2004年12月24日金曜日

すべての人々を救うために

テトスへの手紙2・11~15

「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。」

わたしたちは今、クリスマスイヴの礼拝をささげております。たくさんの讃美、聖歌隊の讃美、ヴァイオリンとピアノによる讃美、そして小学生たちによる聖書朗読など、豊かな恵みをいただくことができ、感謝です。

今お読みいたしましたのは、使徒パウロが伝道者仲間であるテトスに宛てて書いたとされる手紙の一節です。

テトスは、クレタ島にいました。世界で最も美しい海として知られるエーゲ海にある、最も美しい島です。そこで、テトスは大切な仕事をしていました。まだそこにキリスト教の教会が存在していない地域、という意味での「伝道未開拓」の地域に新しく教会を生み出す仕事です。開拓伝道と呼ばれます。

そのことが分かるように書いているのが、1・5の御言葉です。「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。」

どこかの町に教会が新しく生まれるとは、どういうことでしょうか。

教会が新しく生まれると聞いて、多くの人々が思い浮かべることは、新しい教会の建物が立つことでしょう。新しい教会の建物ができる、ということも、大切なことです。しかし、いわばもっと大切なことがある、とわたしたちは考えてきました。

そこに少なくとも二人以上の「長老」が選ばれる必要があるのだ、と。牧師を加えた少なくとも三名以上の議員による「小会」が形成される必要があるのだ、と。

もちろん、長老たちが選ばれ、小会が形成されれば、それで終わりというわけではなく、さらに教会が組織化され、制度化され、現実的・実際的に運営されていく、という必要があるのだ、と。

なぜなら、教会とは建物ではなく、人(ひと)だからです。救い主イエス・キリストを信じる信仰によって心から喜びつつ、礼拝と奉仕をささげている人々が、集まっている。それこそが教会なのです。

当時のクレタ島は、ほとんどの島民にとってはキリスト教の「キ」の字も無かった頃です。それでも、その中の一握りの人々が、新しく宣べ伝えられた信仰を受け入れ、パウロたちが主宰する諸集会に定期的に出席してくれるようになったのでしょう。

しかも、いくつかの町ごとに分かれた複数の集会が生まれていました。そこで、パウロが去ったあと、テトスに残された仕事は、複数の集会の中から長老となるべき人を選び出すこと、そしてその長老たちを中心とした教会組織を作り上げて行くことだったのです。

そのような状況の中で、パウロは、テトスにこの手紙を書き送りました。そして、この手紙の中で特に強調していることは、新しい信仰としてのキリスト教信仰を受け入れた人々は、やはり、それまでとはいくらか違った「生き方」をしなければならない、ということです。

「教会」というところに通いはじめた。最初は、おそるおそる近づいてきた。何となく敷居が高いとも感じていた。しかし、そこで教えられている信仰に、次第に目が開かされてきた。そして、やがて信仰を受け入れ、キリスト教の洗礼を受け、ついに「キリスト者」と公に名乗って生きるようになった。

そのような変化が、人生の中にもたらされた。

そのときに起こらなければならないことは何か。考え方、物の見方、価値観などが変わるにすぎないのか。それとも、生き方そのもの、生活態度にも変化が起こるのか。そこで起こるのは、"頭の中だけの変化"にすぎないのか。"体全体の変化"も伴うのか。

パウロが書いている勧めの内容は、それほど特殊なことではないと思います。見方にもよりますが、ごく普通のテーブルマナーや、一般常識程度のことです。あまりお酒を飲みすぎてはなりませんとか、思慮深く振る舞いなさいとか、良い行いの模範になりなさい、など。

「そんなの、どうでもよいことではないか。たとえそれが教会であっても、たとえそれが聖書に基づいている言葉であるといっても、このわたしの個人の生き方や立ち居振る舞いについて、こうしろ、ああしろと、とやかく言われることなど、真っ平です」と思われてしまうかもしれません。

あるいは、もう少し生真面目な人々からは、「わたしは大酒を飲むのをやめられないし、思慮深い人間にもなれない。まして、誰かの模範になることなど絶対にできません。こんなふうに言われてしまうならば、わたしはキリスト教に入ることができません」と言われてしまう理由になるかもしれません。

そのようないろいろな反応を、わたしたちは、いろんな機会に何度も聞いてきましたので、よく知っています。しかし、だからといって、わたしたちは、その先の言葉を語ることができないわけではありません。

パウロも書いています。「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません」(2・15)。

キリスト教の信仰をもって生きるようになった人々には、体全体の変化、存在そのものの変化がそこに必ず伴うのだ、ということを語ることにおいて、わたしたちは、だれにも侮られてはならないのです。

その意味での「わたしたちの人生における変化」を、パウロは「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」という言葉で表現しています。そこで起こるのは、神の恵みによって救われた人々の人生が、そのことにふさわしいものへと作りかえられるという出来事です。

そして、もう一つ言えることは、生活の変化ということでわたしたちが思い描いてよいことは、この手紙の文脈を考えてみると明らかに、教会の組織とか制度というような次元の事柄と、決して無関係ではありえない、ということです。

パウロが書いているのは、教会の「長老」や「執事」や「監督」(この文脈では「牧師」の意味です)としてふさわしいのはどういう人々であるかとか、教会の交わりを大切にしていくためには、どのような生き方をすべきか、ということです。

ここで問われていることは、地上の教会に集まる人々の姿です。毎週の礼拝や諸集会に定期的に出席するようになるとか、役員として奉仕することなど、です。

このような、教会の具体的・実際的な活動に参加していく中で、わたしたちの生活が、だんだんと作りかえられて行くのです。

もっとはっきり言えば、教会の行事に、わたしたちの生活を重ね合わせていこうとするときに、それが起こるのです。

日曜日は朝早く出かけ、教会の礼拝に出席する。それでは、土曜日のお酒は少し控え目にしましょうとか、できるだけ早く眠りましょう、といった感じのことです。

言ってみれば、その程度のことにすぎません。しかし、そのようなことが、場合によっては、人生の大問題にもなりうるのです。

「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは」という意味は、キリストが十字架の上で御自身の命をささげてくださったことだけではありません。

加えて、フィリピの信徒への手紙2・6〜7に書かれているように、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」というクリスマスの出来事を含んでいます。

神の御子が人間となられたこと自体が、わたしたちのために御自身をささげてくださることなのです。

それは、「わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだった」とパウロは言います。「良い行いに熱心な民」、これが教会です。

神の御子が地上の人間としてお生まれになったのは、キリストの体なる教会をこの地上にお立てになるためです。

クリスマスの出来事の目的は、地上に教会を生み出すためです。それは、教会に連なる人々が「良い行いに熱心な民」となり、教会の中で、良い行いを行い、良い人生を生きることができるようになるためです。

クリスマスイブに、このように、みんなで教会に集まって礼拝をささげることも、そうです。クリスマスに最もふさわしいことは、教会に集まることです。

教会には、高級ホテルのようなディナーも、豪華な飾りも、美味しいお酒もありません。しかし、ここにはわたしたちの心を満たしてくれるものがあります。神の恵みがあります。

今夜初めて教会の礼拝に来てくださったという方は、ぜひメールで感想を寄せてください。プレゼントを差し上げたいと思います。

「よかった」でも「つまらなかった」でも構いません。わたしたちはこれがクリスマスの本当の祝い方であると信じています。そのことを、すべての人々に分かっていただきたいのです。

(2004年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイヴ礼拝)