2004年12月11日土曜日

わたしはあなたと共にいる


ヨシュア記1・5~9

今日は、初めて日本国際ギデオン協会千葉北支部の例会に出席し、奨励の奉仕をさせていただくことができますことを、心より感謝しております。

わたしは松戸小金原教会に今年の4月に赴任しました。3月までは山梨県の教会におりました。その前は、高知県や福岡県の教会で、牧師として働いていました。

わたしの行く先々に、ギデオン協会支部があり、非常に活発な活動がなされていました。高知県にいたときに、高知で全国大会が行われました。福岡県に行きましたら、次の全国大会は福岡県で開きましょうという計画を聞かされました。

全国大会が開催される地域のギデオン協会の支部は、ふだんから活発な活動がなされているところではないでしょうか。

そして、ギデオン協会といっても、そこに参加しているのは、その地の教会の信徒の方々です。間違いなく言いうることは、ギデオンが活発な地域では、教会も活発であるということです。

また、活発であるだけではなく、健全です。聖書の御言を少しでも多くの人々に何とかして読んでもらいたいという動機が、不純なわけがないのです。

そして、どの地の教会でも、ギデオン協会に関わっている人々の多くは教会の役員です。その教会の中で柱となっている方々です。

わたしの確信は、ギデオン協会が活発である地域は、教会が活発になり、健全になる、ということです。これは、お世辞で言っているのではなく、本当にそう思っております。

さて、先ほど司会の方が、旧約聖書のヨシュア記1・5~9を読んでくださいました。モーセの後継者ヨシュアに対して、主なる神御自身が語られた御言葉です。わたしの本当に大好きな御言葉でもあります。

「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」

神の民イスラエルは、40年の間、モーセという力強い指導者に率いられて、カナンの地を目指して、砂漠の旅を続けてきました。

しかし、人間に与えられた地上の命は、永遠に続くものではありません。わたしたち信仰によって生きる者たちには、永遠の命というものが約束されているにせよ、とにかく一度は死ななければなりません。とにかく一度は、死の力が、わたしたちの行く手をさえぎるのです。

神の民イスラエルに起こった問題も、まさにそのことでした。指導者モーセが死んだ。そのため、すみやかに、指導者の交代が起こらなければならなかったのです。

そこで、主なる神が神の民イスラエルの次の指導者としてお選びになったのが、ヨシュアでした。モーセは、主の命令に従い、ヨシュアにすべての職務を委ねました。

しかし、当時のヨシュアは、誰の目から見ても頼りなさを感じる、年若い人物でした。年令がすべてではないと言われるかもしれませんが、指導力やカリスマ性から考えると、天と地ほどの差があった、と思われるのです。

また、この種の問題は、周りの人々がどう見るかということよりも、本人の自覚や思いはどうか、ということのほうが重要だったりします。

「わたしは、まだ若いので、指導力が足りない。そのような重い責任は、わたしには負いきれない」と自分で思い込んでしまう。そう感じた途端、腰や足の力が抜けて、やる気を失い、指導力を発揮できなくなる人々もいるのです。

ヨシュアはどうだったでしょうか。彼自身は、弱音を吐かない人でした。彼の弱音を記した個所は、聖書の中には、ほとんど見当たりません。

しかし、それは彼が強かったからでしょうか。精神的にも・肉体的にも強靭な人物だったからでしょうか。そうではないでしょう。

むしろ、主なる神御自身が、ヨシュアに対して、いつも、「わたしは、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」と語りかけ、励まし続けてくださったから、重い職務を担うことができたのです。

神の御言が彼の存在とわざを、年若き頃から地上の人生の終わりに至るまで、力強く支え続けたのです。

少し気になる点を指摘しておきます。「わたしはモーセと共にいたように」(5節)とか、「わたしの僕モーセが命じた律法を」(7節)と書かれている個所です。

ここで強調されていることは、ヨシュアは、あくまでも「モーセの後継者」である、ということです。それ以上でも・それ以下でもない、ということです。

実際問題として言いうることは、初代の開拓者と二代目以降の後継者との間には、根本的な違いがある、ということです。このことは、否定したくてもできない、動かしがたい事実であり、現実です。

牧師仲間たちの中にも、初代の開拓者と比較されて、悩んだり、苦しんだり、腹を立てたりする人々を、しばしば見かけます。

しかし、わたしは、この種の問題については、よくも悪しくも開き直るしかない、と受けとめています。

開拓者には開拓者に固有な喜びと悩みがあり、後継者には後継者に固有な喜びと悩みがあるからです。

今日の例会の中で、この聖書の個所が読まれた理由を、わたしは知りません。千葉北支部の課題として、世代交代の問題があるのでしょうか。そんなことも全く知りません。もしかしたら、的外れなことを申し上げているのかもしれません。

しかし、今日皆さまにお勧めいたしますことは、主なる神を信じて歩みましょう、ということです。そして、良い意味で開き直って行きましょう、ということです。

あの牧師、あの役員、あの会員は年が若いとか、何が足りないとか、何をしてくれないと、不平不満を言い出したら、きりがありません。この種の不平不満は、世代交代期には避けられないことです。しかし、取るに足らない者を主の御用のために用いてくださる神の選びと召しとを信じて、歩んで行きたいと願います。

そして、主がヨシュアに対して「わたしはモーセと共にいたように」とお語りになったように、今や主は、わたしたちに対しても「わたしはモーセとヨシュアと共にいたように、あなたと共にいる」とお語りになります。イエス・キリストを信じるすべての人々と共に、主なる神が生きて働いてくださいます。

「あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」

これは、わたしたちにも、今、主なる神御自身が語りかけてくださっている御言葉です。

ギデオン協会千葉北支部の働きが祝福されますよう、お祈りしております。

(2004年12月11日、日本国際ギデオン協会千葉北支部例会、日本キリスト教団柏教会)