ルカによる福音書2・1〜7
関口 康
今日の聖書の個所に記されているのは、神の御子イエス・キリストのご降誕の次第です。
神の御子は、人間の母マリアからお産まれになりました。お母さんのお腹が大きくなり、そのお腹の中から子どもが産まれるという、そのこと自体はどこにでもある、ごく普通の出来事が起こりました。
しかし、そのようにして産まれた子どもは、神の御子であられました。決して普通ではない、全く特別な出来事が起こったのです。
「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」
当時のユダヤは、ローマ帝国の属国でした。ルカは、イエス・キリストの誕生の出来事を、ローマ皇帝アウグストゥスが、ユダヤを含むローマ帝国の全領土の住民に、住民登録をするようにとの勅令を出した、という歴史的出来事へと関連付けています。
住民登録の目的は、ローマ帝国に税金を納める義務を負う人々の数を調べることであったと言われます。その「最初の」住民登録が実施された、ということは、このとき以前には実施されていなかったことを示しています。
これは明らかに、ローマ帝国によるユダヤへの締め付けが、それまで以上に強化されたことを意味しています。
税金の問題、と言われると、わたしたちにとっても決して他人事ではないでしょう。毎日の生活に直接かかわる事柄です。
生活上の苦しみが増し加わるとき、人々の心の苦しみも必ず増し加わります。ユダヤの人々にとっては間違いなく屈辱的なことでした。しかし、逆らう術を持たない一般市民には、どうすることもできないことでした。
「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」
ヨセフとマリアも、住民登録をするために出かけました。出かけ“なければなりません”でした。マリアは身重の体で、ヨセフはマリアをかばいながら、長く苦しい旅をしなければなりませんでした。
ごく普通に考えてみて、妊娠中の女性が長旅を強いられるというのは、ひどい話です。ドクターストップものです。また、どんなことであれ、否応なく、強制的に何かをさせられる、ということ自体、腹立たしいことです。
しかし、そのようなこともまた、力なき一般市民にとっては抵抗することのできない運命として受け入れざるをえないことでした。
しかしまた、ルカがこのことを記している目的は、ただ単に、力なき彼らが従わざるをえなかった過酷な運命を描くことだけではない、と思われます。
実際、ルカは、たとえば、彼らの置かれた境遇はどんなものであったのか、とか、そのとき彼らが感じたことは何であったか、というようなことについては、一言も記していません。「彼らは嫌々ながら出かけて行った」とか「ローマ皇帝の勅令を怨みながら出かけて行った」というようなことは、一切書いていません。
むしろ、ルカが積極的に記していることは、御子イエス・キリストがお産まれになった場所が、ヨセフが住民登録をするために出かけて行ったダビデの町ベツレヘムであった、ということです。
明らかに「強いられた」という仕方で行かざるをえなかった彼らの旅行の行く先として指し示されたベツレヘムの地で起こった出来事は、主なる神がイスラエルの民に約束してくださっていたことの実現として起こったことである、ということです。
キリストがベツレヘムでお産まれになることについての聖書的根拠に関しては、マタイによる福音書2・4以下に書かれていることが、参考になります。
イエス・キリストがお産まれになったことを知って駆けつけた東方の博士たちの言葉を聞いたヘロデ王が、民の祭司長たちや律法学者たちに、メシアの生まれる場所について聖書にはどう書いているかを調べさせた結果、彼らは次のように答えました。
「彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」』」
ここで彼らが引用しているのは、旧約聖書のミカ書5・1です。ただし、実際のミカ書を見ますと、内容は違っているように見えます。
「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」
このような違いがどうして起こったのかは分かりません。しかし、ベツレヘムからイスラエルの牧者ないしイスラエルを治める者が出る、という最も大切な点については、一致しています。
ですから、このように語ることができます。
待望されたメシアは、ベツレヘムで産まれる。そのことは、あらかじめ約束されていた。その約束の成就が起こるために、ヨセフとマリアは、ベツレヘムに出かけなければならなかった。
ところが、彼らが出かけなければならなかった直接の原因ないし理由は、ローマ皇帝アウグストゥスの命令であった。アウグストゥスがそれを命令したのは、彼自身の政治的野望の具体化でもあった。
そうであるならば、アウグストゥスの野望は、彼自身の思いや計画を越えて、メシアとしてのキリストがベツレヘムで産まれる、という主なる神御自身の約束の実現のために「用いられた」と理解する他はない、と。
わたしは今、このように語りながら、とんでもないことを口にしているような気がしています。ローマ皇帝の政治的野望は、神御自身がお与えになったものである、と言っているのと同じことですから。そんなことがあってたまるか、とお叱りを受けるかもしれません
しかし、このようなことが実際にありうる、ということは、じつは、聖書のそこかしこに見出すことができます。
最も有名な個所の一つは、旧約聖書・出エジプト記の最初の部分に登場するエジプト王ファラオの例です。
主なる神は、モーセに対し、エジプトにいるイスラエルの民を約束の地カナンに連れて行くようにお命じになります。ところが、そのモーセたちのエジプト脱出計画をエジプト王ファラオが再三にわたって阻止しようとします。
そのファラオの行為は、モーセたちを激しく悩ませ、苦しめるものとなるのですが、なんと、ファラオの心をそのように頑なにしているのは、他ならぬ主なる神御自身である、ということが、はっきりと書かれているのです(出エジプト記7・3など)。
他にも、似たような例があります。
創世記37章以下に出てくるヨセフ物語を、皆さんはよくご存知であると思います。ヤコブの十一番目の息子ヨセフが、父の寵愛を受けていたことを、十人の兄たちが妬み、弟ヨセフをエジプトの奴隷商人に銀二十枚で売り飛ばしてしまう、という物語です。
ところが、そのヨセフが、なんと、エジプトの国務大臣になります。そして、ヨセフの兄弟たちが飢饉に悩まされ、エジプトに助けを求めに来たときに、彼らの命を助ける役目を、ヨセフ自身が果たします。
そのときにヨセフが、かつて彼自身を売り飛ばした兄弟たちに対して語ったのが、次の言葉でした。
「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(創世記45・4〜5)。
もちろん、これは、ヨセフ自身が語った一種の信仰告白です。しかし、彼が信じ、かつ告白している神のなさったことは、ヨセフを売り飛ばした兄たちの行為は、他ならぬ神御自身のご計画であった、ということに他なりません。
“こんなこと”を、“神さま”がなさるのです。モーセたちを苦しめたファラオの心を頑なにしたのは、神御自身である。ヨセフを苦しめた兄弟たちの行為は、神御自身のご計画である。“こんなことをなさる神”を、聖書は証ししているのです!
そして、そうであるならばこそ、イエス・キリストが約束の地ベツレヘムでお産まれになるために、身重のマリアと夫ヨセフに苦しい長旅をさせたローマ皇帝アウグストゥスの政治的野望もまた、神御自身のご計画にあって「用いられた」のだ、と語ることができるのです。
ひどい話といえば、こんなにひどい話はない、と言わなければならないほどです。しかし、これこそが、神さまのなさり方です。
主なる神は、わたしたちには思いも寄らない仕方で、想像を絶する仕方で、天地万物を支配し、保ち、御心のままに導いておられます。神のご計画の量りがたさを思わずにはいられません。
主なる神御自身が天地万物を支配しておられ、悪魔的な人々のわざでさえもご自身のご支配の下に置いておられるというこの信仰を、わたしたちは、「神の摂理」を信じる信仰と呼びます。
ハイデルベルク信仰問答の第27問に「神の摂理」についての解説が記されています。
「神の全能の、いま働く力です。神はこの力によって、天と地と、その中にあるすべての被造物を、いまも、手で支えるように、保持しておられます。また、神がこの力によって、これらを統治しておられますので、木の葉も草も、雨も旱魃(ひでり)も、豊かな実りの年も実らぬ年も、食べ物も飲み物も、健康も病いも、豊かさも貧困も、これらすべてが、偶然にではなく、慈しみ深き父としての神の御手から、わたしたちに届くのであります。」
「実らぬ年も」です。「病い」も「貧困」も、と告白されています。神の摂理というと、神からいただく良いものばかり、と考えがちですが、わたしたちを苦しめ、困らせるものも、摂理的に与えられるものなのです。
「神さま、そんなものは要りません。どうか取り除けてください」と、思わず言いたくなるかもしれません。
しかしまた、神の摂理というものは、わたしたちにとって、嫌なことばかりであり、主なる神への不信感の原因となるばかりである、というわけでは決してない、と語ることができます。
視野を少し広げて考えてみると分かります。モーセたちの邪魔をしたファラオも、ヨセフを売り飛ばした兄弟たちも、ヨセフとマリアを苦しめたアウグストゥスも、すべては主なる神の力強いご支配の下にある罪人たちにすぎないことが、分かるのです。
そして、そのような悪魔的な人々をも、主なる神は、御自身のご支配の下に置いておられます。神の許しなしには、彼らもまた、何一つ行うことができないのです。
そうであるならば、神を畏れる者たちは、そのような悪魔的な人々を恐れる必要が全くありません。彼らは、まさか神ではなく、神以上の存在でもないのです。
この信仰を告白することができるとき、わたしたちは、まことの神だけを畏れ、他の何ものをも恐れない、まことの強さを身につけることができるのです。
「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
ヨセフとマリアには、さらに嫌なことが続きました。
彼らは、目的地であるベツレヘムには、何とか到着しました。そして、マリアは、初めての子どもを産みました。ところが、その子どもを飼い葉桶に寝かせた、というのです。
どこの親が、自分の子どもを、飼い葉桶に寝かせたいと思うでしょうか。ありえないことです。
しかし、ルカは、彼らの心の中の思いを描き出すことなしに書いています。このこと自体は驚くべきことです。
また、一つ指摘しておきたいことは、今日の個所にはまだ、イエス・キリストのご降誕に伴う"喜びの要素"が全く語られていない、ということです。
どちらかというと、嫌な話ばかりです。"苦しみの要素"ばかりです。「神の摂理」とは、これほどまでに過酷で苦しいものなのか、と思わせられるようなことばかりです。
また、このたび初めて気づかされたことがあります。
マタイによる福音書でも、ルカによる福音書でも、イエスさまがお産まれになったとき、ヨセフやマリア自身が「喜んだ」とは書かれていない、ということです。
東方の博士やベツレヘムの羊飼いの「喜び」については書かれています。ところが、ヨセフとマリアの「喜び」については、どこにも書かれていません。まるで、彼ら自身は喜んでいなかったかのようです。
しかし、どうかご安心ください。
神の摂理のみわざの下にあって本当の苦しみを苦しみぬいたこの夫婦に、本当の喜びが与えられました。
まさに東方の博士たちが、羊飼いたちが、小さな羊たちが、天使の軍勢が、御子のご降誕を、心から喜んでくれたではありませんか。
マリアとヨセフとしては、「産みの苦しみ」をさんざん味わわされ、閉口するばかりだったかもしれません。
しかし、彼らの苦しみの結果として起こった、神の御子イエス・キリストのご降誕の出来事を、心から喜ぶ人々の笑顔を見て、大いなる慰めを得たに違いありません。
今日の午後、日曜学校のクリスマス会を行います。子どもたちが、クリスマス劇をしてくれます。一生懸命に準備してくださった先生たちと生徒の皆さんに、感謝いたします。ご苦労もあったと思います。
今日こそ、みんなで楽しもうではありませんか!
(2004年12月12日、松戸小金原教会主日礼拝)