2004年11月14日日曜日

互いに重荷を担いなさい

ガラテヤの信徒への手紙6・1~10

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

ここでパウロがガラテヤ教会の人々に勧めていることは、すべての時代のすべての教会の信徒たちが、お互いに行うべき「魂の配慮」の必要性です。

教会内で行われる、この意味での「魂の配慮」を、わたしたちは「牧会」という名で呼んできました。「牧会」という言葉そのものは、牧師の「牧」の字、教会の「会」の字が使われますので、つい牧師だけの仕事であるかのように思われがちです。しかし、この意味での牧会は、牧師だけの仕事ではありません。教会員全員の仕事です。

この「牧会」というものを信徒相互で行うことを「相互牧会」と言います。ですから、パウロが書いているのは「相互牧会のすすめ」と呼ぶことができる事柄です。

「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」とあります。「万一・・・不注意にも」という言葉で強調されていることは、「故意や悪意からではない罪」ということでしょう。故意や悪意は少しも無かった。しかし、たとえそうであっても、「万一・・・不注意にも」、わたしたちは罪を犯してしまうことがある、ということを、パウロは認めています。

そのような場合には、「霊に導かれて生きているあなたがた」、すなわち、聖霊のみわざにおいて救い主イエス・キリストへの信仰を与えられて生きているあなたがたは、「そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」とパウロは勧めているのです。

怖い目でにらみつけて、毛嫌いするのではありません。正反対です。「柔和な心で正しい道に立ち帰らせる」とは、罪を犯した人が真に悔い改めて、正しい信仰に基づく教会生活を再開することです。キリストの兄弟姉妹として、神の家族として、赦し合い、受け入れ合うことができるようにするために、聖書の教えに従って生きる道へと戻っていただくように、働きかけることです。そのことを、わたしたちは「牧会」において最も大切なことと考えます。

しかも、パウロは、この意味での「牧会」を「霊に導かれて生きているあなたがた」がしなさい、と言っています。わたしがします、というのではありません。牧会は伝道者・牧師だけの仕事ではありません。伝道者・牧師の仕事でもあります。しかし、それは聖霊に導かれて生きている、すべてのキリスト者の務めです。教会員全員の務めなのです。

続けて、パウロは、「あなたがた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」と書いています。この言葉には、二つの意味を考えることができます。

考えられる第一の意味は、この言葉どおり、自分自身が罪のわざへと誘惑されないようにする、自分自身への注意と反省です。

「人のふり見てわがふり直せ」と言います。「他山の石」という言葉もあります。イエスさまは、語られました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイによる福音書7・1〜2)。他人の罪を裁く人は、その裁きのまなざしの中から自分自身を見失ったり、見落としたりしてはならない、ということです。

考えられる第二の意味は、当時の律法学者たちに対する厳しい批判です。

イエスさまやパウロの目から見ると、律法学者たちは、自分のことを棚に上げて、他人を批判することに熱心な人々でした。他人の問題や欠点を見つけ出しては、その人の重荷を増し加えることが得意な人々でした。彼らは「あなたのここが問題だ。ここが悪い」と、ただ指摘するだけです。イエスさまが、そしてパウロが厳しく批判した人々は、どうやら、そのあたりに、大きな問題があったのです。

他人の批判をするだけなら、簡単です。イエスさまは、次のようにも語られました。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイによる福音書7・3〜5)。そのとおりです。他人の問題を指摘したいと思う人は、その前に自分の問題を、まず解決することが求められているのです。

しかし、パウロの言葉は、いわばもう一歩、先に踏み込んでいます。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。ここに「互いに重荷を担う」とありますのは、以前の日本聖書協会訳の新約聖書(1954年)では「互に重荷を負い合いなさい」と訳されていました。前の訳のほうが、わたしの心には、ぴったりはまりますし、パウロの意図を明確に言い当てることができます。

「重荷を互いに負い合う」とは、わたしの重荷をあなたが負い、あなたの重荷をわたしが負う、という相互の助け合いの関係です。この関係は「相互依存関係」(インターディペンデンス)の一種であると理解できます。「完全に自立した両者の対等関係」(サイド・バイ・サイド)を、必ずしも意味しません。言うならば、わたしの目の中の丸太をあなたに取り除いてもらいながら、あなたの目の中のおが屑をわたしに取らせていただくことです。

そのような関係が、わたしたち教会の中では許されることであるし、必要なことでもあるのです。

「完全に自立した両者の対等関係」(サイド・バイ・サイド)の関係は、ある意味で理想的であると言えます。しかし、ただそれだけが、教会の中での信徒同士の協力関係のあり方である、となると、ある人々にとっては、辛いと感じるだけです。

しかし、ある人が他の人に依存しているだけの状態が、いつまでも続く、というのも、考えものです。

一方だけが重荷を負う役目、他方は重荷を負わせる役目、というような関係が固定し、ずっと続いてしまうようであれば、やっぱりちょっと困るし、できればその関係は変えていかなければならない、と感じるでしょう。一方は、毎日泣いている。他方は、毎日笑っている。それでは困ります。

つらいときは、みんな一緒。喜ぶときも、みんな一緒。このような関係は、どのようにしたら、作っていけるのでしょうか。

「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」

ここには、ずいぶんと厳しい言葉が語られているようにも感じます。しかし、ポイントは明確です。先ほど申し上げたことに付随する、もう一つの側面であると思われます。

パウロは、まず「互いに重荷を担いなさい」と書きました。先ほどわたしは、このことを「相互依存関係」(インターディペンデンス)という表現を用いて説明しました。しかし、パウロとしては、それだけで問題が解決するわけではないと思ったのでしょう。さらなる問題がある。「お互いに」というこの一点が教会の中で真剣に考え抜かれなければならないときには、どうしても避けられない問題がある、ということです。

第一の問題は、一言で言ってしまえば、そのような協力関係の中にさえ、思わず知らず、傲慢の罪というものが忍びこんでくる危険性がある、ということになるでしょう。

「互いに重荷を担う」とはいえ、現実はもう少しシビアである、という場合があります。一方には、常に「みんなの重荷を負わなければならない」と必死で踏ん張っている人々がいる。他方には、常に「わたしの重荷は全部だれかに負ってもらいたい」と感じている人々がいる。このような構造的な関係が、たとえ教会の中であっても、避けがたく起こってきてしまう、という問題です。

そういうときに、教会の中に忍び込んでくるのが、傲慢の罪であると、パウロは考えているようです。もっとも、ここでパウロが「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人」と、非常に辛らつな言葉で指摘しているのは誰のことかについては、はっきり特定することができません。

「みんなの重荷を負わなければならない」という言い方そのものが傲慢だ、という意味でしょうか。「わたしの重荷は全部だれかに負ってもらいたい」という言い方のほうが傲慢でしょうか。この判断は難しいものです。

しかし、だからこそ、第二の問題が生じます。「互いに重荷を負い合う」という目標を真に達成し、実現するためには、「めいめいが自分の重荷を担う」ということが、どうしても必要であるということです。一方は全責任を負わされる、他方は全責任を丸投げする、というわけには行かないのです。

ただ、そう言いながら、わたし自身の中には、少し、どちらかと言うと弱いほうの立場を、弁護ないし応援したくなる気持ちがわいてきます。これは、教会に限った話ではありません。どこの社会にも、自分で自分の重荷を負うことが、もはや全くできない状態にある人がいるからです。自分で負える部分は、いわばゼロ。他の人に百パーセント担ってもらわなければ、生きていくことさえできない人がいるのです。

しかし、その人の重荷を担う人の側も、一苦労です。少しくらい、不平や不満を口にしたくなるときがあるでしょう。その言い分も、十分に分かるつもりです。

しかし、そういうときにこそ、わたしたちは、教会だからこそ、考えなければならないことがあるのではないでしょうか。それは、互いに重荷を担うこの場所が他ならぬ「教会」である、というこの点です。

「教会」とは、ただ単なる個人の集まりであるという以上に、組織化され、制度化された「団体」であるという性格を持っているのです。「教会」が「団体」であるかぎり、同じ負担であっても、特定の個人に偏った負担という方法ではなく、できるかぎりこの団体の総力を結集したところで「互いに担い合う」という方法がふさわしいのです。

教会の信徒同士の"魂の配慮"という意味での「牧会」ないし「相互牧会」とは何かということについて、わたしたちは、10月17日に行いました特別伝道集会の午後の第二部で、関口津矢子さんの発題から、いろいろなことを学ぶことができました。わたしも勉強させていただきました。発題の要旨が『まきば』の10月号に掲載されています。

その中で、とくに、ぜひ読み返していただきたい言葉は、以下の部分です。

「カルヴァンは、教会の組織化・制度化によって、ルターよりもいっそう教会の牧会的機能を推し進め、キリスト者がどのように生きるべきかという牧会的配慮に強調点を置きました。これが現代に受け継がれ、『教会訓練』を重んじることが改革派教会の特長になりました」(松戸小金原教会『まきば』第293号、2004年10月24日発行、5ページ)。

このことに関して、わたし自身、いつも考えさせられておりますことは、教会の組織化・制度化の目的は何か、ということです。わたしたち日本キリスト改革派教会は、おそらく日本の他のどの教派・どの教団よりも、教会の組織化・制度化ということに熱心であると思います。これは、大いに自慢してよいところです。

しかし、問題は、その目的は何か、ということです。わたしたちが重んじる教会の組織化・制度化の目的は、ただひたすら「牧会的配慮」ということが、きちんとなされていくためである、ということです。

教会には、いろんな人が集まります。しかも、多くの人々が、自分の人生に重大な危機が訪れ、大きな問題を抱えて駆け込んできます。その意味で、教会は「問題だらけ」です。「そんな言い方、しないでくださいよ」と言われるかもしれませんけれども、わたし自身は、教会とはそういうものであってよいし、そうあるべきだと考えています。

しかし、そこで、わたしたちの話が終わるわけではありません。関口津矢子さんが書いています。「わたしたちは危機的状況を乗り越えたときにこそ、信仰的な成長が与えられることを知っています。そして十分ないやしと慰めが与えられると、今度は他者を理解する者・支える者へと変えられていくのです」(同上頁)。

教会生活の「長さ」のことを言われると、立つ瀬がない、とお感じになる方がおられるようです。おそらく謙遜の表現として「教会生活の年数が長いばかりで、中身はちっとも成長していません」と言われる方がおられます。

しかし、それは禁句にしましょう。他の人々よりも少し先に救われた者たちは、やはり、今度こそは、他の人を助ける働きに就くことが求められているのです。

ただし、その場合、自分自身の重荷も、まだ少し、あるいは、たくさん、他の人々に負うてもらわなければならない状態のままであることには、変わりない。完全な意味での「自立」は、できていない。しかし、たとえそうであったとしても、他のひとの重荷を負い合おうと思う気持ちや心があるかどうかが、問われているのです。

そういう心を持っている人々が増えてくるときに、教会がぐんぐん成長しはじめます。先週、この教会のある方から伺いました。

「最近、教会に来るのが、楽しくなりました。前はそうではなかった、という意味ではありません。でも、教会の門をくぐったばかりの最初の頃は、緊張していましたし、理解できないところもありました。教会に通うのがおっくうだ、と感じたこともあります。しかし、今は、教会の中に友達もできたし、聖書の御言葉もだんだんと理解できるようになったので、教会が楽しくなりました。朝起きたときに、これから教会に行こう、という気持ちがわいてくるのです」。

この気持ちが大切ではありませんか。一つのポイントは、教会の中に友達ができた、ということです。教会の中でこそ、互いに重荷を負い合える仲間が与えられるのです。信仰によって互いに結び合わされた神の家族が与えられるのです。

そして、いわばその次に来る大事なポイントとして、この「互いに重荷を負い合おう」という一人一人の小さな心を集めて、より大きな力とするために、教会の組織化・制度化ということを、きちんとして行かなければならないのです。

この続きのところで、パウロは、いわゆる教会のお金の問題、とくに説教者への謝礼とか、牧師給与といった事柄に直接的に関わってきてしまう非常に具体的な問題を、取り上げています。わたしは牧師という立場にありますので、正直に言って、ちょっと触れにくい問題です。しかし、非常に大事なことだと思っています。

教会の組織化・制度化の目的の大きな一つに、教会財産の管理があります。しかし、そのことが直接的に、「牧会的な」問題でもあります。

なぜかといえば、わたしたちの多くが、教会の中で、信仰的なつまずきを覚え、もはや信仰生活を続けていけないのではないか、と思うほどの深い傷を受けてしまうことさえある、その最も大きな原因は、かなりの部分で、お金の問題なのです。

このことをきちんとしていくことが、教会形成において、「魂の配慮」として、最も重要なことでもあるのです。

(2004年11月14日、松戸小金原教会主日礼拝)