2004年11月21日日曜日

十字架のほかに誇るものなし

ガラテヤの信徒への手紙6・11~18

「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」

ここで必ず問題になることが二つあります。第一は、なぜパウロはこの部分を「大きな字で」書いたと言っているのか。第二は、なぜパウロはこの部分を「自分の手で」書いたと言っているのか、ということです。

第一の問題は「大きな字」の理由です。考えられる答えの一つは、内容を強調するために大きな字で書いた、ということです。もう一つは、パウロは大きな字しか書けなかった、ということです。

結論から言いますと、前者の説明のほうがよいと思われます。内容を強調するために、大きな字で書いたのです。しかし、後者の説明のほうがよいと考える人々もいます。その理由として挙げられるのが4・12以下に記されていることです。

パウロは、とても重い病気にかかりました。その病気の姿を見たガラテヤ教会の人々はさげすんだり忌み嫌ったりしませんでした。それどころか、自分の目をえぐり出してでもパウロに与えようとしたのです。

ですから、パウロは目の病気にかかったのではないか。パウロの目は、その後も十分に癒されることは無かったのだ。それでパウロは大きな字しか書けなくなってしまったのだ、というわけです。

しかし、パウロの病気が何であったのかは特定できません。その点がはっきりしないかぎり、この問題は解決しません。仮説の上に仮説を重ねて行くことは危険です。それよりも前者の説明のほうがよいでしょう。

第二の問題は「自筆」の理由です。ここに書いてあることを素直に受けとるとしたら、今この個所から、パウロ自身が筆をとって書きはじめた、という意味にとれます。しかし、それなら、これまでの文章は、誰が書いていたのでしょうか。

この問題については、ローマの信徒への手紙16・22の記事がおそらく参考になります。「この手紙を筆記したわたしテルティオ」という名前が出てきます。パウロには、秘書がいたのです。この点は明言されていますので確実に言いうることです。ただし、ガラテヤの信徒への手紙を筆記したのがテルティオだったかどうか、までは分かりません。

しかし、わたしたちにとって大切なことは、この手紙を筆記した人物が誰か、というようなことよりも、むしろ、パウロの伝道活動は、多くのスタッフによる助けとサポートによって成り立っていた、という事実そのものです。

パウロは、自分ひとりで何もかもしていたのではありません。それどころか、彼ひとりでは何もできなかったであろう、というべきです。

誰にも迷惑をかけたくない。わたしひとりで何でもできる。誰の助けも必要ないという思いは、まことに尊いものですが、限界もあるでしょう。

パウロでさえ、自分の手で長い文章を書いたりはしませんでした。伝道旅行にも、必ずパートナーを連れて行きました。旅行先でも、いろんな人々に助けてもらっていました。

「わたしは、誰にも迷惑をかけないで、ポックリ死にたい」と仰る方々がおられます。そのような方々には、どうか、もっとたくさん、周囲の人々に迷惑をかけてください、と申しあげたいのです。教会に大勢の人々が集まっていることの理由を考えてみていただきたいのです。

「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」

今日の個所、この手紙の最後には、この手紙全体の要点が書かれている、と考えることができます。内容的には、繰り返しです。もう一度全体の内容を思い返してみてください。長々と書いてきましたが、わたしの言いたかったことは要するにこの点です、ということを最後に整理し、まとめる意図があると言えます。

ガラテヤ教会の人々に、割礼を受けさせようとした人々がいました。とくに「異邦人」と呼ばれる人々は、ユダヤ人のように、幼いときに割礼を受けてはいませんでした。その異邦人たちにも割礼を受けさせるべきだ、と主張した人々がいたのです。

しかし、パウロは、そのような主張に強く反対し、また、そのようなことを語る人々に向かって激しく抗議しました。そのようなことを語る人々の中には、当時のキリスト教会の最高権威者であった使徒ペトロさえ混ざっていたのです。

そういう人に逆らって何かを語ること自体、とてもたいへんなことであると思います。とくに、当時のパウロは、キリスト教会にとっての"新入り"でしたから。

また、彼にはかつてキリスト教会に対する熱心な迫害者であった、という"前歴"がありましたから。そのような彼が、教会の中で信頼されるようになるためには、かなりの時間や努力が必要だったに違いありません。

しかし、この個所を読みながら、わたしは、もう一つの見方ができるのではないか、と思わされました。

ここでパウロは「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに」と書いています。

これはおそらくパウロの言うとおりなのだとは思いますが、少し微妙な問題が含まれているのでは、とも感じました。とにかく一度、逆の立場から考え直してみる必要があるのではないか。パウロが激しく抗議した人々、とくに使徒ペトロの側にも、いくらか同情の余地があるのではないか、と感じたのです。

どういうことかと申しますと、たとえば、わたしたち自身のこととして考えてみたときに、同じ教会の仲間たちが、誰かから激しい迫害を受けているような姿を黙って見ていることができるでしょうか。死んでも殺されても構わないという決意や自覚は、尊いものかもしれません。しかし、実際に殺されて死んでいく人々を、冷静に直視できる人がいるでしょうか。難しいと思うのです。

たとえば、もし、このときのペトロの行動が「教会のだれ一人、もう二度と傷つけたくないし、失いたくない」という思いに根ざしたものであったとしたら、同情の余地があるはずです。全く理解できない、とまでは言い切れないものが、あるのです。

しかし、パウロの言葉のほうが、全く理解できない、と言いたいわけではありません。そういう意味ではありません。そして、パウロが語っていることこそが、どちらかといえば"弱い人々"の立場に立っていると感じます。パウロは、イエス・キリストへの信仰を告白し、洗礼を受けたばかりの、生まれたての赤ちゃんの信仰者たちの信仰を守ろうとしているのです。

迫害の手を恐れるがゆえに、迫害を受けないように、こちら側の態度を改める、というのは、結局のところ、迫害者の側に身を置くことを意味します。事実上、迫害の正当性を認めることを意味し、当時新しく誕生したばかりのキリスト教会の信仰の自由を否定することを意味します。

しかし、本当にそれでよいのか、というのがパウロの言い分である、と言えるでしょう。迫害に屈してはならないし、認めてもならない。イエス・キリストを信じて生きる自由によって生きはじめた人々の信仰を守り抜くことこそが、教会の牧者の責任ではないのか、ということを、パウロは語っているのです。

「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていません」と書かれています。律法主義者は、少しも律法を守っていない、つまり、神の御心を行っていない、という意味です。律法主義は端的に罪なのです。

迫害を恐れて行動することには、同情の余地があります。しかし、だからといって、罪を是認することはできないのです。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがありますように。」

先ほどわたしは、パウロの道だけではなく、ペトロの道もある、少なくとも同情の余地はありうる、というような話をしました。パウロのように前に進むか、ペトロのように後ろに下がるか、です。

しかし、さらによく考えてみると、そもそも、この点で、行くべきか・戻るべきかということを判断すること自体、わたしたちキリスト者には、もはや許されていないのではないか、という問題も残るのです。

それはなぜか、と言いますと、わたしたちは、まさにパウロが言うように、今はもう、イエス・キリストと共に十字架にはりつけにされてしまっているからです。

キリストへと結び合わされ、キリストと共に生きるようになった者は、十字架にはりつけにされているのです。そこから降りることは、もはやできません。イエス・キリストと共に生きる人生を、途中でやめることはできないのです。

しかし、このことを、わたしは、何か悲壮感のようなものから、申し上げているのではありません。どんなに苦しくてもつらくても、煮え湯を飲まされても、キリスト者であることをやめることができない、というような悲壮感ではありません。

そうではないはずです。わたしたちは、救われたとき、何よりもまず、この人生を喜ぶ道を教えられたはずです。

ある先生は言いました。

「騙されたと思って、信じてください。わたし自身は、キリスト者になったこと、この信仰に生きるようになったことを、ただの一度も後悔したことはありません。」

わたしも、本当にそうだと思います。しかし、わたしは少し違った言葉でお勧めします。

「決して騙したりはしません。騙されたとは思わないで、信じてください。わたし自身は、キリスト者になったこと、この信仰に生きるようになったことを、ただの一度も後悔したことはありません。」

なぜなら、信仰によって生きるとき、わたしたちには人生の喜びが与えられるからです。罪の泥沼の中で、這いずり回り続ける苦しみから解放されるからです。

だからこそ、パウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものがあってはならない」と書いています。「大きな字で、自分の手で」書いています。

わたしには、他に誇るものは何もない。何の取り柄もないし、善いところもない、と感じる。人に見せびらかすことができるようなものは、何一つ持っていない。

しかし、わたしの誇りは、十字架である。十字架につけられて死んでくださった救い主イエス・キリスト、そして、イエス・キリストと共にこのわたしがはりつけにされているこの十字架を、わたしは誇る。

あの十字架、あの救い主イエス・キリストの贖いの死ということなしには、わたしたちは、罪の中から決して救われることはなかったのです。

十字架を誇る、とは、わたしが(キリストの十字架によって)罪から救われていることを誇る、ということでもあります。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」

最後の最後に、パウロは、またなんだか、ぶっきらぼうで、嫌味っぽい感じのことを書いています。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい」。

こんな手紙を二度と書きたくない、という意味かもしれません。この手紙の中には、ケンカ腰で書いたとしか思えない、非常に乱暴に書きなぐった感じの部分もありました。こんな手紙は二度と読みたくない、と思われてしまうかもしれません。

しかし、彼はただ、分かってほしかっただけなのです。パウロの願いは、信仰によって生きる人生の幸福をみんなに味わってほしいという、ただそれだけです。

割礼を受けるかどうかなど、そんなことは、どうだってよいことだ。そんなことは問題にならない。

あなたには信仰があるか。生きる喜びがあるか。それだけが問題だ。

そのことを、それだけを、彼らに分かってほしかった。ただそれだけなのです!

このパウロの願いが、わたしたちみんなの願いとなり、この手紙を読む、すべての時代の、すべての教会の、すべての信徒たちのものとなりますように、祈りましょう。

(2004年11月21日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年11月14日日曜日

互いに重荷を担いなさい

ガラテヤの信徒への手紙6・1~10

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

ここでパウロがガラテヤ教会の人々に勧めていることは、すべての時代のすべての教会の信徒たちが、お互いに行うべき「魂の配慮」の必要性です。

教会内で行われる、この意味での「魂の配慮」を、わたしたちは「牧会」という名で呼んできました。「牧会」という言葉そのものは、牧師の「牧」の字、教会の「会」の字が使われますので、つい牧師だけの仕事であるかのように思われがちです。しかし、この意味での牧会は、牧師だけの仕事ではありません。教会員全員の仕事です。

この「牧会」というものを信徒相互で行うことを「相互牧会」と言います。ですから、パウロが書いているのは「相互牧会のすすめ」と呼ぶことができる事柄です。

「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」とあります。「万一・・・不注意にも」という言葉で強調されていることは、「故意や悪意からではない罪」ということでしょう。故意や悪意は少しも無かった。しかし、たとえそうであっても、「万一・・・不注意にも」、わたしたちは罪を犯してしまうことがある、ということを、パウロは認めています。

そのような場合には、「霊に導かれて生きているあなたがた」、すなわち、聖霊のみわざにおいて救い主イエス・キリストへの信仰を与えられて生きているあなたがたは、「そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」とパウロは勧めているのです。

怖い目でにらみつけて、毛嫌いするのではありません。正反対です。「柔和な心で正しい道に立ち帰らせる」とは、罪を犯した人が真に悔い改めて、正しい信仰に基づく教会生活を再開することです。キリストの兄弟姉妹として、神の家族として、赦し合い、受け入れ合うことができるようにするために、聖書の教えに従って生きる道へと戻っていただくように、働きかけることです。そのことを、わたしたちは「牧会」において最も大切なことと考えます。

しかも、パウロは、この意味での「牧会」を「霊に導かれて生きているあなたがた」がしなさい、と言っています。わたしがします、というのではありません。牧会は伝道者・牧師だけの仕事ではありません。伝道者・牧師の仕事でもあります。しかし、それは聖霊に導かれて生きている、すべてのキリスト者の務めです。教会員全員の務めなのです。

続けて、パウロは、「あなたがた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」と書いています。この言葉には、二つの意味を考えることができます。

考えられる第一の意味は、この言葉どおり、自分自身が罪のわざへと誘惑されないようにする、自分自身への注意と反省です。

「人のふり見てわがふり直せ」と言います。「他山の石」という言葉もあります。イエスさまは、語られました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイによる福音書7・1〜2)。他人の罪を裁く人は、その裁きのまなざしの中から自分自身を見失ったり、見落としたりしてはならない、ということです。

考えられる第二の意味は、当時の律法学者たちに対する厳しい批判です。

イエスさまやパウロの目から見ると、律法学者たちは、自分のことを棚に上げて、他人を批判することに熱心な人々でした。他人の問題や欠点を見つけ出しては、その人の重荷を増し加えることが得意な人々でした。彼らは「あなたのここが問題だ。ここが悪い」と、ただ指摘するだけです。イエスさまが、そしてパウロが厳しく批判した人々は、どうやら、そのあたりに、大きな問題があったのです。

他人の批判をするだけなら、簡単です。イエスさまは、次のようにも語られました。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイによる福音書7・3〜5)。そのとおりです。他人の問題を指摘したいと思う人は、その前に自分の問題を、まず解決することが求められているのです。

しかし、パウロの言葉は、いわばもう一歩、先に踏み込んでいます。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。ここに「互いに重荷を担う」とありますのは、以前の日本聖書協会訳の新約聖書(1954年)では「互に重荷を負い合いなさい」と訳されていました。前の訳のほうが、わたしの心には、ぴったりはまりますし、パウロの意図を明確に言い当てることができます。

「重荷を互いに負い合う」とは、わたしの重荷をあなたが負い、あなたの重荷をわたしが負う、という相互の助け合いの関係です。この関係は「相互依存関係」(インターディペンデンス)の一種であると理解できます。「完全に自立した両者の対等関係」(サイド・バイ・サイド)を、必ずしも意味しません。言うならば、わたしの目の中の丸太をあなたに取り除いてもらいながら、あなたの目の中のおが屑をわたしに取らせていただくことです。

そのような関係が、わたしたち教会の中では許されることであるし、必要なことでもあるのです。

「完全に自立した両者の対等関係」(サイド・バイ・サイド)の関係は、ある意味で理想的であると言えます。しかし、ただそれだけが、教会の中での信徒同士の協力関係のあり方である、となると、ある人々にとっては、辛いと感じるだけです。

しかし、ある人が他の人に依存しているだけの状態が、いつまでも続く、というのも、考えものです。

一方だけが重荷を負う役目、他方は重荷を負わせる役目、というような関係が固定し、ずっと続いてしまうようであれば、やっぱりちょっと困るし、できればその関係は変えていかなければならない、と感じるでしょう。一方は、毎日泣いている。他方は、毎日笑っている。それでは困ります。

つらいときは、みんな一緒。喜ぶときも、みんな一緒。このような関係は、どのようにしたら、作っていけるのでしょうか。

「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」

ここには、ずいぶんと厳しい言葉が語られているようにも感じます。しかし、ポイントは明確です。先ほど申し上げたことに付随する、もう一つの側面であると思われます。

パウロは、まず「互いに重荷を担いなさい」と書きました。先ほどわたしは、このことを「相互依存関係」(インターディペンデンス)という表現を用いて説明しました。しかし、パウロとしては、それだけで問題が解決するわけではないと思ったのでしょう。さらなる問題がある。「お互いに」というこの一点が教会の中で真剣に考え抜かれなければならないときには、どうしても避けられない問題がある、ということです。

第一の問題は、一言で言ってしまえば、そのような協力関係の中にさえ、思わず知らず、傲慢の罪というものが忍びこんでくる危険性がある、ということになるでしょう。

「互いに重荷を担う」とはいえ、現実はもう少しシビアである、という場合があります。一方には、常に「みんなの重荷を負わなければならない」と必死で踏ん張っている人々がいる。他方には、常に「わたしの重荷は全部だれかに負ってもらいたい」と感じている人々がいる。このような構造的な関係が、たとえ教会の中であっても、避けがたく起こってきてしまう、という問題です。

そういうときに、教会の中に忍び込んでくるのが、傲慢の罪であると、パウロは考えているようです。もっとも、ここでパウロが「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人」と、非常に辛らつな言葉で指摘しているのは誰のことかについては、はっきり特定することができません。

「みんなの重荷を負わなければならない」という言い方そのものが傲慢だ、という意味でしょうか。「わたしの重荷は全部だれかに負ってもらいたい」という言い方のほうが傲慢でしょうか。この判断は難しいものです。

しかし、だからこそ、第二の問題が生じます。「互いに重荷を負い合う」という目標を真に達成し、実現するためには、「めいめいが自分の重荷を担う」ということが、どうしても必要であるということです。一方は全責任を負わされる、他方は全責任を丸投げする、というわけには行かないのです。

ただ、そう言いながら、わたし自身の中には、少し、どちらかと言うと弱いほうの立場を、弁護ないし応援したくなる気持ちがわいてきます。これは、教会に限った話ではありません。どこの社会にも、自分で自分の重荷を負うことが、もはや全くできない状態にある人がいるからです。自分で負える部分は、いわばゼロ。他の人に百パーセント担ってもらわなければ、生きていくことさえできない人がいるのです。

しかし、その人の重荷を担う人の側も、一苦労です。少しくらい、不平や不満を口にしたくなるときがあるでしょう。その言い分も、十分に分かるつもりです。

しかし、そういうときにこそ、わたしたちは、教会だからこそ、考えなければならないことがあるのではないでしょうか。それは、互いに重荷を担うこの場所が他ならぬ「教会」である、というこの点です。

「教会」とは、ただ単なる個人の集まりであるという以上に、組織化され、制度化された「団体」であるという性格を持っているのです。「教会」が「団体」であるかぎり、同じ負担であっても、特定の個人に偏った負担という方法ではなく、できるかぎりこの団体の総力を結集したところで「互いに担い合う」という方法がふさわしいのです。

教会の信徒同士の"魂の配慮"という意味での「牧会」ないし「相互牧会」とは何かということについて、わたしたちは、10月17日に行いました特別伝道集会の午後の第二部で、関口津矢子さんの発題から、いろいろなことを学ぶことができました。わたしも勉強させていただきました。発題の要旨が『まきば』の10月号に掲載されています。

その中で、とくに、ぜひ読み返していただきたい言葉は、以下の部分です。

「カルヴァンは、教会の組織化・制度化によって、ルターよりもいっそう教会の牧会的機能を推し進め、キリスト者がどのように生きるべきかという牧会的配慮に強調点を置きました。これが現代に受け継がれ、『教会訓練』を重んじることが改革派教会の特長になりました」(松戸小金原教会『まきば』第293号、2004年10月24日発行、5ページ)。

このことに関して、わたし自身、いつも考えさせられておりますことは、教会の組織化・制度化の目的は何か、ということです。わたしたち日本キリスト改革派教会は、おそらく日本の他のどの教派・どの教団よりも、教会の組織化・制度化ということに熱心であると思います。これは、大いに自慢してよいところです。

しかし、問題は、その目的は何か、ということです。わたしたちが重んじる教会の組織化・制度化の目的は、ただひたすら「牧会的配慮」ということが、きちんとなされていくためである、ということです。

教会には、いろんな人が集まります。しかも、多くの人々が、自分の人生に重大な危機が訪れ、大きな問題を抱えて駆け込んできます。その意味で、教会は「問題だらけ」です。「そんな言い方、しないでくださいよ」と言われるかもしれませんけれども、わたし自身は、教会とはそういうものであってよいし、そうあるべきだと考えています。

しかし、そこで、わたしたちの話が終わるわけではありません。関口津矢子さんが書いています。「わたしたちは危機的状況を乗り越えたときにこそ、信仰的な成長が与えられることを知っています。そして十分ないやしと慰めが与えられると、今度は他者を理解する者・支える者へと変えられていくのです」(同上頁)。

教会生活の「長さ」のことを言われると、立つ瀬がない、とお感じになる方がおられるようです。おそらく謙遜の表現として「教会生活の年数が長いばかりで、中身はちっとも成長していません」と言われる方がおられます。

しかし、それは禁句にしましょう。他の人々よりも少し先に救われた者たちは、やはり、今度こそは、他の人を助ける働きに就くことが求められているのです。

ただし、その場合、自分自身の重荷も、まだ少し、あるいは、たくさん、他の人々に負うてもらわなければならない状態のままであることには、変わりない。完全な意味での「自立」は、できていない。しかし、たとえそうであったとしても、他のひとの重荷を負い合おうと思う気持ちや心があるかどうかが、問われているのです。

そういう心を持っている人々が増えてくるときに、教会がぐんぐん成長しはじめます。先週、この教会のある方から伺いました。

「最近、教会に来るのが、楽しくなりました。前はそうではなかった、という意味ではありません。でも、教会の門をくぐったばかりの最初の頃は、緊張していましたし、理解できないところもありました。教会に通うのがおっくうだ、と感じたこともあります。しかし、今は、教会の中に友達もできたし、聖書の御言葉もだんだんと理解できるようになったので、教会が楽しくなりました。朝起きたときに、これから教会に行こう、という気持ちがわいてくるのです」。

この気持ちが大切ではありませんか。一つのポイントは、教会の中に友達ができた、ということです。教会の中でこそ、互いに重荷を負い合える仲間が与えられるのです。信仰によって互いに結び合わされた神の家族が与えられるのです。

そして、いわばその次に来る大事なポイントとして、この「互いに重荷を負い合おう」という一人一人の小さな心を集めて、より大きな力とするために、教会の組織化・制度化ということを、きちんとして行かなければならないのです。

この続きのところで、パウロは、いわゆる教会のお金の問題、とくに説教者への謝礼とか、牧師給与といった事柄に直接的に関わってきてしまう非常に具体的な問題を、取り上げています。わたしは牧師という立場にありますので、正直に言って、ちょっと触れにくい問題です。しかし、非常に大事なことだと思っています。

教会の組織化・制度化の目的の大きな一つに、教会財産の管理があります。しかし、そのことが直接的に、「牧会的な」問題でもあります。

なぜかといえば、わたしたちの多くが、教会の中で、信仰的なつまずきを覚え、もはや信仰生活を続けていけないのではないか、と思うほどの深い傷を受けてしまうことさえある、その最も大きな原因は、かなりの部分で、お金の問題なのです。

このことをきちんとしていくことが、教会形成において、「魂の配慮」として、最も重要なことでもあるのです。

(2004年11月14日、松戸小金原教会主日礼拝)


2004年11月8日月曜日

日本キリスト改革派教会創立宣言(1946年)現代語訳

日本キリスト改革派教会創立宣言(1946年)現代語訳

関口 康訳(改訂第2版)

2004年11月8日発行

I 第一の主張:キリスト教有神的人生観・世界観に基づく日本国家の建設

終戦後すでに九ヶ月、敗戦日本の再建は、さまざまな構想と方法とによって計画されつつあるとはいえ、聖書に「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(詩編127・1)とあるのは本当のことです。宇宙と人類とを支配しておられる、全知・全能にして、このうえなく聖であられ、このうえなく愛に満ちた神を信じるのでなければ、一つの国といえども、よく建ち、よく保持される道はないのです。

このたびの世界大戦に当たっては、信教の自由ははなはだしく抑圧され、わたしたちの教会も歪められ、真理が大胆に主張されることはありませんでした。わたしたちはこのことを神の御前で恥じ、国のために憂いを持っていました。しかし、歴史を支配しておられる神の摂理により、信教の自由は、敗戦を通して、ついにわたしたちの国日本にもたらされるに至ったのです。

今後、よりよい日本の建設のために、わたしたちは、心を尽くして、歴史を支配しておられる、全能にして、この上なく善であられる神の御心にかなう者にならなくてはなりません。神の戒めに従って、神を敬い、隣人を愛し、たんに精神的・文化的側面においてだけではなく、「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現わす」(コリント一10・31)ことをもって最高の目的にしなければなりません。

この有神的人生観・世界観(Theistic life- and world-view)こそ、新しい日本を建設するための、ただ一つの確かな基礎である、ということは、日本キリスト改革派教会の第一の主張であり、わたしたちの熱心はここにあるのです。

ただし、真の宗教だけが国家の基礎、また文化の根底であるという主張は、国政や文化活動そのものを宗教団体の支配下に置くべきであるとする教権主義思想を意味しているわけではありません。とりわけ、地上の政権と宗教との関係について、わたしたちは、政教分離の原則(Separation of Church and State)が、近代国家の知恵であると共に、聖書の教えにかなうものであると信じていますので、信教の自由、教会の自律性を尊重するのです。

II 第二の主張:信仰告白・教会政治・善き生活を具備した教会の建設

そもそも人類は、神の御前に一体であり、等しく罪に仕える者でした。しかし、神は、罪ある人類のために、永遠の熟慮によって救いの御計画を打ちたててくださり、御子イエス・キリストの歴史的な贖いのみわざをもってこれを歴史の中に実現してくださり、永遠の生命に定められた人々に信仰をお与えになり、召してくださり、これを義と認めてくださり、神の子としてくださり、聖なる者に造りかえてくださりながら、その神が人間と共に住んでくださるのです。

これがわたしたちの信じる宗教なのであって、その救いは人類の罪の起源と共に古く、それからまた人類のまったき救いの完成の日にまで至ります。

四千年の昔、神はアブラハムをお選びになって「信仰の父」にしてくださり、彼と契約を結び、彼の子孫に恵みを与えてくださり(ただし不信仰な者はしりぞけられました)、彼らにその知恵、大能、慈愛、真理をあらさわれたのでした。

それからまた、時は満ち、御子イエス・キリストをお遣わしくださり、このお方の十字架の死と復活によってわたしたちの救いの基礎が置かれたとき、不思議な御摂理により、この救いの福音はユダヤ人の不信仰を通して全世界に及ぶことになったのです。

すなわち、神の救いは、旧約時代の一時的なユダヤ民族的な枠組みを克服して、本来有していた国際性を発揮し、使徒たちによって「すべての国民の主、世界の光」として宣べ伝えられましたので、新約時代にあって、キリスト教会は、全世界にその存在を見ることができるようになったのです。

神だけが明らかにご存じであられる、いわゆる「見えない教会」(invisible Church)は、全世界にわたって、過去、現在、未来というすべての歴史を通し、地上と天上とを貫いている、聖なる唯一の公同教会として存在しています。

しかしながら、わたしたちは、地上において、見えない教会の唯一性が、第一に信仰告白(Confession)、第二に教会政治(Church-government)、第三に善き生活(good life)という三つの要素を充分に備えている「一つの見える教会」(visible Church)として具現化されなければならないということを確信するのです。これが、日本キリスト改革派教会の第二の主張です。

1) 信仰告白

「一つの見える教会」を構成する第一の要素である「信仰告白」について言えば、教会は、この問題に関して神の栄光と自分自身の永遠の救いのために、絶え間ない霊的な闘いに励まなければなりません。新約のキリスト教会も、初代から今日に至るまで、あらゆる異端と闘い、これに勝利し、真理を保持してきたのです。わたしたちは、このキリスト教信仰の正しい伝統に立つことに熱心な者たちです。日本キリスト改革派教会が、次に記す前文を付加してウェストミンスター信仰告白ならびに大・小教理問答書を信仰基準として採用した意図も、ここにあるのです。

日本キリスト改革派教会信仰規準の前文

神がご自身の教会にお与えになった神の御言である旧・新両約聖書は、教会の唯一で無謬の正典です。聖書において啓示されている神の御言は、教会によって信仰告白されて、教会の信仰規準になるのですが、これが教会の信条というものです。教会は、昔から、使徒信条、ニカイア信条、アタナシウス信条、カルケドン信条という四つの信条を、キリスト教会の基本信条ないし公同信条として共有してきました。宗教改革の時代に至って、改革派諸教会は、それら諸信条の正統的な信仰の伝統に立ちましたが、これらに留まるのではなく、純正に福音的であろうとし、それだけではなく、すべての教理にわたり、さらに純正であると共に、すぐれて体系的である新しい信条の作成に導かれるに至ったのです。その三十数個の信条の中では、ウェストミンスター信仰規準は、聖書に教えられている教理の体系として、最も完備されているものであることを、わたしたちは確信しています。わたしたち日本キリスト改革派教会は、わたしたち自身の言葉をもって、さらに優れた信条を作成する日を祈り求めているとはいえ、このウェストミンスター信仰規準こそ、今日、わたしたちの信仰規準として最もふさわしいものであることを確信し、讃美と感謝とをもって教会の信仰規準とするのです。

2) 教会政治

第二の要素である「教会政治」に関して言えば、長老主義(presbyterianism)が聖書的教会に固有な政治形態である、と信じることをもって、わたしたち日本キリスト改革派教会は、これを純正に実施したいと願っています。監督制(episcopalianism)、会衆制(congregationalism)は、法王制(Papism)と共に、人間的見地からすれば、それぞれに長所を持っているものなのですが、教理の純正と教会の清潔を守ることのために、長老制に勝るものはありません。わたしたちは、単に伝承主義的(traditionalistic)な意味で長老制に固執しているわけではなく、健全な理性の判断によっても、長老制は最良の政治様式であると言わざるをえないのです。第二次大戦前の「日本基督教会」は、少なくとも教会規定の上では、長老制を採用していたのです。

3) 善き生活

第三の要素である「善き生活」とは何でしょうか。わたしたちは律法主義者ではありませんが、律法廃棄論者でもありません。キリストによる贖いに基づいて、聖霊なる神がわたしたちのうちに恵みとして与えてくださる聖化は、信仰者がかならず熱心に祈り求めなければならないものです。完全な聖化は、地上においては与えられません。わたしたちは、日毎に自分自身の罪の赦しを求めていきます。わたしたちは、自分に罪を犯す者の罪を赦さなければならないとはいえ、聖霊に感化されて互いに兄弟の罪を戒め合うことは、キリストにある者がしなければならないことなのです。宗教改革運動の主要な潮流である改革派教会の最大の指導者、ジャン・カルヴァンが働いたジュネーヴの教会が、信仰生活の訓練に関して模範的な実績を示したことは、多くの人が知っている事実ではないでしょうか。

このように、わたしたちは、一つの見えない教会を、第一に信仰告白、第二に教会政治、第三に善き生活という三つの要素を有する「一つの見える教会」として具現化し、これをもって唯一の聖なる公同の教会の肢であるという事実を確信させられ、わたしたちの救いの確かさを証しすることを願っています。各地に散在している各個教会(local church)の統一は、あくまでもこれら三つの要素の一致に基づくべきであり、またこの三点は、相互に深く論理的・体系的に関係づけられていますので、教理と教会政治と生活の三者は一元的なものなのです。

日本におけるプロテスタント諸派の完全合同をめざした合同運動は、「日本キリスト教団」(United Church of Christ in Japan)の成立により、いちおう目的を達成したと考える人がいます。けれども、「日本キリスト教団」は、今日に至ってもなお、今述べたような意味での一つの教会になることができているわけではありません。彼らの全面的不成功は、それを求める方法が間違っていることに原因がある、と言う他はありません。

以上の略述によって明らかにされたと言いうることは、わたしたち日本キリスト改革派教会は、ほんの少しでも、いわゆる分派的精神(sectarianism)に由来するものではありえないのだ、という一つのことです。正しい筋道に従って形成して行く教会の公同性と統一性は、わたしたちの最も大切にするところであり、わたしたちの教会の真髄なのです。

「改革派教会」(Reformed Church)という名称も、新しい造語であるかのように誤解されてはなりません。教会の歴史が明らかにしているとおり、改革派教会とは、宗教改革によって生み出されたプロテスタント諸教会の内部に組織されたひとかたまりの教会に付けられた名称です。この名をもって呼ばれている教会は、年代的にはすでに四百年以上の歴史を持っており、ヨーロッパ大陸においてはその四分の三を占めるプロテスタント諸教派の中では最大の教派なのです。

しかも、一時代的な、あるいは一地方的な性格を帯びている教派ではありません。改革派教会は、宗教改革の原則を首尾一貫して主張する真の福音主義であるだけではなく、さらに真正なる公同性と正統性をも保有するものであって、聖書的・使徒的教会の再現を標榜する教会です。イングランドやアメリカにおいて長老教会と呼ばれる教会は、すべてこれに属しているのです。

真に世界的で正統的な地上教会でありたいと志すこの光り輝く歴史的改革派教会の一つの肢として、今日、日本人によって、日本において、わたしたち日本キリスト改革派教会が組織され、設立されるに至ったことを、わたしたちは、神の深い恵みの導きとして、厚く感謝せざるをえません。

けれどもまた、わたしたちの教会の誕生が、この国のキリスト教会の歴史における画期的な一頁となり、源清く正しい進展を経由してきたキリスト教教理を堅持する教会として、果敢な進軍をなし、健全な発達を遂げて行くことこそ、日本とその国民に対して示す、わたしたちの愛の最も優れた表現なのです。

III 世界の希望としてのカルヴァン主義

世界はまさに転換しつつあります。近代世界は、すでに終止符を打たれました。新しい世代は、すでに胎動を開始しました。そうであるならば、これから迎えようとしている時代の精神的指導者となるのは、誰なのでしょうか。宗教はすでに実力を喪失し、無神論的唯物史観に場所を譲ったと断定できるでしょうか。いいえ、そうではありません。

過去を公平に静止する人々は、世界における人類の精神文化を生み出し、かつ指導してきた最大の能力は宗教であったということを、否定できません。しかも、純正な宗教の上にだけ、健全な文明は築かれたのです。

ヨーロッパ文明について、このことを見てみましょう。古代社会の危機に際し、個人の道徳観念の腐敗、国家や社会の秩序の崩壊を救い、中世文明を樹立したのはイエス・キリストの宗教(原始キリスト教)に他なりません。中世の危機に際し、同じような働きをしたのはイエス・キリストの宗教(宗教改革のキリスト教)に他なりません。今や三度目に、近代文明がまたもや危機に直面しているのです。世界は、これが救いであるというものを何に求めることができるのでしょうか。同じように、イエス・キリストの宗教(改革派のキリスト教)の他には無いのです。

宗教改革のキリスト教は、原始キリスト教の再興です。改革派教会は、この宗教改革の真理を最もよく保有している教会です。中世に原始キリスト教が、近代に宗教改革のキリスト教が、それぞれ果たした使命こそ、じつに改革派のキリスト教が次の世代に対して負うことができる大きな使命であるということは、わたしたちの自負としてというよりも、重い責任として痛感しているところなのです。

世界の希望はカルヴァン主義の神にあるのです。

神よ、あなたの栄光を仰がせてくださいますよう、お願いいたします。わたしたちは、与えられた一切をあなたにおささげしますので、あなただけを、わたしたちの神、わたしたちの希望として仰がせてください。あなたがすでにわたしたちのうちに始めてくださっている大いなるみわざを完遂してくださいますように。

アーメン。

昭和21年4月29日 (創立大会日)

原典は「教会ハンドブック 宣言集」第三刷(1988年2月20日発行)


2004年11月7日日曜日

喜びを禁じる掟はない


ガラテヤの信徒への手紙5・22~26

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑みあったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」

今日の個所に書かれていることを一言でまとめて言うならば、わたしたちキリスト者に与えられる霊的な賜物とは、どのようなものか、ということです。

「霊の結ぶ実」とあります。「実」の意味はフルーツ(くだもの)です。結果という意味もあります。「霊の結ぶ実」とは、救い主イエス・キリストを信じる人の内に聖霊なる神が住み込んでくださった結果として、その人に与えられる霊的な賜物のことです。賜物とは、贈り物(プレゼント)です。

このことを理解していただくために開いていただきたい関連の個所は、マタイによる福音書7・17~18です。ここでイエス・キリストは、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともできない」と語っておられます。実を見て木を知りなさい、という意味です。

しかし、これは、原因と結果の関係を機械的・法則的に結び合わせる、あの単なるいわゆる「因果論」とは異なるものである、と言わなければなりません。

マタイによる福音書をご覧いただきますと、「実を見て木を知る」という御言が記されている段落は、「偽預言者を警戒しなさい」という警告から始まっています。そして、次のように言われます。「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」。

ここでイエスさまが問題にしておられることは、明らかに、ひとりの人間の「内と外」、つまり、心の中にあるものと外側に見えるものとの関係です。単純に、原因と結果の関係についての話ではない、ということが分かるのです。

むしろ、ある意味で、もっと厳しいかもしれません。あの人は、あのものは、外側から見ると善いものに見えるかもしれないが、内側がひどいということがありうるから、気をつけなさい、というわけですから。

パウロの場合も、じつは、同じことが言えると思われます。

「霊の結ぶ実」、すなわち、聖霊なる神がわたしのうちに住み込んでくださった結果としてわたしに与えられる霊的賜物の意味は、このわたしの「内と外」、すなわち一人の人間の内面性と外面性は決して無関係ではありえない、ということを語っているのである、と理解することができるのです。

少し分かりにくい言い方になってしまったかもしれません。もっと平易に言い直せると思います。ごく単純に言えば、たとえば、わたしたちは、とても腹が立っているときニコニコ笑っていられることは、ほとんどありえないだろう、というようなことです。

もちろん、なかには、「顔で笑って・心で泣いて」ということが上手な方がおられるかもしれません。そのほうがオトナらしい態度であり、中身が丸見えというのはコドモっぽい、と思われるかもしれません。しかし、顔のどこかが歪んでいる。目の奥が笑っていない、ということがありえます。見抜く人は、見抜くのです。

あるいは、逆に考えてみて、その人が今このとき考えていること、心の中で思っていることが、全く外から見えないし、分からない、というのは、恐ろしいことでもあります。

児童心理学者たちが口を揃えて言うことは、「グズグズ言ったりわがままを言ったりするくらいの子どものほうが健全である」ということでしょう。

思ったことを口にできないし、表情にも表さない。質問しても答えない。固い殻に閉じこもり、無表情のマスクをかぶり、自分の中身、真の姿、あからさまな正体を寸部漏らさず隠し通してしまえる子どもがいるとしたら、周囲の人は心配になります。

いや、心配になるくらいなら、まだマシなのかもしれません。何かを隠している様子が、ほんの少しでも伺えるなら、まだ良いほうです。全く分からない。いや、じつは、自分自身でも自覚がない。自覚がない、というのが、最も恐ろしいことかもしれません。

先ほどのマタイ7章の「偽預言者を警戒しなさい」という御言にこだわるようですが、ここでイエスさまが「偽預言者」と呼んでおられるのは、明らかに、当時の宗教家たちである、ということが、ここで注目されるべき点です。

彼らは当時、最も尊敬されていたのです。誇り高い仕事でした。しかし、その宗教家たちが偽物だと。「偽預言者だ」と、イエスさまは告発されました。彼ら自身に、そうであることの自覚が無かった可能性があります。

偽預言者は本物の預言者にそっくりである、と言われます。偽キリストは本物のキリストにそっくりである、と言われるのと同じです。悪い意味でのイミテーションは、本物と見分けがつかないくらい酷似しているからこそ、商売が成り立つのです。

しかし、です。たとえ、その人々が、どんなに固い殻に閉じこもり、無表情のマスクをかぶり、また、いかなる行いにおいても善意をもって振舞うことができ、人々の尊敬を集めることができたとしても、どうしても、最後まで隠し通すことができない部分がある。本物か偽物かが、バレてしまう。

そういうところが必ずある。この点こそがまさに、イエスさまの言われる「実を見て木を知ること」であり、パウロの語る「御霊の結ぶ実」という言葉の真意です。明らかに、ひとりの人間の内側と外側との関係の問題が語られているのです。

しかし、わたしは今日ここでユダヤ教の批判をしたいわけではありません。イエスさまの時代の宗教家たちの批判をしたいわけでもありません。

あるいはまた、わたしたちの時代の、あの人・この人の批判をしたいわけでもありません。わたしたち自身の日常生活の反省や自己批判をしたいわけでもありません。そうすることは大切なことではありますが、今日の話の目的ではありません。

そうではなくて、わたしが今日申し上げたいことは、わたしたち人間は、言ってみれば、じつは「薄皮一枚」のような存在であるということです。

「神さまの目から見たら」と付け加える必要があるかもしれません。

わたしたちの内側と外側との関係、内面性と外面性との関係は、少なくとも神さまの目からご覧になったときには、まさに薄皮一枚にすぎない。透けて見える。全部見える。何もかも顕わである。神はすべてをお見通しである、ということです。神の御前で何かを隠そうだなんてことを考えること自体が愚かである、ということです。

しかし、まだ、この点だけなら、わたしたちは、どこかで責められているような気持ちが残ると思います。牧師は、何かを言いたがっている。奥歯に物が挟まったような口ぶりがある、と思われるかもしれません。

しかし、今日のポイントは、誰かへの批判でもなければ、自分への批判でもありません。むしろ、神さまの目から見るとまさに「薄皮一枚」であるこのわたしの存在は、入れ物であり、器(うつわ)であり、容器である、ということです。

そして、その入れ物の中に、もし救い主イエス・キリストを信じる信仰があり、また、その信仰を持っている人々の内側に聖霊というお方が住み込んでくださるならば、その人の存在はまさに光り輝くものになるのだ、ということです。そして、その光は、外側から見ても、よく見えるものなのだ、ということです。

まだダメでしょうか。

まだ責められているような気がする。あるいは、どこか貶(けな)されているような気がする。人間は入れ物だ。その中に宿ってくださる神が輝いている、と牧師は語る。入れ物である人間、このわたし自身は、ガラスのような存在であり、道具にすぎない、ということだ。それならば、神さまが輝くんでしょ。人間自身が輝くわけではないんでしょ、と思われるでしょうか。

しかし、そうではありません。たしかに、わたしたちは、ある意味で、わたしたちの内なる御霊の働きの輝きを外側に照らし出すことが許されている存在です。自分自身は薄皮一枚のような存在であり、透明ガラスのような存在です。けれども、わたしたちは単なる道具なのか、自分自身には存在する目的も意味もない物体にすぎないのか、というと、決してそういうことではないのです。

パウロは語ります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。ここでまず認めたいことは、これらの“善きもの”が、わたしたちの中には確かにある、という事実です。

そして、その上で、その次に、先週学んだガラテヤ5・16以下の御言葉、とくに19節の「肉の業は明らかです」以下に書かれていた、いわゆる「悪徳表」の内容を思い起こさなければなりません。あれらの“悪しきもの”も、わたしたちの内側には、たくさん潜んでいます。そのことを完全に否定できる人は一人もいないのです。

しかしまた、このように考えてくると分かるのは、このわたしという一人の人間の中には“善きもの”と“悪しきもの”との両方が共存している、ということです。

そして、もしそうであるならば、わたしたちの中身がすべて透けて見える、ということのすべてが悪いわけではない、と考えることもできるでしょう。わたしたちの内側にあるものすべてが悪いわけではないからです。「ほらほら、見て見て」と多くの人々に見せびらかしたいものも、わたしたちの内側には確かにあると信じることができるからです。

それこそがわたしの愛、わたしの喜びです。

わたしの内に神御自身が与えてくださった喜びは、たとえば、わたしの中で、わたしを抜きにして、神さまだけが勝手に喜んでおられるというようなものではありえません。

それは全くおかしな話です。プレゼントなのですから。神の喜びがわたしの喜びになるのです。

また、わたしの平和、わたしの寛容、わたしの親切、わたしの善意です。わたしの誠実、わたしの柔和、わたしの節制です。

そういうものを、わたしたちは、いわば先天的に生まれ持っている、と語ることについては、慎重でなければならないと思います。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。わたしたちの心の中に、生まれたときから良いものがある、ということは、絶対的に否定されるべきことではありません。

しかし、問題が起こるのは、むしろ、“生まれた後”でしょう。

「ほらほら、見て見て」と見せびらかしたいような、このわたしの内なる善きものを、見て見ぬふりをされる。全く評価してもらえない。「それがどうしたの?」と冷たくあしらわれる。「うるさいな!」と突き飛ばされる。

そのような積み重ねの中で、わたしたちは、次第に、わたしの内なる“善きもの”には意味も価値もない、と思い込み、わたしの外に追い出してしまおうとするのです。

けれども、また、ここに挙げられている“善きもの”を、パウロが「霊の結ぶ実」と呼んでいることが救いです。

なぜなら、それが人間の内に生まれる前から備わっていたもの、と言われているのではなくて、聖霊なる神の賜物である、と言われているかぎり、それは、まさに、あとから、外から、このわたしの中に入れ込まれ、混ぜ込まれた何かである、ということを意味する以外にないからです。

そうだとすれば、一度くらい失われても、いや、何度失われても、何度でも、詰め込み直すことができるものである、と信じることができます。

そうであるならば、わたしたちは、自分の中には“善きもの”がない、ということで、絶望すべきではありません。わたしの中の“善きもの”は、言うならば、「これから身につけていくことができるもの」であり、「いつでも詰め込むことができるもの」なのです。

だからこそ、わたしは、このわたしたちの小さな入れ物の中に、大いに、どんどん、大量の神の恵みを詰め込んでいきましょう、と先週申し上げたのです。

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿る「ようにしましょう」。讃美歌をうたい、祈りましょう、と。

豊かに宿る「ようにする」のは、自分自身です。このわたしが、キリストの言葉を、自分の中に、たくさん詰め込むのです。それは自分の努力目標です。わたしのなすべき仕事です。これこそが、先週ご紹介しましたコロサイの信徒への手紙3・16~17の真意なのです。

御言葉と讃美と祈りは、わたしたちの存在を支える生命そのものです。これらのものが失われると、わたしたちの存在は倒れてしまうのです。

豊かな神の恵みによって、このわたしが喜びに満ちあふれる存在になること。このことを禁じる掟は、どこにもない。

喜んで、楽しんで、礼拝して、讃美して、祈って、何が悪いのか、ということです。

このわたしが喜びの人生を送ることを、誰にも、何にも、邪魔させない!

これがパウロのメッセージです。

(2004年11月7日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年10月31日日曜日

聖霊なる神の導き


ガラテヤの信徒への手紙5・16~21

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

パウロは、ここまでのところで、救い主イエス・キリストを信じて生きる者たちには、神が「自由」を与えてくださる、ということを、語ってきました。5・1に「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」と書かれています。

そして、今日の個所でパウロが書いていることは、そのさらなる説明です。「ひとが自由になる」とは、「何から」自由になるということなのか。それは要するに「罪を犯したい」という欲望や誘惑の束縛からの自由である、ということです。「罪からの自由」こそが救いです。救いとは、束縛からの解放、という意味を持っているのです。

救われる、ということは、しかし、そういう欲望や誘惑を全く感じないようになる、という意味ではありません。おそらく感じると思います。

イエス・キリストへの信仰を与えられ、洗礼を受け、キリスト者になり、教会のメンバーになり、何十年も教会に通い続けるとしても、感じ続けると思います。じつは、わたしたち自身が、毎日、そのような欲望を感じ、誘惑され続けているのだと思います。その種の試練や葛藤は、生涯続くのだと思います。そうではないでしょうか。

欲望や誘惑、試練や葛藤は、死ぬまで続く。だからこそ、わたしたちは、その戦いから降りることができない。気を抜くことができない。卒業することができないのです。

パウロは「霊の導きに従って歩みなさい」と書いています。ここで「霊」とは何のことでしょうか。続きに「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と書かれているのですから、ここで分かることは、「霊の導き」と「肉の欲望」は明らかに対立的な関係にあるということです。

そのことを、パウロは次にはっきり書いています。 「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」

「自分のしたいと思うことができない」。パウロは、これと同じようなことを、別の手紙の中にも書いています。今日の個所の言葉によく似ている表現が出てくるのは、ローマの信徒への手紙7・18~20です。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もしわたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。

「自分のしたいと思うことができない」とか、「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」とは、どのような状態なのでしょうか。何となく「壊れている」感じがしてきます。正常ではない感じです。

善いことをしたいという願いは、ある。その意志もある。しかし、それを実行することができない。

悪いことをしてはならないという教育を、受けた。その自覚があり、意志もある。それなのに、してはならないことを、ついつい、してしまう。

わたしたちの中に起こる試練や葛藤の様子は、まさにパウロが描き出しているとおりである、とわたしは感じます。パウロは二千年前の人なのです。そのパウロがわたしたちのことをよく知っている。なんでこんなに、この人は、このわたしの今の気持ちを見抜いているのだろうか、と思うほどです。

悪いことを、ついつい、してしまう。続けているうちに、やめられなくなる。ここで、どうやら考えられることは、やはり、わたしたちを悪事へと誘惑するものは、甘くて美味しい味がする、ということではないでしょうか。

しかし、その先は地獄です。底なし沼です。そのことを思い起こさなければなりません。

最近、本当にしつこいのが、電子メールによるいろんな種類の勧誘です。ご存じない方かもおられると思いますので少し説明しますと、わたしのメールアドレスのように、教会のホームページで公開してしまっているようなものは、確実に標的にされます。そのようなメールアドレスを自動的に探し出して集めるソフトがあるのです。

とにかく、いろんな種類の「勧誘」のメールが、毎日・毎日、数十通単位で送りつけられてきます。何を買えだの、何があるだの。女性のふりをして「わたしと付き合ってください」というようなのもあります。

真っ赤なウソです。ありえない。穴に落ちたら、その先は騙しと脅迫の世界です。

しかし、わたしたちには、時として、そのような言葉に甘く美味しい味を感じとってしまう瞬間があるのかもしれない、ということを疑ってみる必要があります。地獄の一歩手前で目が覚める。しかし、そのときは手遅れであった、ということが、ありうるのです。

「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」

ここでパウロが書いている「律法の下にはいません」の意味は、おそらく、「律法主義の束縛の下にはいません」ということです。律法主義は、端的に「罪」なのです。律法主義は、なんら律法そのものに忠実な生き方ではないのです。

むしろ、パウロは、「律法主義」を「肉の欲望を満足させること」へと結びつけています。とくにこの手紙の中でパウロが、「律法主義」の典型であるとして告発しているのは、「ひとが救われるためには、割礼を受けなければならない」とする教えでした。それは、自分の満足のために、自分の正しさを主張するために、しるしや証拠を欲しがっているだけなのだ、と言いたいです。

「しかし、霊に導かれているなら」と、パウロは書いています。「霊の導きに従って歩みなさい」と。この言葉と響きあうのが5・6の御言です。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

外から見えるしるしや証拠がある、ということで満足する生き方が、律法主義であり、割礼を受けることです。しかし、そのようなことは、問題ではない。信仰が問題である。愛が問題である。あなたの心の中にあるものは何か、ということが問題である。

ここで「霊」とは、神の霊、霊なる神、すなわち、聖霊なる神のことです。それ以外のことを考えることはできません。

聖霊なる神の導きが問題である。聖霊があなたがたのうちに注がれ、宿っているとき、あなたの中に信仰があり、愛があり、希望があり、そして喜びがある。そのことが問題である。割礼は問題ではない。これがパウロのメッセージです。

「望む善は行わず、望まない悪を行っている」。この何となく「壊れている」感じ、正常ではない状態にあるとき、わたしたちの心の中に失われているものがある、と思います。それが、じつは信仰であり、愛であり、希望であり、喜びである。

心の中がケバケバしている。霊的に飢え乾いている。イライラしている。すぐ怒る。腹が立つ。破壊衝動が起こる。攻撃的になる。イヤミの一つも口にしたくなる。投げやりになる。すべてを投げ出し、投げ棄てたくなる。生きていくのが嫌になる。まさにそのようなとき、わたしたちは、聖霊なる神の導きに従っていないのです。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」

これは、言うならば、わたしたちを地獄に連れて行く誘惑の一覧表だと思っていただくとよいかと思います。「悪徳表」という呼び名もあります。

ですから、ちょっと試しに味わってみよう、などと思わないほうがよいです。すぐに中毒になります。怖いもの見たさというのも、危険です。怪しげな格好で近づいてきたことに気づいたときには、一目散に逃げるのが、正解です。後ろから追いかけてくるかもしれません。逃げましょう。そのときは逃げてよいし、逃げなければならないのです。

しかし、おそらく、逃げきれないときもあります。この種の欲望が、誰のせいでもなく、自分自身の心の中に起こってきたときです。

わたしたちは、この種の欲望を、心の中に、打ち消しがたく、抱え持ってしまうことがあります。毒の味に魅せられてしまうことがあります。さじ加減とは言いませんが、ある程度までは、お付き合いしなければならないときもあるでしょう。

そういうときには、どうしたらよいのでしょうか。わたしは、いつも思い起こす聖書の御言があります。コロサイの信徒への手紙3・16~17です。このことは、以前にも皆さんにお話ししたことがあります。

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」

キリストの言葉が「豊かに宿るようにしなさい」と言われている、この「しなさい」と言われていることを誰がするのかと言いますと、もちろん、「あなたがた」がするのです。このわたしが、するのです。

肉の欲望、罪への誘惑、毒の味、悪事への絶えざる関心と興味。このようなものが心の中を完全に満たしてしまわないように、別のものを、たくさん、大量に、心の中に入れていくことが必要です。そして、人生には、世の中には、もっと面白いことがある、ということを知る必要があります。

キリストの言葉が面白い。讃美歌が面白い。祈りが面白い!

“聖霊なる神の導き”に従って生きるとは、まさにそのようなことに他なりません。聖書を学び、讃美歌をうたい、祈りをささげる。この三つのことは、わたしたちが教会や家庭で、いつも、いつも、していることです。今日もしています。今もしています。明日もするでしょう。これからずっと、していくのです。

わたしたちの心は、小さい入れ物です。悪いことだけ考えていると、すぐに、それだけで一杯になってしまいます。良いことを考えましょう。

しかし、これは、いわゆる単なる「プラス思考」というようなこととは、違います。内容も次元も全く違います。自分の言葉で、人間の言葉で、自分自身に言い聞かせるのではありません。神の言葉で、キリストの言葉で、このわたしの心を満たすのです。「豊かに宿るようにする」のです。

また、自分ひとりだけだと思うと、誰も知らないうちに、悪いことに手を染めてしまうかもしれません。みんなで聖書を読み、讃美歌をうたい、祈りをささげましょう。教会に通いましょう。わたしのことを心配している仲間がいる。祈ってくれている友達がいる、ということに気づきましょう。

わたしたちが悪事を働いているときには想像力の欠如があるのだと、しばしば言われます。一般的には産んでくれた親や兄弟や親戚のことを忘れていると言うのでしょう。わたしたちの場合は、神さまのことを忘れていると言います。教会の仲間たちのことを忘れていると言うのです。

事実、そのときわたしたちは、聖書の御言を忘れ、讃美の楽しみを忘れ、祈りを忘れているのです。神の国の宴(うたげ)の喜びを、忘れているのです。

毒の味に魅せられてしまわないために、神の恵みを豊かに味わいつくすことが、必要なのです。

(2004年10月31日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年10月27日水曜日

キリストの昇天について


ハイデルベルク信仰問答第18主日

使徒言行録1・6~11

ハイデルベルク信仰問答の第17主日の第46問から第18主日の第49問までに記されている内容は、イエス・キリストの昇天についての教理です。

この教理の意図は、使徒信条に告白されている「主は・・・天に昇り」とはどのような意味であるのか、そしてわたしたちにとってどのような益をもたらすのか、を明らかにすることです。

キリストの昇天についての聖書的証言としては、ハイデルベルク信仰問答が挙げている証拠聖句(マタイ26・64、マルコ16・19、ルカ24・51、使徒1・9)の他に、ヨハネによる福音書14・2~3とコロサイの信徒への手紙3・1~2などを挙げることができます。

「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネによる福音書14・2~3)。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを心に留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(コロサイの信徒への手紙3・1~2)。

そして、ハイデルベルク信仰問答は、「キリストの昇天」ということを、「キリストが、弟子たちの目の前で、地から天に、上げられたということであります。そして、生ける者と死ねる者とを審くために、再び来られる日まで、わたしたちのために、そこに在す、ということであります」と定義しています。

これは、言葉どおりに受け入れる他はありません。地から天へと移動すること、まさに「上にあげられること」、これが昇天です。それ以上でも、それ以下でもありません。

しかし、問題は、「地」とはどこであり、「天」とはどこであるか、ということでしょう。もっとも、「地」のほうは、わたしたちが今生きている物理的・感覚的な世界のことである、ということは、おそらく議論の余地はありません。

むしろ、問題は「天」はどこか、ということです。これについて、ハイデルベルク信仰問答の表現は、非常に慎重なものです。

第46問の答えを見ていただきますと、「生ける者と死ねる者とを審くために、再び来られる日まで、わたしたちのために、そこに在す、ということであります」と書かれています。この中の「そこに在す」の「そこ」が「天」である、ということです。

つまり、「天」とはキリストがおられるところである、と言われているだけです。これが「天とはキリスト論的概念である」と言われる所以です。

また、もう一つ、「天」の所在についてハイデルベルク信仰問答が教えていることは、第49問の答えに「キリストは、天にあって、父の面前で」とある中の「父の面前」ということです。そして第49問の答えと第50問の問いに出てくる「神の右の座」ということです。

つまり、「天」とはキリストと共に父なる神もおられるところである、と言われています。しかし、それ以上のことは語られていない、と言うべきです。

父なる神と御子イエス・キリストがおられるところが「天」である。それならば、聖霊はおられないのか、ということが気になります。もちろん、聖霊もおられると考えるべきです。三位一体の神がおられるところが「天」である、と理解することができます。

しかし、これではまだ、わたしたちの疑問の答えになっていないでしょう。天はどこにあるのか。もし天という場所があるならば、それは、わたしたちが今生きている世界から非常に遠いのか、それとも、近いのか。また、そこは今のわたしたちの現実とは全くかけ離れた別世界なのか、それとも、よく似たような、あるいは全く同じと言いうる場所なのか、というあたりが、わたしたちにとって本当に知りたいことだからです。

この件については、ハイデルベルク信仰問答は、少なくとも今日の個所を見るかぎり、ズバリとした答えをわたしたちに示してくれてはいません。しかし、ヒントはあると思います。第47問の答えです。

「キリストは、真実の人間であり、真実の神であり給います。人性においては、今は、地上には、おられませんが、神性、尊厳、恩恵、霊においては、決して、わたしたちを、離れ給うことはありません」。

先ほどわたしは、「天」とはキリストがおられるところである、と申しました。そのキリストが、「今は・・・神性、尊厳、恩恵、霊においては、決して、わたしたちを離れ給うことはありません」と言われているのですから、そのキリストがおられる天とわたしたちが今生きているこの地上の世界との「距離は無い」と言われている、と考えてよいのです。

つまり、「天」と「地」は、ピッタリくっついている、ということです。両者は、いわば全くふれあっている。遠いどころか、ものすごく近いところにある、ということです。このように語ることが、わたしたちの教会において許されているのです。

しかし、ハイデルベルク信仰問答には、もう一つのメッセージがあります。第47問の答えにある、キリストは「人性においては、今は、地上には、おられません」という点です。これは、明らかに、人間の姿をとられたキリストは、現時点においては、地上においては"不在"である、というメッセージです。

この二つのメッセージ、つまりキリストのおられる天は、わたしたちの生きているこの地上の世界と全くふれあうほどに近い。しかし、キリストは、今は地上にはおられません、というこの二つのメッセージは、わたしたちにとって何を意味するのか、ということを、よくよく考える必要がある、と思われます。

ただし、このことについて、わたし自身は、教理そのものの説明よりも、まずは聖書の御言を読むことが大切であると考えています。

そこで開いていただきたいのが使徒言行録1・6~11です。これは、わたしが今年4月に松戸小金原教会に赴任してきてすぐに、イースター礼拝の次の週に、説教のテキストとして取り上げた個所ですので、記憶してくださっている方もおられるかもしれません。

そのとき、わたしが強調しましたのは、最後の11節に出てくる天使の言葉です。

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

この天使たちは、ちょっと腹を立てているようです。イエスさまが天に上げられていく様子を下から見上げながら、ボーっと突っ立っている弟子たちの姿が、なんとも哀れで・頼りなく・悲しげに見えたので、天使たちを通して神さまご自身が、彼らのことを厳しく叱りつけているような感じさえするのです。

「おいおい、皆さん、天を見上げている場合ですか。見るところが違うでしょう。見なければならないのは、上ではなく、前ではありませんか。あなたがたの希望は上にあるのではなく、前にあるのですから。イエスさまは、またおいでになるのですから。この地上の世界にもう一度来てくださるのですから。上なんか見上げてボーっとしている場合ではありません。しっかりしてください!」

わたしはこの個所を読むたびに、こういう声が聞こえてくるのです。

そして、使徒言行録は、このあと、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を詳しく描いていきます。聖霊が弟子たちの上に注がれて、弟子たち一人一人が力を受けて、自らの命をささげ、地の果てまで自らの足で歩いてイエス・キリストの福音を宣べ伝える、勇敢な伝道者となっていったことを描くのです。

そして、その伝道者たちの旅の中で、事あるたびに、何度も繰り返し、登場するのは、幻の中で御声をかけてくださるイエスさまご自身です。

姿は見えません。しかし、御声が聞こえてくるのです。こちらに行け。あちらに行くな。こうしろ、ああしろ、と(使徒26・15以下など)。また、弱り果てているときに、「勇気を出せ」と励ましの言葉をかけてくださるのです(使徒23・11など)。

なかでも興味深いのは、幻の中に現れてくださったイエスさまが、使徒パウロに対して「自分の足で立て」と言われた御言です(使徒言行録26・16)。

これと響きあうのが、イエスさまの昇天を見ていたあの弟子たちに語られた「なぜ天を見上げて立っているのか」という、ややお叱りの言葉です。

イエスさまの御言が今も響いてきます。

「上ではなく、前を見なさい。そして、自分の足で立ちなさい。あなた自身が伝道しなさい。わたしはいつもあなたと共にいるのだから。あなたは独りではないのだから。しかし、今はわたしは天にいて、あなたがたと一緒にはいない。あなたが伝道し、あなたが教会に信仰の仲間を集めなさい。そして、この世界を神の世界にしなさい。それらは、あなたの仕事です。人任せにしてはなりません」。

さて、ハイデルベルク信仰問答第49問には、キリストの昇天がわたしたちにもたらす益は何かということが書かれています。しかし、これは、なかなか難解であると思います。

ただ、とくに、第二の点に記されていることは、今日的にも大きな意味を持つ非常に大事なメッセージを含んでいると思います。

第二の点には、キリストの昇天とは、言ってみれば、神の御子キリストが、この地上においてまとわれた、わたしたちと同じ、人間の肉体そのものを、天に持ち上がってくださった、ということを意味する、と言われています。そして、だからこそ、そのことがわたしたち自身が天に迎え入れられるときの「確かな担保」である、と言っています。

このことは、キリスト教信仰の根本にかかわる非常に大事な点です。

と言いますのは、日本の中で(日本だけではありませんが)、「天国に行く」という言葉が語られるとき思い描かれることは、「地上の肉体との別れ」ということでしょう。

しかし、そうなりますと、天国というのは、霊だけがあって、肉体がないところとして描かれざるをえません。それは、まるで、影も形も無い、純粋で無色透明で、結局そこには何も無い、真空の世界であるかのようです!

ところが、そのようなことは、聖書のどこにも書かれていません。それどころか、聖書に描かれている「天」は、たとえば、「神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治する」(ヨハネの黙示録22・5)とあるように、きわめて色鮮やかで・にぎやかで・物質的で・政治的なイメージを持っているのです!

キリスト教信仰の根本は、復活にあるのです。すべての人は一度は必ず死にますが、その後再び、体ごとよみがえります。

そして、イエス・キリストへの信仰に生きた者たちは、そのまま天に召されます。そのようにして、わたしたちは、体をもって復活し、永遠の喜びのうちに生き続けることを、待ち望んでよいのです。

この希望には「担保」がある、と言われています。とても頼もしい話ではありませんか!

(2004年10月27日、松戸小金原教会水曜礼拝)

2004年10月24日日曜日

励ましの言葉


コロサイの信徒への手紙2・1~5

「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。」

ここに記されているパウロの言葉は、コロサイ教会の信徒たちへの励ましの言葉です。しかし、そのことを語るために、パウロは、このわたし自身があなたがたのために労苦し、闘っているのだ、ということを、あえて言葉にして、相手に伝えようとしているのを見ると、わたしなどは、つい、いろいろと考えさせられてしまいます。

とくに日本では、自分自身の苦労話を大っぴらに語り、わたしがこんなに苦労しているのだから、分かってほしいというような仕方で、相手の義理人情に訴える話し方のことを「浪花節」と呼ぶことがあると思います。たとえ悪気はなくても、何となく押し付けがましい話し方である、と思われてしまいます。

もちろん、こういう話し方でも十分に分かってくれる心優しい人々もいますし、じつは、そういう人のほうが多いのかもしれません。逆に考えて、自分は少しも苦労していないのに、ひとには「がんばれ、がんばれ」と語る人は、ほとんど信用を勝ち取ることができません。

しかし、世間にはいろんな人がいる、ということも事実です。ひとの話を聞く場合にも、冷たい感じの聞き方というのがあります。あなたの苦労がわたしにとって何の関係があるのですか。わたしも苦しいです。苦労話など聞きたくありません、と突き放されてしまうことがあるのです。

しかし、このことは、別の見方をするなら、自分の苦労話を安心して語ることができる相手がいる、というのは、幸いなことである、とも思えます。わたしの苦労話を善意として受けとめてくれる人がいるなら、パウロにとってコロサイ教会の人々は、そのような善意を期待できる、信頼関係のうちにある相手であった、と理解することができるかもしれません。

ところで、パウロは、彼らのために、何の苦労をしている、というのでしょうか。

「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。」

ここでパウロは、あなたがたコロサイ教会の人々とラオディキアにいる人々とが「心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるため」に、わたしは苦労しているのだ、と言っています。

この中で、とくに注目したいのは「理解力」という言葉です。また「キリストを悟る」という点が語られています。ただし、ここでの「悟る」には、以前も申し上げましたように、いわゆる仏教的意味での「悟りを開く」という意味は全くありません。むしろ「学び知ること」です。平たく言えば「勉強すること」です。

あなたがたに豊かな理解力が与えられ、キリストを学び知るために、わたしが苦労しているのだ、というのですから、パウロが苦闘している事柄として、わたしたちにとって最も分かりやすいであろう表現は、聖書に基づく「説教」とその準備である、ということではないでしょうか。

パウロも牧師の一人です。牧師は説教だけをしておればよいわけではありません。少なくとも牧会の仕事があります。しかし、説教もします。原稿も書きます。この点も、前回のこの手紙の学びの中で、すでにお話ししたことです。

そして、説教の準備というのは、意外と思われるのかどうかは分かりませんが、実際にやってみると、これはこれなりに、結構たいへんなことであると思います。

現在神戸改革派神学校で学んでいる浅野正紀神学生が、先週わたしに、一通のメールを送ってくださいました。そのメールに添えられていたのは、神学校で毎週水曜の夜に行われている祈祷会の奨励の原稿でした。「率直なところを批判してください」と書かれていましたので、率直なところの批評を書いて、送り返しました。こんなところで手加減するのは、かえって失礼だと思いましたので、遠慮なく厳しいことも書かせていただきました。

すると、浅野さんは、すぐに、わたしが指摘いたしましたすべての点を徹底的に見直してくださり、全面的に書き直して、また送ってこられました。

こういうことができる人、他人の批判を自発的に求めてこられる人には、間違いなく豊かな成長があります。浅野さんの熱心と謙遜な態度に、心から敬意を表したいと思います。

こういう人を見ていますと、わたしは、つい黙っていられなくなります。

こういうことができないのは、むしろ牧師たちです。自分の説教は素晴らしいと思い込んでいます。そう思い込んでいるかぎり、それ以上の成長は、全く期待できません。わたしは人のことは言えませんが、自分のことはすべて棚に挙げて言いますが、根本的に何か誤解しているのではないか、もう少し真面目に勉強したほうがよいのではないか、と思わされる牧師の説教に出くわすことが、しばしばあるのです。

パウロにとって、説教とは、ひとをして、神の秘められた計画であるキリストを悟らしむる何かです。「神の秘められた計画」とは、神の奥義という意味です。

そして、それは、神のすべての計画そのものを指しています。改革派信仰の表現の中で最も当てはまるのは、「神の聖定」(decrees of God)です。それは、創造者なる神によるこの世界と人類の創造のみわざから始まり、救い主イエス・キリストの十字架と復活による贖いのみわざを通り抜けて、歴史と現在における教会と世界の歩みと、終末におけるそれらの完成のみわざのすべてを含みます。

しかしまた、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と書かれているように、神のすべてのご計画を把握し、かつ正しく理解するための要(かなめ)と鍵は、まさにその神のすべてのご計画の中心に立っておられる救い主イエス・キリストです。

イエス・キリストを抜きにした「聖定」の教理は、単なる運命論・宿命論に陥る危険性があります。キリストが登場しない運命論・宿命論は、キリスト教的な教えにはなりえません。パウロは「巧みな議論にだまされないようにするため」と書いています。それが正しい教えか・誤った教えかを見分けるしるしは、そこにキリストがおられるどうかという点にかかっている、ということです。

説教とは、これらのすべてについて、聖書に基づいて、できるかぎり多くの人々に語り伝える仕事です。これは人が自らの一生をささげて取り組むに価する仕事です。説教だけがそうだと言いたいのではありません。しかし、説教もそうである。たしかにそうである、と語ることは許されるのではないでしょうか。

なんだか今日は、すっかり「浅野さんの話」になってしまいました。しかし、わたしは、いつか浅野さんに直接伝えたいことがあります。あなたの努力と労苦は必ず報われるときが来ます。間違いなく報われるときが来ます。天の神さまが報いてくださるでしょう。教会のみんなが喜んでくださるでしょう、と。

ただし、広い意味での「説教」は、牧師や神学生たちだけの仕事ではありません。「説教」は、長老や日曜学校の先生はもちろんのこと、じつは、すべてのキリスト者が仕えるべき仕事でもあると思います。

「説教」は、結局、わたしたちのこの信仰を、自分の家族や友人に正しく豊かに伝えることができる真実の言葉を探し求めるわざです。ラブレターを書くときのような真剣さと熱心さが必要です。

そして「説教」は、誰よりも、このわたし自身が、喜びと確信をもって、このわたしの信仰を公に告白する行為です。

良い意味で「みんなの宿題」であると、ご理解いただければと、願っております。

(2004年10月24日、松戸小金原教会夕礼拝)

愛によって互いに仕えよ


ガラテヤの信徒への手紙5・13~15

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」

今日の個所で、パウロは、イエス・キリストによって救われた者たちに与えられている自由とはどのようなものであるのか、ということについて書いています。一言すれば、「キリスト者の自由とは何か」ということです。

『キリスト者の自由』というタイトルの有名な書物があります。16世紀ドイツの宗教改革者であり、プロテスタント教会の歴史的創始者ともなりましたマルティン・ルターの書物です。この書物のテーマも、まさに「キリスト者の自由」、つまり、わたしたちキリスト者に与えられている自由とはどのようなものであるのか、ということです。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」とあります。「自由を得るために」と訳されている言葉は、原文では「自由のために」と書いてあるだけです。「を得る」は翻訳上補われた言葉です。

「召し出された」の意味は「呼び出された」です。ちょうど、わたしたちに誰かから電話がかかってくるように、呼び出されること、コールされることです。パウロの言葉を最も単純に直訳しますと、「あなたがたは自由のために呼び出されたのです」となります。

神がわたしたちを呼び出してくださるのは、どのような仕方でか、ということについても、一言だけ申し上げておきます。

神は、わたしたちに声をかけ、わたしたちの名を呼び、わたしたちに使命を与えてくださいます。そのために神がお用いになる手段は、聖霊なる神のみわざ、とくに、神の恵みの手段としての教会の宣教(説教)です。神は、ご自身の御言葉を、イエス・キリストを通して、聖霊において、宣教(説教)という手段を用いて、わたしたちに語りかけてくださるのです。

それならば、わたしたちは、どこから呼び出されるのでしょうか。もちろん、わたしたちがかつて属していたところからです。「ところ」とは、場所・地域・団体・家族・組織・制度・体制などの一切を含む、非常に広い意味です。

そこは、どのようなところだったのでしょうか。もちろん、彼らを、そしてわたしたちを奴隷の軛につないでいたところです。パウロ自身とガラテヤ教会の場合の「奴隷の軛」とは、ユダヤ教的律法主義であった、ということを、これまで学んできました。

パウロ自身は、突然彼の目の前に、幻のうちに現れてくださった、イエス・キリストご自身の呼びかけに応えて、ユダヤ教的律法主義によって彼の心も体もがんじがらめに拘束していたユダヤ教団を捨てて、その束縛としがらみから脱出しました。

ガラテヤ教会の人々も、今度はパウロの熱心な呼びかけに応えて、パウロと同じように、ユダヤ教的律法主義の拘束の中から脱出しました。

イエス・キリストへの信仰が、彼らの人生を根本から変えていきました。そして、それによって、彼らは、全く自由になりました。それは完全なる自由です。ルターも『キリスト者の自由』の冒頭で、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」と述べています(石原謙訳、岩波文庫、1955年、11ページ)。

「ただ」と、パウロは続けています。「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。

ここに出てくる「ただ」(モノン)の意味は、「ただし」とか「しかし」ではありません。「ただひたすら」の「ただ」です。「ただそれだけ」の「ただ」です。「あなたの選ぶべき選択肢、あなたの進むべき道は、ただひたすら、それだけです。ただ一つです」の「ただ」です。オンリーワンという意味です。

ですから、パウロが語っていることは非常に明確です。「自由を得るために召し出されたあなたがたの進むべきただ一つの道は、その自由を"愛によって互いに仕える"という、ただ一つの目的のために用いることだけです」と、パウロは書いているのです。この「ただ」は、あまりぼんやりと読まないほうが良いと思います。パウロは、ふらふらしていません。この「ただ」によって、事柄の白黒を、はっきり付けているのです。

キリスト者に与えられたこの「自由」は、ただひたすら、「愛によって仕えること」のために用いられなければならないのです。自由の目的は、はっきりしているのです。ぼんやりさせてはならないし、ごまかしてはならないのです。

「自由の濫用」などは、もってのほかです。そのようなことのために、イエス・キリストにおいて神が、あなたに自由を与えたのでは決してありません。この点は間違ってはなりません。

これこそがパウロのメッセージです。

言葉を変えて言いますと、父なる神がイエス・キリストにおいて、わたしたちに与えてくださったのは、「罪を犯してもよい自由」などではありえない、ということでもあります。わたしたちに与えられている自由は、そのような自由ではないのです。そのような自由なら、最初から「要りません」と、きっぱりと断らなければならないのです。

全く反対です。神が与えてくださる真の自由とは「罪からの自由」です。「罪を犯さないでも済む自由」です。「罪を犯したい」という思いからの解放です。

まだ明確な犯罪とは言いきれないが実際の犯罪につながる可能性が高い行為のことを、「虞犯(ぐはん)行為」と呼びます。まさにそのような、犯罪行為に至る虞犯行為そのものや、それへの誘惑からの解放です。

あるいはまた、すでに犯した罪そのもの、犯罪行為、再犯行為、罪意識、罪責の念からの解放です。誰かに罪を犯したことへの後悔や、誰かから罪によって傷を受けた悲しみや苦しみからの解放です。

神がわたしたちに与えてくださるのは、そのような意味での「自由」です。「罪を犯すために用いてよい自由」などではありえないのです。

続けて「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」とあります。これは、少し慎重に読みたい言葉です。と言いますのは、パウロはこのように書いていますが、イエスさまは、あれれ、たしか、これとは少し違ったことを言っておられたような気がするからです。

見ていただきたいのは、マタイによる福音書22・34以下の記事です。

ここでイエスさまは、「律法の専門家」と称する人から、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と質問され、「二つの掟」であるとお答えになっています。

イエスさまにとってこの「二つの掟」とは、よく知られていますように、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という第一の掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟との二つです。「隣人を自分のように愛しなさい」という掟は、イエスさまによると「第二の掟」です。つまり、律法全体を要約する掟は、一つではなくて二つである、というのが、イエスさまの教えです。

ところが、パウロのほうは、一つであると言っています。少し大げさにいえば、師弟関係の中に見解の相違がある、という感じです。ですから、この点は、やはり、かなり慎重に考えなければならないところでしょう。

それで、実際に調べてみましたところ、この件に言及している注解書が見つかりました。と言いますか、わたしがいつも参考にしている座右の書が、短い言葉ながら、きちんと説明しておりました(Vgl. P. A. Van Stempvoort, De brief van Paulus aan de Galaten. De Prediking van het nieuwe testament (PNT), G. F. Callenbach N. V. Nijkerk, 1961, p. 174〜175)。

それによると、「律法に教えられているのは、イエス・キリストにおける神による、全世界に対する愛である」と言われています。その意味は、おそらく次のようなことです。

わたしたちに求められているのは、「神に対する愛」である・・・もちろん、そのとおりです。


しかし、わたしたちが愛すべき神とイエス・キリスト御自身が愛しておられるのは、わたしたちが生きているこの世界全体と、その中で生きているわたしたち自身である、ということです。イエス・キリストは、御自身よりも、そして父なる神よりも、この世界とわたしたち人間を愛しておられるのです。

わたしたちが向けるべき視線は、「神に対して」である・・・もちろん、そのとおりです。

しかし、わたしたちが見つめるべき神とイエス・キリスト御自身のまなざしは、「この世界と人類に対して」向けられている、ということです。イエス・キリストは、御自身よりも、そして父なる神よりも、この世界とわたしたち人間を見つめておられるのです。

神がわたしたちを愛してくださいます。そして、わたしたちは、その神を愛さなければなりません。しかし、「神を愛する」とは「神に従うこと」でもあります。そして、神に従うということは、神が熱いまなざしをもって見つめ、愛してくださっているこの世界と人類を、(神と共に)愛することでもあるのです。

「律法の全体は・・・隣人愛の戒めというこの一句において成就され、遂行され、全うされるのです。ローマの信徒への手紙13・8に『人を愛する者は、律法を全うしているのです』と書かれているとおりです。ここで考えられることは、いずれにせよ、隣人への愛は、神への愛から生み出されるものである、ということです」(ibid. p. 175)。

ですから、わたしたちは、次のようにも語ることができます。

わたしたちは、神の栄光を現わし、永遠に神を喜ばなければなりません。しかし、神は、わたしたちを神御自身の栄光によって輝かせてくださり、わたしたちの存在を永遠に喜んでくださるのです。神の栄光の輝きがわたしたち自身の輝きとなり、わたしたちの輝きが隣人と世界を輝かせる光となるのです。

わたしたちのうちに時々起こるのは、「わたしは、神を愛することはできる。しかし、人間を愛することはできない」という思いです。

イエスさまの言われる「第一の掟」のほうは守ることができる。しかし、「第二の掟」は守ることができない、という思いです。

宗教的熱心はある。しかし、この世の事柄には関心を持つことができない、という思いです。

神との純粋で霊的な交わりは愛する。しかし、教会や社会の中での人間同士の“人間的な”お付き合いは、面倒くさいし、わずらわしいので、まっぴらごめんです、という思いです。

これは、わたしたちにとっては大きく強い誘惑になりうるのです。

このような思いは、とくに、教会の中で争いやいざこざが起こるときに起こりやすいものです。しかし、これは少し厳しい言い方ですが、悪い意味での律法主義の一種です。たとえば、パウロがかつて属していたユダヤ教的律法主義、とくにファリサイ派のグループの中にはこのような傾向があった、ということができます。

「神を愛すること」は大切です。しかし、一方的な宗教的熱心が「人間嫌い」の傾向をもたらすことがありうるのです。律法主義(りっぽうしゅぎ)とは、言ってみれば、一方主義(いっぽうしゅぎ)なのです。

このように考えてきますと、ここでパウロが「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟だけを強調して取り上げている意図は、このような過ちに陥ることを防ぎたいということではないか、と思われてなりません。

「だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」とあります。教会の中で、互いに愛し合い、仕え合うことをせずに、それどころか、互いにかみ合い、共食いし合うことがありえます。教会も人間の集まりですから、争いが起こるのを避けることはできません。悲しいことですが、これが現実です。

そのことを、パウロはよく知っています。よく知りながら、あえて、「隣人を愛しなさい」という人間関係の掟を強調しているのです。

この文脈で持ち出すと、「何があったのか?」と思われるかもしれませんが、先週の火曜日から金曜日までの四日間、日本キリスト改革派教会の第59回定期大会が行われました。本教会を代表して、佐藤長老とわたしが出席しました。

今年の定期大会は、比較的穏やかで、落ち着いた会議となりました。しかし、当然のことながら、異なる意見が激しくぶつかり合う場面もありました。毎度のことながら、本当に疲れる会議でした。

しかし、まさか、けんかするために、教会が存在するわけではありません。わたしたちが教会に集まっている目的は、互いに愛し合うためです。互いに祈り合い、仕え合うためです。お互いを傷つけあうためではありません。

パウロの心の中に、あなたがたは、イエス・キリストへの信仰によって、せっかく律法主義という「奴隷の軛」から自由にされ、喜びに満ちた新しい人生を始めることができたのだから、もうけんかはやめにしましょう、仲良くしましょう、という思いがあったに違いありません。

「互いに滅ぼされないように注意しなさい」。このパウロの忠告に、わたしたちは、素直に耳を傾けるべきです。

(2004年10月24日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年10月17日日曜日

本当の悩みを知る ~子育て、家庭、職業、隣人愛の問題にもふれて~


マタイによる福音書9・35~10・15

本日は特別伝道集会です。大勢の方々にお集まりいただきましたことを、心から感謝しております。

今朝、皆さんに開いていただきました聖書の個所は、マタイによる福音書9・35〜10・15です。今日はこの個所を、皆さんと一緒に学んで行きたいと願っております。

「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」

これは、わたしたちの救い主イエス・キリストの活動記録の一部です。イエスさまが、いろんな町、いろんな村を、残らず歩き回ってくださったのです。そのとき、イエスさまは、何をなさったのか。大きく分けて二つあります。

イエスさまの仕事の第一は、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」と書かれていることです。これは、要するに、今ここでわたしが行っている「説教」という仕事です。「会堂で教え」とあります。ユダヤ人の安息日は、土曜日です。土曜日ごとに「会堂」に集まって礼拝が行われます。そこで説教が行われます。イエスさまは、いろんな町や村の会堂で、聖書に基づく説教をしてくださったのです。

イエスさまの仕事の第二は、「ありとあらゆる病いや患いをいやされた」と書かれていることです。「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とも書かれています。ここに「いやすこと」と「憐れむこと」という二つが書かれています。しかし、この二つは、少なくとも当時は、それほど違うことではなかったと思われます。この点は、もう少し説明が必要でしょう。

今の時代に「いやすこと」といえば、「病院の医師が治療によって患者の病気を治すこと」を意味します。「憐れむこと」とは、何でしょうか。今日の個所に書かれている元々の意味は、「同情すること」です。シンパシーを感じること、同情することです。それが、とくに宗教的な文脈では「憐れみ」という意味になります。

しかし、イエスさまの時代は、今ほどに専門分化されていたわけではありません。医者は医者、宗教家は宗教家の領分を守らなければならないというのは、ごく最近の話です。今の日本でも、田舎のほうに行けば、スポーツ用品店に大根やキャベツが売っていたりします。一人の人が何でもしなければならないということが、ありうるのです。

イエスさまの時代において、またイエスさまご自身において、「いやすこと」と「憐れむこと」の二つは、結局のところ、人の苦しみを和らげ、取り去るという点で共通する、一つの課題であった、と言えるのです。

このような働きを、教会は「牧会」と呼んできました。これはドイツ語のゼーレゾルゲの翻訳として使われてきました。ゼーレゾルゲとは「魂の配慮」という意味です。それが「牧会」です。イエスさまの仕事の第二の要素は「牧会」である、ということです。

この二つのわざがイエスさまの主な仕事でありました。そして、この二つのわざが同時に等しく重んじられるところに、イエスさまのみわざの本領が発揮されました。

イエスさまは「説教」だけをされていたのではありません。"魂の配慮"という意味での「牧会」をも、なさっていたのです。

この点は、わたしたちが、教会の存在理由について、また、牧師という人間の存在理由について考えるときに重要です。

わたしは、牧師という仕事を始めて14年目になります。その中で、時々、わたしは本当に誤解されている、と感じることがあります。

つい最近も、ありました。これは、教会の何人かの方々には、すでにお話ししたことです。

わたしは今年、小学校の父兄の立場で、松戸市の少年補導員の一人に加わることになりました。その活動をしていたときです。補導員のひとりの方が、「関口さんは、日曜日以外は、仕事をしておられないんですよねえ」と言われました。

わたしは、ただ笑うしかありませんでした。少しくらいの説明では、分かってもらえそうにありませんでした。「あはは、まあ、そのようなものです」と答えておきました。それ以上は言いませんでした。

でも、教会の皆さんは、分かってくださっています。牧師も結構忙しい、と。どこで何をしているのかは、よく分からないところもあるのだけれど、でも、何かものすごく忙しくしているようでもある、と。

そのような、まさに「何だ」と聞かれても「これだ」とはっきり答えるのが難しいような、微妙で・複雑で・デリケートな事柄についての配慮、まさに「魂の配慮」を行うことこそが牧師の仕事である、と申し上げることができます。ある人びとにとっては、たしかに、不可解で・得体の知れない存在かもしれません。

しかし、この点においては、イエスさまも、そうであった、と申し上げたいわけです。イエスさまは、二千年前のユダヤで働かれた、ひとりの牧師さんだったのです。そのように理解することができるのです。

もう一つ、牧師という仕事をしていて、事あるごとに、かならず質問されることがあります。「牧師さんは、どのようにして生活しているのですか」。もちろん、どのようにして稼いでいるのか、という質問です。この質問をなさる方の顔は、どなたも興味津々です。

そのような質問を受けるたびに、イエスさまはどうだったのか、を考えさせられます。イエスさまは、どのようにして生活しておられたのでしょうか。

じつは、そのあたりは、聖書には、あまりはっきりとは書かれておりません。しかし、間接的に分かることがあります。先ほどお読みしました個所の後半部分に、イエスさまが弟子たちに命じておられる内容が、それです。

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つ時まで、その人のもとにとどまりなさい。」

イエスさまの弟子として働く者たちは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい、ということです。このように言われるイエスさまご自身も、当然、同じように生きられたに違いないのです。

しかし、その代わり、というのは少し語弊があるかもしれませんが、イエスさまご自身も、イエスさまの弟子たちも、その仕事と生活を経済的に支援してもらえる人々を探し、その人びとに助けてもらっていたのです。

この点は、なかなか分かってもらえないところです。わたしは、今年3月までの13年間は、おもに田舎の教会で働いておりました。その中で時々困ってしまうことがありました。

牧師館には、教会の方々だけではなく、一般の方々が、突然「相談したいことがあります」と訪ねてこられることがあります。そして、話を聞くと、その帰りがけに、お金が入った封筒を渡され、「話を聞いていただいたお礼です」と言われるのです。「いただけません」と丁重にお断りするのですが、必ず押し問答になり、無理やり置いて行かれるのです。そういうものだ、と固く信じておられるのかもしれません。

しかし、これは本当に困ることです。「ただで与えなさい」というのがイエスさまの命令だからです。

ただし、牧師たちは、まさか、かすみを食べて生きているわけではありません。教会が十分な生活費を用意してくださいます。食べ物や着る物に困ったことは一度もありません。ですから、どうか皆さんには、間違っても、そのような封筒を持って来られないように、お願いいたします。

なぜお願いするか、です。大げさでも何でもなく、牧師というわたしたちの仕事の本質ないし根幹にかかわる事柄だからです。まさに、この「ただで与える」という点が貫かれているかどうかということが、教会と牧師の存在理由そのものにかかわっているからです。

考えてみていただきたいのです。おそらく今ここに集まっているわたしたちの多くが、かつてそうだったのではないでしょうか。初めて教会を訪ねようと思い立ったとき、また牧師に相談を持ちかけようと考えたときのわたしたちは、どんな状態だったか、です。

もちろん、いろんなケースがあるでしょう。しかし、多くの場合、多くの人々は、そのとき、すべてに行き詰っているのです。まさに「万策尽きた」ときに、ひとは教会を訪ね、牧師を訪ねるのです。神を求め、宗教を求めるのです。

今日の聖書の個所の全体を見渡していただきますと、ここで分かることは、イエスさまが十二人の弟子たちをお選びになり、世の人びとを助けるために派遣された最も直接的な理由は何であったか、ということです。

それは、先ほども読みましたが、「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9・36)というこの点です。ひとえに、この点です!

まさにイエスさまは、「弱り果て、打ちひしがれている群集」に対して深く同情されたゆえに、彼らを何とかして助けるために、十二人の弟子たちを派遣されたのです。

ですから、逆に言えば、もしそこにそのような「弱り果て、打ちひしがれている群集」がいなかったとしたら、イエスさまが弟子たちを派遣する理由も無かった、ということになります。

しかし、実際には、そういう人々は、たしかにいました。そして、もちろん、今でもいます。たくさんいます。わたしたちの身近なところに、あふれかえっています。いなかったとしたら、などというような仮定の話は、全く意味の無い空想にすぎません。

そして、そのような人々を助けるために、イエスさまは、かつて弟子たちを派遣されましたし、今も派遣され続けているのです。そして、教会と牧師は、その人々を助けるために、ただで与えること、そしてこのわたしの命をかけてすべてを与えなければならないのです。与えなければならないのであって、奪ってはならないのです。

気になることがあります。それは、先ほどの9・36にある「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て」という一句です。しかし、これは、考えてみれば非常におかしいことです。困ったことです。なぜなら、その直ぐ前に「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え」と書いてあるからです。

なぜおかしいのか。なぜ困ったことなのか。それは、この個所を読む限り、イエスさまがご覧になった「弱り果て、打ちひしがれている群衆」が住んでいた町や村には「会堂」が存在した、ということが、はっきりと書かれているからです。

この「会堂」ということで、単なる宗教的な施設や建物だけを想像するのは、おそらく間違っています。少なくともその建物の中に、そこで働く宗教家たちもいたのです。当時のユダヤ教の律法学者、祭司長、長老たちは、会堂を中心に活動をしていました。その人々の宗教活動そのものが「会堂」という言葉に含まれているのです。

ということは、何を意味するのか。イエスさまがご覧になった「弱り果て、打ちひしがれている群集」には「飼い主」であるべき人びとがいた、ということです。「飼い主」は、存在しなかったのではなく、存在したのです。それなのに、彼らは「飼い主のいない羊のようだ」とイエスさまはご覧になったのです。

これは明らかに、当時の宗教家たちに対する激しい批判の意味が込められています。はっきり言ってしまえば、会堂は、そして会堂の住人たちは何の役にも立っていないではないか、ということです。「弱り果てて、打ちひしがれている」人々の助けになっていないではないか。彼らの霊的なニードに応えていないではないか、ということです。これはわたしたち教会に対する厳しい問いかけでもあります。

そして、ここでもう一つ考えられることは、このときイエスさまは、まさにそのいわば「役立たずな」会堂と宗教家たちの代わりに、十二人の「役に立つ」弟子たちをお選びになり、派遣されたに違いないのだ、ということです。

そして、とくに注目すべきことは先ほどの件です。「ただで与えなさい」という問題です。

考えられることは、当時の宗教家たちが、宗教を悪い意味での商売道具とし、私利私欲を求めることに熱心であり、目の前で困っている人びとを助け起こすことには少しも関心をもっていなかったのではないか、ということです。もしそうだとするならば、「ただで与えなさい」というイエスさまの命令には、当時の堕落した会堂と宗教家たちへの痛烈な批判が含まれていた、と考えることができるのです。

そして、もしそれが真実なら、ここにこそ、人びとの「本当の悩み」もあった、ということを考えざるをえません。

たとえば、子育てに行き詰まり、家庭生活や職業に行き詰まり、そして人生そのものに行き詰まってしまった人びとがいる。そして、いわば最後の最後に、教会に行く。しかし、そのとき、教会が役に立たない。宗教が役に立たないと感じる。そのときには完全に絶望するしかありません。そのとき、ひとは、本当の意味で行き場を失ってしまうのです。

「本当の悩み」とは、最後の最後に、心から信頼して相談できる相手がいない、ということではないでしょうか。助けを求めた人を信頼して相談したとき、与えてくれるどころか、奪われた。そのとき、ひとは、心の底から「神に見棄てられた」と感じるのです。

しかし、反対のことも言えます。もし「本当に役に立つ人々」が、助けを求めている人々に「ただで与える」ことを始めるならば、あるいは、「ただで与える、本当に役に立つ人々」がこの世界の中に増えていくならば、この世界全体が、真によきものへと変わっていくでしょう。

教会とは、地上において、そのことを追求する団体です。わたしたちは、まさにこの「本当に役に立つもの」になりたい。そして、「ただで与えるもの」になりたいのです。それこそがイエスさまが教えてくださった「愛」のかたちである、とわたしたちは信じています。

時間が無くなりました。この続きの部分は、午後の集会の中で、わたしの家内が話してくれると思います。打ち合わせもきちんと出来ております。夫婦で力を合わせて、午前と午後で一つの話になるように準備しましたので、わたしの話は、ここまでにします。

最後に一言だけ申し上げます。

困ったときには、教会に来てください。牧師館を訪ねてください。そして、何でも相談してください。十分な意味で役に立てないかもしれませんが、できるかぎりのことをさせていただきます。

その際、何も持ってくる必要はありません。とくに、お金の入った封筒は、謹んでお断りいたします。

わたしたちは皆さんの助けになりたいだけです。お役に立ちたいだけです。必要なものは、すべて神さまが満たしてくださるのです。

(2004年10月17日、松戸小金原教会特別伝道礼拝)

2004年10月10日日曜日

十字架のつまずき


ガラテヤの信徒への手紙5・7~12

「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。」

「あなたがたは、よく走っていました。それなのに」と、パウロは言います。「いったいだれが邪魔をして真理に従わせないようにさせたのですか。」

このパウロの言葉の裏側には、ガラテヤ教会の人々をかばう思いがある、と言えます。あなたがたは惑わされているだけだ、と言ってあげている、という面があります。

しかし、本当のところを言えば、ガラテヤ教会の人々には全く責任が無い、というようなことは、ありえない話です。彼ら自身が、もう少し忠実にパウロの教えにとどまっていさえすれば、そのような問題は起こらなかったのです。

「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」とあります。「パン種」の意味は、ご存じでしょう。それ自体は小さくても全体に影響を及ぼす大きな力を持っているものについての例えです。しかし、ここでは悪い意味で使われています。

パウロは、これと同じ言葉をコリントの信徒への手紙一5・6にも書いています。この場合も「パン種」は悪い意味です。

イエスさまも「パン種」という言葉を悪い意味でお用いになりました。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に、よく注意しなさい」(マタイによる福音書16・6)。

ふと気づかされたことがあります。「パン種」とは、一度練り粉の中に入ってしまったら、二度と取り除くことのできないもの、という意味があるのではないか、ということです。

たとえば、イエスさまは、「パン種を取り除け」とは言われませんでした。「注意しなさい」と言われただけです。"取り除くことのできないもの"だからではないでしょうか。

別の個所で、イエスさまは、似たようなことを、別の言葉で例えておられます。いわゆる「毒麦の例え」です(マタイによる福音書13・24~30)。良い種の蒔かれた麦畑に、敵が来て毒麦の種を蒔いていった。実ってみると毒麦も現れた。毒麦を抜きましょう、という僕の言葉を主人が打ち消して「そのままにしておきなさい」と答える、あの例えです。

この場合も問題になっているのは、良いものの中に悪いもののが混ざっている、ということです。ただし、毒麦の場合はある程度見分けがつきますが、パン種の場合は全く見分けがつきません。放っておくしかありません。「気をつけること」のほかには、なすすべがないのです。

しかし、いずれにせよ問題となっているのは、良いものの中に悪いものが混ざっている、ということです。そして、わたしには、このことが、今日の個所でパウロがストレートに表現している怒り、ないし苛立ちの原因になっているのではないかと思われるのです。

それはどういうことか、もう少し説明が必要でしょう。なぜパウロは、怒っているのでしょうか。苛立っているのでしょうか。その理由は次のように説明できると思います。

それは、今やガラテヤ教会を惑わしているユダヤ教的律法主義というものは、じつは、そもそもパウロ自身が持っていたものであり、今も、そしておそらくこれからも、その中から完全には抜け切ることはできず、彼の中に混ざり続けていくであろうものである、ということです。

そして、そこにこそ、パウロの弱点があった、ということです。そして、その弱点は、パウロに敵対する人々にも知られていました。敵というのは、いつでも必ず、こちらの弱点を攻めてくるのです。それは、戦術的にも・戦略的にも正しい当然のやり方かもしれませんが、攻められる側としては、たまったものではありません。

そして、パウロは実際に、そこで追い詰められる。そこで苦しむ。そして、そこで腹を立てるのです。図星を当てられたときに、人は腹をたてるのです。そうでない場合には、痛くも痒くもないのです。


実際、たとえば、パウロ自身は、幼い頃に割礼を受けています。彼は、生まれながらのユダヤ人です。熱心なユダヤ教徒になり、熱心なキリスト教迫害者にもなりました。ファリサイ派の律法学者でもありました。これは否定しようもない厳然たる事実です。

また、もう一つ、もっと重大と言いうる事件がありました。それが、使徒言行録16・3に紹介されています。

「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを皆が知っていたからである」。

これは明らかに、パウロがキリスト者になり、伝道者になった後の出来事です。パウロ自身が弟子のテモテに割礼を授けた、というのです。「その地方に住むユダヤ人の手前」と書かれています。パウロは「ユダヤ人の手前」、つまり、ユダヤ人の目、人間の目を気にするがゆえに、自分の弟子に手ずから割礼を授けた、というのです。

そして、実際、どうやらこの事件をきっかけとして、ガラテヤ教会の中に「パウロは今なお割礼を宣べ伝えている」という噂が広がった、と考えられるのです。

11節にパウロが書いていることは、そのような背景を持っていると考えられます。“火の無いところに煙は立たない”のです。パウロ自身の側に全く責められるところが無かった、とは言い切れないのです。

ここでわたしに思い出されることがあります。

日本では一般的にも有名な内村鑑三氏は、ご承知のとおり、いわゆる「無教会主義」という立場を取りました。教会を否定する、というのですから、わたしたち教会の者たちとしては、立場が違うといわざるをえません。しかし、たいへん立派な方であり、わたしたちとしても尊敬すべきところの多い方であることは事実です。

その内村氏について、現在の無教会の指導者の一人から直接伺った話なのですが、内村氏は、じつを言うと、一度ならず、自分の弟子たちに洗礼を授けたことがある、というのです。

無教会主義と洗礼を授けることが原理的に矛盾していることは、明らかです。彼ら自身が洗礼を授けることも・受けることも拒否してきた歴史があるのです。しかし、実際の内村氏は、自分の弟子の数名に洗礼を授けた、というのです。

とくに興味深かったのが、内村氏が洗礼を授けた中の一人に、内村氏自身の実の娘さんがいた、というのです。その理由も聞きました。その娘さんが海外に留学することになったとき、海外でキリスト者として認められるためには洗礼を受けていなければ困る、という話になり、やむをえず洗礼を授けた、というのです。

こういう話を聞いてわたしたちが、「さもありなん」と言い放つとか、「やっぱり無教会主義には限界がある」というふうに断じたりすることは、事柄の取り上げ方としては、たいへん失礼な態度であると思います。内村氏としては、苦渋の選択という面もあったかもしれません。

しかし、それでもなお言わざるを得ないと感じることがあります。もし、その人が熱心に語ってきた主義・主張というものと、実際にその人が実践したこととが違っている、と見られてしまったときには、やはり、そのことについて、周りの人々に理解できる言葉で、きちんと説明することが必要である、ということです。それは誤解であるというなら、その誤解を解くために、公の場所で、きちんと語る説明責任がある、ということです。しかし、わたしは、内村氏によるそのような説明があったことを、寡聞にして知りません。

いわば(いわば、ですが)パウロも、内村氏と同じようなところに立たされた、と言えるかもしれません。内容的には異なりますが、状況は似ていると言えなくもありません。パウロの場合、他の人には「割礼を受けるべきではない」と語っておきながら、自分の弟子には割礼を授けた。あの人は信用できない、と言いだす人々が出てきたのではないでしょうか。

「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。」

ここでパウロが書いていることは、明確です。このわたしが今なお割礼を宣べ伝えている、というのは全くの誤解である。もしそうであるなら、このわたしが今なお迫害を受けている理由が分からなくなるではないか、ということです。

ここで「迫害」とは、もちろんユダヤ教徒によるキリスト教徒に対する迫害です。これをわたしは、今なお受けているではないか。迫害を受けなくなるということは、ユダヤ人たちがパウロの存在を味方であると認めることを意味する。つまり、パウロがキリスト教の教えを捨てて、再びユダヤ教に戻ったと認めることを意味します。

わたしはそうなのか、と言いたいわけです。わたしはユダヤ教に戻ったのか。キリスト教を捨てたのか。そんなことはありえないことだ、と言いたいわけです。

わたしたちも、この日本の国の中で、とくに宗教という観点から、ものすごく悩む場面が今でもある、と思います。たとえば、葬式の場面しかり、お盆や正月の行事しかりです。しかし、今ここで、具体的な例を挙げていくことは控えます。

たとえば、そのような場面において、です。そこに集まっているのがみんなキリスト者ばかりである、というなら、なんと気楽なことでしょうか!しかし、実際にはそういうわけには行かないではありませんか!

実際には、いろんな宗教、いろんな立場や考えの人々がいます。そのような場面において、わたしたちが、それこそ「ユダヤ人の手前」というのと同じように、その人々の手前、周囲の人々の目を気にして、心にも無い宗教儀式に参加し、信じてもいない存在に向かって手を合せてみたり、拝んだふりをしてみたりしなければならないような場面が、全く無い、と言い切れるでしょうか。

しかし、そういうときに、手を合わせたから、お辞儀をしたから、だから、わたしはキリスト教を捨てたのか。仏教や神道の信者になったのか。このあたりのことは、時として、ものすごく難しい問題として、わたしたちの心を悩ませ、痛めつける問題として、襲いかかってくることがあるのではないでしょうか。

わたしは、この種の問題に明確で一義的な答えは無い、と考えています。パウロのように状況に応じて判断するという選択肢がありうる、と考えています。しかし、このようなことを、あまり開き直って言うつもりも、ありません。

パウロ自身は、自分自身がかつて確かに受けた割礼そのものを否定できたわけではありませんし、否定しようがありません。また、キリスト者になった後も、自分の弟子に割礼を授けました。

しかし、そのパウロが、断固として否定したことがある。すなわち、「割礼は救いのために必要かつ不可欠な条件である」というこのような考えを、パウロは断固として否定したのです。

ひとは、割礼を受けなくても救われる。割礼は、救いに至るための義務でも、責任でも、条件でもない。このようにパウロは語ったのです。

しかし、こういう考え方は、律法主義者たちには理解されないものです。パウロの立場を執拗に攻撃していた人々は、パウロが「割礼を受けるべきではない」と言ったとなると、彼は割礼そのものを否定しているのだ。ひいては、ユダヤ教の信仰そのものを否定し、結局はユダヤ人の存在そのものを否定しているのだ。だから、パウロはわれわれの敵なのだ、というふうに受け取るのです。このような三段論法こそが原理主義の特色である、と言えるでしょう。

しかし、実際のパウロは、もっともっと自由な人でした。イエス・キリストの十字架の福音によって自由なものにされていました。ひとが救われるために求められるのは、信仰だけである。問われるのは、これだけだ、と。

わたしが今なお割礼を宣べ伝えているなら、「十字架のつまずき」もなくなっていたことでしょう、とパウロは書いています。「つまずき」(スカンダロン)とは、スキャンダルの語源です。憤慨ないし激怒の対象、という意味です。

イエスさまの十字架に憤慨し、激怒するのは、もちろん、ユダヤ人たちです。しかし、なぜ彼らが憤慨し、激怒しなければならないのか。イエスさまを十字架につけて殺したのは、彼ら自身です。その彼らにとって、イエスさまこそが救い主であると語るキリスト教徒の言葉は、許しがたいものであり、憤慨と激怒の対象であった、というわけです。

このようことを、十字架の福音を、みんなの前ではっきりと語っている、このわたしパウロを差し置いて、「あいつはユダヤ教に戻った」などという噂を流すのは誰なのか。お願いですから、そのような中傷誹謗はやめてくださいと、言いたいのです。

「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」

ここでパウロは、この手紙の中ではおそらく最も過激な言葉を書いています。

わたしが実際に聞いた、この個所を説教された日本の有名な牧師が語った言葉を、今でも忘れることができません。「パウロが言っていることは、要するに、“根こそぎ切り取ってしまえ”、ということです」。

言ってみれば、それだけです。しかし、さらに調べていきますと、これは非常に痛烈で激しい皮肉であることが分かってきます。

旧約聖書の申命記23・2には、「去勢した者は主の会衆に加わることができない」ということが書かれています。そうだとすると、パウロの意図は、彼らは、自分の律法によって、自分自身が裁かれている、という意味になります。

また、別の解説によると、ここでパウロは、小アジア地方にあったとされる、キュベレという女神を祀っている大神殿に仕える宦官たちのことを考えているのかもしれない、と言われます。そうだとすると、彼らは、自分のユダヤ教信仰によって異教化している、という意味になります。

とはいえ、わたしたちまで、パウロのように、皮肉とか嫌味のようなことを、人に対して書き送る手紙のようなものの中に、勢いに任せて書き殴る、というようなやり方は如何なものかとも感じます。わたしたちは、こんなことまでパウロの真似をする必要はないでしょう。ただ、パウロの強い思いを読み取ることができれば、と思います。

(2004年10月10日、松戸小金原教会主日礼拝)