで跳ねる」(leap for joy; huepfen vor Freunde; van vreugde opspringen等)という意味の言葉で訳されていました。

しかし日本語の「踊る」は明らかにダンスを連想させます。ダンシング・ベイビーです!この幼子こそがバプテスマのヨハネなのです。

第三点は、エリサベトがマリアに語りかけた言葉とマリアの歌との間には関係があるかどうか、ということです。

マリアの歌の内容は必ずしも、エリサベトの言葉への返事とは言えないと思われます。そのような対応関係は見当たりません。むしろ、マリアが歌っている内容は、彼女自身の体験です。全く個人的な体験です。

また、もう一つ明らかなことは、このマリアの歌には明らかにモデルがあったということです。旧約聖書サムエル記上2・1〜10の「ハンナの祈り」です。読み比べてみると非常に似ていることが分かります。

マリアは当然「ハンナの祈り」の言葉を聖書を通して学び、よく知っていたに違いありません。マリアは、それを思い起こし、ハンナの体験と自分自身の体験とを重ね合わせて見ているのです。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

「わたしの魂は」とか「わたしの霊は」と言われています。ハンナの祈りでは、「わたしの心は」と言われています。これは、「わたし自身は」という意味です。

旧約聖書の言語であるヘブライ語には、自分自身(I myself)とかそれ自体(itself)ということを表現するためのselfに当たる再帰代名詞が存在しないので、このように表現するしかなかったと言われます。マリアはこの旧約聖書的な表現を、ハンナの祈りから受け継いでいます。

わたしの「魂」や「霊」だけが、あるいは「心」だけが、神を讃美するのではありません。このわたし自身の存在そのものが、そしてわたしの全身全霊が、救い主なる神を讃美するのです。

「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」

マリアは、わたしが救い主なる神を喜び、讃美する理由は何であるかを述べています。

その際、彼女は自分のことを「身分の低い、主のはしため」と呼んでいます。この表現はハンナの祈りにはありません。

これについては、二つの読み方が考えられます。

本当は身分が高いのに、謙遜の表現として、自分自身をおとしめている、というような読み方がありえます。

しかし、そうではないという読み方もありえます。後者のほうが正しいと、わたしは考えます。マリアは当時のいわゆるこの世的な価値判断においては実際に「身分が低い」と見られても仕方がないような境遇や立場にあったのです。

裕福であるとはとても言えない。人から誉められたり羨ましがられたりするようなところも、特に何もない。むしろ、人から軽んじられることのほうが多いと感じる。

そのようなことで悩んだり、なんとなく憂うつな気持ちになったり、人生に絶望したりしている人は、おそらく非常に多いのだと思います。

しかし、何も持っていないほうが気楽と感じることもきっとあるでしょう。そのほうが多いかもしれません。

あの人はたくさん持っている、と思われている人が、意外に不満だらけの人生を送っているということがありえます。ごく一般論として「世の中にはお金で買えないものがある」と言われるではありませんか。

マリアは、人からうらやましがられるようなものをわたしは何一つ持っていない、と自覚しています。しかしわたしは幸せである。わたしの心は喜びで満たされている。そして今や神を喜び、讃美している。なぜなら、神がこのわたしのことを顧みてくださったからである、と歌っているのです。

「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」

これは、マリアが本当に喜んでいた様子がよく分かる表現であると思います。

たしかにマリアは、自分が神さまから顧みられたことを喜んでいます。しかし、その彼女は明らかに、そのことをできるだけ多くの人々に知らせたいと願っていることが分かるのです。

なぜならば、マリアのことを、今から後、いつの世の人も、"あの人は幸せ者である"と語り継いでいくためには、まず最初にマリア自身が、自分の身に起こった出来事を多くの人々に語る必要があるからです。この喜びを誰かに伝えたいという意思が伝わってくるのです。

ただし、そうは言いましても、ところ構わず、だれかれなしにそういう話をしますと、自慢話のように聞かれてしまいます。煙たがられたり誤解されたりすると思いますので注意が必要です。

教会なら大丈夫です。同じ信仰を持つ仲間ならば、安心して「神さまの話」「信仰の話」ができます。

実際、そのことは、マリアにも当てはまるでしょう。「今から後、いつの世の人も」彼女を幸せ者であると言うのは、そのことを語り伝える聖書と教会があるからです。聖書と教会の存在を抜きにして考えることは、できません。

「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

ここは、マリアの歌の中で、おそらく最も具体的なことが語られている個所でしょう。ただし、ここで歌われている内容は、かなりの部分において、ハンナの祈りと重なり合います。

 「勇士の弓は折られるが よろめく者は力を帯びる。

  食べ飽きている者はパンのために雇われ

  飢えている者は再び飢えることがない。

  子のない女は七人の子を産み 多くの子を持つ女は衰える。

  主は命を絶ち、また命を与え 陰府に下し、また引き上げてくださる。

  主は貧しくし、また富ませ 低くし、また高めてくださる。

  弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から高く上げ

  高貴な者と共に座に着かせ 栄光の座を嗣業としてお与えになる。」

  (サムエル記上2・4〜8)

上のものが下になり、下のものが上になる。天地万物のすべてが逆さまになっていく様子が、描き出されています。

このことが神の民イスラエルに起こるというのです。「アブラハムとその子孫」に起こる。信仰によって義とされたすべての人は「アブラハムの子孫」であると使徒パウロは言いました。わたしたち教会の者たちも「アブラハムの子孫」なのです。

その出来事についてマリアの歌では「権力ある者をその座から引き降ろす」と言われ、またハンナの祈りでは「勇士の弓は折られる」と言われて、いずれも国家権力とか戦争などを示す、非常にはっきりとした政治的な表現が使われています。

ですから、ここには政治的なことが語られていると考えることもできるでしょう。

しかし、イエス・キリストの存在のみわざは、政治よりもはるかに大きいのです。政治のほうが大きいのではないかと考える人もいるかもしれません。しかし、イエス・キリストは、政治的な問題よりも、より大きく、より根本的な問題に触れているのです。

「思い上がる者を打ち散らす」とあります。傲慢の罪が問題だということです。身分や地位や名誉そのものがただちに悪いわけではないのです。それらのものが人間を傲慢にするかぎりにおいて悪いのです。

この、まさに最も根本的な問題としての「傲慢の罪」から生じるすべての問題を解決するために、救い主が来てくださったのです。

神の御子であられる方が、ご自分の立場を捨てて人間になられました。それによって、まことの「謙遜」を示してくださいました。この最も謙遜なお方を前にして、すべての人の傲慢が明らかにされたのです。

すべての傲慢な人間に“鉄槌”を食らわすために、謙遜な主イエス・キリストが来てくださったのです。

マリアがその人生の中で実際にどのような問題で悩んでいたかということは、わたしたちには知る由もありません。彼女の身近に誰か傲慢な人がいて、困らされていたのでしょうか。そのようなことも、全く分かりません。

しかし人間の傲慢の罪、このわたし自身の傲慢の罪の大きさと深さを知らされるとき、この罪から、このわたしを、わたしたちを、だれが救い出してくださるのだろうか、と祈り願う思いは、時代や歴史、人種や民族を越えて、共通のものがあります。

(2004年12月5日、松戸小金原教会主日礼拝)