2004年12月19日日曜日

この喜びの日を祝おう クリスマス礼拝

ルカによる福音書2・8~20


2004年度 松戸小金原教会クリスマス礼拝


関口 康


今日は、クリスマス礼拝です。わたしたちは、今日、救い主イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いするために集まってきました。


また今日、三名の方々が新しく松戸小金原教会の会員になりました。本当に素晴らしいことであり、大いに喜ぶべきことです。


この喜びの日を、みんなで心からお祝いしたいと思います。


「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」


「主の栄光」とは、そこに主なる神御自身がおられることを示す、天の光です。その光が彼らの周りを照らしました。


そのとき、何が起こったのでしょうか。天におられる神が、彼らに近づいてこられた、ということです。しかし、それだけではありません。神のおられる天そのものが、彼らのいる地上の世界へと、近づいてきたのです。


「天」と申しました。これを「天国」と呼ぼうと、「神の国」と呼ぼうと、同じことです。それぞれに別の場所があるわけではありません。


「天」とは神がおられる場所のことです。それはどこなのか、ということについては、説明しがたいものがあります。神がおられる場所が「天」なのです。


そして、この天が地上の世界に近づいてきた、ということは、天とは動くものである、ということです。


そのように考えるのでなければ、わたしたちキリスト者がいつも祈っている「御国を来たらせたまえ」という主の祈りの言葉の意味を理解することはできません。


「御国を来たらせたまえ」とは「御国が来ますように」、つまり、神のおられる天そのものが、わたしたちのいる地上の世界へと近づいてきますように、という意味です。


わたしたち夫婦が、事あるごとに二人の子どもたちに言い聞かせていることは、こうです。一般的には理解されないことかもしれません。


「ぼくたちは、『死んだら天国に行く』のではないよ。天国のほうから、ぼくたちのほうに来てくれるんだよ。天国は『行くところ』ではなくて、『来てくれるところ』なんだよ。そんなふうに、いつも祈っているじゃないか」。


救い主イエス・キリストがお生まれになったとき、ベツレヘムの羊飼いたちのいる場所で起こった出来事も、まさにそのことでした。「主の栄光が周りを照らした」。天国が、彼らに近づいてきたのです!


しかし、彼らは、そのことを、非常に恐れました。当然のことかもしれません。


天国が近づいてきた、ということを、わたしたちならば、どのように考えるでしょうか。


やはり、そこでどうしても考えてしまうことは、地上の人生がついに終わる、ということではないでしょうか。「お迎えに来る」という言い方があるくらいです。


羊飼いたちが自分の死を覚悟しなければならないほどの苦境に立たされていたかどうかは分かりません。厳しい労働を強いられていたとか、生命の危険があった、というようなことは、どこにも書かれていません。


しかし、人生の終わりは、ある日突然、何の予告もなく、やってくることがある、ということも事実です。天国が向こうから突然近づいてくる、ということは、人間の恐怖の理由でもあるのです。


ところが、天使の言葉は、羊飼いたちに、安心と喜びを与えるものでした。


「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」


天使が告げたのは、大きな喜びの知らせでした。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という知らせでした。


ひとまず明らかなことは、「天国が近づいてくる」という出来事の意味は「わたしの人生が終わる」ということだけではない、ということです。


「わたしたちのために救い主がお生まれになる」ということも、言葉の十分な意味で「天国が近づいてくること」なのです。


神の御子イエス・キリストは、わたしたちと同じ姿で、わたしたちのいる地上の世界にお産まれになりました。それは、わたしたちのいるこの地上に、真の救いがもたらされた、ということです。


わたしたちがイエス・キリストとの出会いを果たし、救われる場所は、この地上において、なのです。


なぜわたしは、このようなことを強調するのでしょうか。わたしたちの時代に生きている多くの人々が、地上での生活に絶望しているからです。


もちろん、それは今に始まったことではありません。


地上には救いがない。世界は邪悪な力で満ちている。暴力があり、殺人があり、戦争がある。わたしたちは、ここでどんなに長く生きていても、何の救いもないし、喜びもないし、希望もない。


そのように感じている人々、人生が嫌になっている人々が、たくさんいるのです。


しかし、そうではないのだ、と。この地上に、あなたがたのために、救い主がお産まれになったのだと、主なる神は、天使を通して、羊飼いたちに教えてくださいました。


死んだら天国に行けるのだから、早く天国からお迎えに来てもらいたい。地上の人生など一刻も早く終わりにしたい、などと考えるのは、やめなさいと、主なる神は、わたしたちにも教えてくださっているのです。


たとえ、傷だらけ、あざだらけの人生であるとしても、です。生きることが大切です。そして、この人生の中で、救い主なるキリストと現実に出会い、現実に救われることこそが大切なのです。


天使は、羊飼いたちに、今日お産まれになった乳飲み子は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている、と教えることによって、その方を探しに行くように促しました。


救い主は、あなたがたのすぐ近くにおられる。歩いて行ける距離に、同じ町の中におられる。そして、「その方だ」と、見ればすぐ分かるようなお姿をしておられる。


そのことを、天使を通して、主なる神は、彼らに教えてくださいました。


なぜ飼い葉桶なのか、なぜ家畜小屋なのかについての説明はありません。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と書かれています。しかし、これは原因ではあっても、理由ではありません。


ただ、おそらく一つだけ、わたしたちに知らされていることがあります。


それは、ここで「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」ということこそが、羊飼いたちがその方を救い主であると識別するための「しるし」である、と語られていることです。


ここで考えさせられることは、ベツレヘムの羊飼いたちが、そのとき置かれていた境遇は、どのようなものであったか、ということです。


言い換えるなら、“彼らにとって”、その方こそが救い主であると“感じる”ことができる姿は、どのようなものであったか、ということです。


わたしたち自身のこととして考えてみると、よく分かるでしょう。“わたしたちにとって”、その方こそが救い主であると“感じる”ことができる姿は、どのようなものでしょうか。


おそらく、わたしたちの多くは、「ごく普通の生活」をしています。そういう自覚があると思います。


この、ごく普通の生活をしている、ごく普通の人間たちにとって、自分自身の生活感覚からして、あまりにもかけ離れた姿を持つ存在を「わたしの救い主」と信じて告白することができるでしょうか。


「わたしの救い主」は、少なくとも、まさか、人生のすべてを贅沢で埋め尽くしているような存在の姿ではないだろう、と思われるのです。


贅沢のすべてがいけない、という話ではありません。わたしは今、そういう話をしようとしているのではありません。


しかし、貧しさや飢えに苦しんでいる人々が現実に存在するにもかかわらず、そのようなことに関心も配慮もなく、贅沢な人生を送っているような存在を、誰が尊敬するでしょうか。そんな救い主を、誰が信じるでしょうか。


むしろ、誰よりも貧しい姿で、枕して眠る場所もないような苦境に置かれている、そのようなお方こそ、わたしたちの人生の柱とし、支えとして信じ、受け入れるべき存在なのである、ということが語られているのです。


「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」


ベツレヘムの平原に、天使の賛美の歌声が、響きわたりました。この歌の内容も、神のおられる天とわたしたち人間の住む地上の世界との関係は、どのようなものであるのか、ということに関わっています。


そして、ここでも思い起こすべきは、「御国を来たらせたまえ」という祈りの言葉です。神の御子イエス・キリストのご降誕によって、神の栄光が輝く御国が地上に近づいてきたのです。


地上で、ひとが救われるのです。現実の救いを、地上で体験できるのです。


そして、その救いは「地上の平和」という形でもたらされるのだ、と信じてよいのです。


「地上の平和」などないではないか、と叫びたくなるような現実の中にあっても、です。わたしたちは、それを熱心に祈り求める必要があります。


地上にいるかぎり、その祈りをやめることはできません。その祈りをやめるならば、まさに、真の絶望に陥るのです。


「地には平和、御心に適う人にあれ」という訳は適切なものです。しかし、ギリシア語の原文を見ますと、もっと端的で、もっと意味深い言葉が書かれていることが分かります。


「御心に適う人」〔アンスローポイス・エウドキアース〕の「御心」〔エウドキア〕とは、わたしたち改革派教会が重んじるウェストミンスター信仰告白などでグッド・プレジャー・オブ・ゴッド(Good pleasure of God)と訳されている言葉です。


グッド・プレジャー(Good pleasure)のグッド(Good)は「善い」であり、プレジャー(pleasure)は「喜び」という意味です。ですから、直訳するならば「神の善い喜び」ということになりますが、そのような日本語はありません。「善意」とか「好意」と訳すことはできるでしょう。


しかし、それこそが、ここで「御心」と訳されている言葉の真意です。そうだとすれば、せめて、「喜びに満ちあふれた神の御心」と訳したいところです。神の御心の中身は「喜び」なのです!


「御心に適う人」とは「喜びに満ちあふれた神の御心に適う人」のことであり、要するに「喜びの人」です。


それは"永遠に神を喜ぶ"人です。しかし、それだけではありません。


だれよりも先に神御自身が「喜ぶ存在」である、ということを知り、神の喜びをわたしの喜びとして受け入れ、わたし自身が喜びに満たされて生きることができる人のことです。


地上に平和が実現することを神御自身が喜んでくださるのです。その喜びをこのわたしの喜びとすることができる人。それが「御心に適う人」です。


救い主イエス・キリストのご降誕という出来事の真の意味は、父なる神が、御子をお遣わしくださったことによって、御子を信じる者たちが、この地上の人生を喜ぶことができるようにしてくださった、ということです。


救いも、平和も、喜びも、生きながらにして体験し、味わうことができるものなのだ、ということを、神御自身が示してくださったのです。


歩いて行ける距離のところに、救いが実現しているのです。


だからこそ、です。


人生に絶望してはなりません!


恐れることなく生きていきましょう!


遠慮なく喜びましょう!


わたしたちの救い主は、いつもわたしたちと共におられるのです。


(2004年12月19日、松戸小金原教会主日礼拝)