2004年10月31日日曜日

聖霊なる神の導き


ガラテヤの信徒への手紙5・16~21

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

パウロは、ここまでのところで、救い主イエス・キリストを信じて生きる者たちには、神が「自由」を与えてくださる、ということを、語ってきました。5・1に「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」と書かれています。

そして、今日の個所でパウロが書いていることは、そのさらなる説明です。「ひとが自由になる」とは、「何から」自由になるということなのか。それは要するに「罪を犯したい」という欲望や誘惑の束縛からの自由である、ということです。「罪からの自由」こそが救いです。救いとは、束縛からの解放、という意味を持っているのです。

救われる、ということは、しかし、そういう欲望や誘惑を全く感じないようになる、という意味ではありません。おそらく感じると思います。

イエス・キリストへの信仰を与えられ、洗礼を受け、キリスト者になり、教会のメンバーになり、何十年も教会に通い続けるとしても、感じ続けると思います。じつは、わたしたち自身が、毎日、そのような欲望を感じ、誘惑され続けているのだと思います。その種の試練や葛藤は、生涯続くのだと思います。そうではないでしょうか。

欲望や誘惑、試練や葛藤は、死ぬまで続く。だからこそ、わたしたちは、その戦いから降りることができない。気を抜くことができない。卒業することができないのです。

パウロは「霊の導きに従って歩みなさい」と書いています。ここで「霊」とは何のことでしょうか。続きに「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と書かれているのですから、ここで分かることは、「霊の導き」と「肉の欲望」は明らかに対立的な関係にあるということです。

そのことを、パウロは次にはっきり書いています。 「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」

「自分のしたいと思うことができない」。パウロは、これと同じようなことを、別の手紙の中にも書いています。今日の個所の言葉によく似ている表現が出てくるのは、ローマの信徒への手紙7・18~20です。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もしわたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。

「自分のしたいと思うことができない」とか、「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」とは、どのような状態なのでしょうか。何となく「壊れている」感じがしてきます。正常ではない感じです。

善いことをしたいという願いは、ある。その意志もある。しかし、それを実行することができない。

悪いことをしてはならないという教育を、受けた。その自覚があり、意志もある。それなのに、してはならないことを、ついつい、してしまう。

わたしたちの中に起こる試練や葛藤の様子は、まさにパウロが描き出しているとおりである、とわたしは感じます。パウロは二千年前の人なのです。そのパウロがわたしたちのことをよく知っている。なんでこんなに、この人は、このわたしの今の気持ちを見抜いているのだろうか、と思うほどです。

悪いことを、ついつい、してしまう。続けているうちに、やめられなくなる。ここで、どうやら考えられることは、やはり、わたしたちを悪事へと誘惑するものは、甘くて美味しい味がする、ということではないでしょうか。

しかし、その先は地獄です。底なし沼です。そのことを思い起こさなければなりません。

最近、本当にしつこいのが、電子メールによるいろんな種類の勧誘です。ご存じない方かもおられると思いますので少し説明しますと、わたしのメールアドレスのように、教会のホームページで公開してしまっているようなものは、確実に標的にされます。そのようなメールアドレスを自動的に探し出して集めるソフトがあるのです。

とにかく、いろんな種類の「勧誘」のメールが、毎日・毎日、数十通単位で送りつけられてきます。何を買えだの、何があるだの。女性のふりをして「わたしと付き合ってください」というようなのもあります。

真っ赤なウソです。ありえない。穴に落ちたら、その先は騙しと脅迫の世界です。

しかし、わたしたちには、時として、そのような言葉に甘く美味しい味を感じとってしまう瞬間があるのかもしれない、ということを疑ってみる必要があります。地獄の一歩手前で目が覚める。しかし、そのときは手遅れであった、ということが、ありうるのです。

「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」

ここでパウロが書いている「律法の下にはいません」の意味は、おそらく、「律法主義の束縛の下にはいません」ということです。律法主義は、端的に「罪」なのです。律法主義は、なんら律法そのものに忠実な生き方ではないのです。

むしろ、パウロは、「律法主義」を「肉の欲望を満足させること」へと結びつけています。とくにこの手紙の中でパウロが、「律法主義」の典型であるとして告発しているのは、「ひとが救われるためには、割礼を受けなければならない」とする教えでした。それは、自分の満足のために、自分の正しさを主張するために、しるしや証拠を欲しがっているだけなのだ、と言いたいです。

「しかし、霊に導かれているなら」と、パウロは書いています。「霊の導きに従って歩みなさい」と。この言葉と響きあうのが5・6の御言です。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

外から見えるしるしや証拠がある、ということで満足する生き方が、律法主義であり、割礼を受けることです。しかし、そのようなことは、問題ではない。信仰が問題である。愛が問題である。あなたの心の中にあるものは何か、ということが問題である。

ここで「霊」とは、神の霊、霊なる神、すなわち、聖霊なる神のことです。それ以外のことを考えることはできません。

聖霊なる神の導きが問題である。聖霊があなたがたのうちに注がれ、宿っているとき、あなたの中に信仰があり、愛があり、希望があり、そして喜びがある。そのことが問題である。割礼は問題ではない。これがパウロのメッセージです。

「望む善は行わず、望まない悪を行っている」。この何となく「壊れている」感じ、正常ではない状態にあるとき、わたしたちの心の中に失われているものがある、と思います。それが、じつは信仰であり、愛であり、希望であり、喜びである。

心の中がケバケバしている。霊的に飢え乾いている。イライラしている。すぐ怒る。腹が立つ。破壊衝動が起こる。攻撃的になる。イヤミの一つも口にしたくなる。投げやりになる。すべてを投げ出し、投げ棄てたくなる。生きていくのが嫌になる。まさにそのようなとき、わたしたちは、聖霊なる神の導きに従っていないのです。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」

これは、言うならば、わたしたちを地獄に連れて行く誘惑の一覧表だと思っていただくとよいかと思います。「悪徳表」という呼び名もあります。

ですから、ちょっと試しに味わってみよう、などと思わないほうがよいです。すぐに中毒になります。怖いもの見たさというのも、危険です。怪しげな格好で近づいてきたことに気づいたときには、一目散に逃げるのが、正解です。後ろから追いかけてくるかもしれません。逃げましょう。そのときは逃げてよいし、逃げなければならないのです。

しかし、おそらく、逃げきれないときもあります。この種の欲望が、誰のせいでもなく、自分自身の心の中に起こってきたときです。

わたしたちは、この種の欲望を、心の中に、打ち消しがたく、抱え持ってしまうことがあります。毒の味に魅せられてしまうことがあります。さじ加減とは言いませんが、ある程度までは、お付き合いしなければならないときもあるでしょう。

そういうときには、どうしたらよいのでしょうか。わたしは、いつも思い起こす聖書の御言があります。コロサイの信徒への手紙3・16~17です。このことは、以前にも皆さんにお話ししたことがあります。

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」

キリストの言葉が「豊かに宿るようにしなさい」と言われている、この「しなさい」と言われていることを誰がするのかと言いますと、もちろん、「あなたがた」がするのです。このわたしが、するのです。

肉の欲望、罪への誘惑、毒の味、悪事への絶えざる関心と興味。このようなものが心の中を完全に満たしてしまわないように、別のものを、たくさん、大量に、心の中に入れていくことが必要です。そして、人生には、世の中には、もっと面白いことがある、ということを知る必要があります。

キリストの言葉が面白い。讃美歌が面白い。祈りが面白い!

“聖霊なる神の導き”に従って生きるとは、まさにそのようなことに他なりません。聖書を学び、讃美歌をうたい、祈りをささげる。この三つのことは、わたしたちが教会や家庭で、いつも、いつも、していることです。今日もしています。今もしています。明日もするでしょう。これからずっと、していくのです。

わたしたちの心は、小さい入れ物です。悪いことだけ考えていると、すぐに、それだけで一杯になってしまいます。良いことを考えましょう。

しかし、これは、いわゆる単なる「プラス思考」というようなこととは、違います。内容も次元も全く違います。自分の言葉で、人間の言葉で、自分自身に言い聞かせるのではありません。神の言葉で、キリストの言葉で、このわたしの心を満たすのです。「豊かに宿るようにする」のです。

また、自分ひとりだけだと思うと、誰も知らないうちに、悪いことに手を染めてしまうかもしれません。みんなで聖書を読み、讃美歌をうたい、祈りをささげましょう。教会に通いましょう。わたしのことを心配している仲間がいる。祈ってくれている友達がいる、ということに気づきましょう。

わたしたちが悪事を働いているときには想像力の欠如があるのだと、しばしば言われます。一般的には産んでくれた親や兄弟や親戚のことを忘れていると言うのでしょう。わたしたちの場合は、神さまのことを忘れていると言います。教会の仲間たちのことを忘れていると言うのです。

事実、そのときわたしたちは、聖書の御言を忘れ、讃美の楽しみを忘れ、祈りを忘れているのです。神の国の宴(うたげ)の喜びを、忘れているのです。

毒の味に魅せられてしまわないために、神の恵みを豊かに味わいつくすことが、必要なのです。

(2004年10月31日、松戸小金原教会主日礼拝)