2004年10月24日日曜日

愛によって互いに仕えよ


ガラテヤの信徒への手紙5・13~15

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」

今日の個所で、パウロは、イエス・キリストによって救われた者たちに与えられている自由とはどのようなものであるのか、ということについて書いています。一言すれば、「キリスト者の自由とは何か」ということです。

『キリスト者の自由』というタイトルの有名な書物があります。16世紀ドイツの宗教改革者であり、プロテスタント教会の歴史的創始者ともなりましたマルティン・ルターの書物です。この書物のテーマも、まさに「キリスト者の自由」、つまり、わたしたちキリスト者に与えられている自由とはどのようなものであるのか、ということです。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」とあります。「自由を得るために」と訳されている言葉は、原文では「自由のために」と書いてあるだけです。「を得る」は翻訳上補われた言葉です。

「召し出された」の意味は「呼び出された」です。ちょうど、わたしたちに誰かから電話がかかってくるように、呼び出されること、コールされることです。パウロの言葉を最も単純に直訳しますと、「あなたがたは自由のために呼び出されたのです」となります。

神がわたしたちを呼び出してくださるのは、どのような仕方でか、ということについても、一言だけ申し上げておきます。

神は、わたしたちに声をかけ、わたしたちの名を呼び、わたしたちに使命を与えてくださいます。そのために神がお用いになる手段は、聖霊なる神のみわざ、とくに、神の恵みの手段としての教会の宣教(説教)です。神は、ご自身の御言葉を、イエス・キリストを通して、聖霊において、宣教(説教)という手段を用いて、わたしたちに語りかけてくださるのです。

それならば、わたしたちは、どこから呼び出されるのでしょうか。もちろん、わたしたちがかつて属していたところからです。「ところ」とは、場所・地域・団体・家族・組織・制度・体制などの一切を含む、非常に広い意味です。

そこは、どのようなところだったのでしょうか。もちろん、彼らを、そしてわたしたちを奴隷の軛につないでいたところです。パウロ自身とガラテヤ教会の場合の「奴隷の軛」とは、ユダヤ教的律法主義であった、ということを、これまで学んできました。

パウロ自身は、突然彼の目の前に、幻のうちに現れてくださった、イエス・キリストご自身の呼びかけに応えて、ユダヤ教的律法主義によって彼の心も体もがんじがらめに拘束していたユダヤ教団を捨てて、その束縛としがらみから脱出しました。

ガラテヤ教会の人々も、今度はパウロの熱心な呼びかけに応えて、パウロと同じように、ユダヤ教的律法主義の拘束の中から脱出しました。

イエス・キリストへの信仰が、彼らの人生を根本から変えていきました。そして、それによって、彼らは、全く自由になりました。それは完全なる自由です。ルターも『キリスト者の自由』の冒頭で、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」と述べています(石原謙訳、岩波文庫、1955年、11ページ)。

「ただ」と、パウロは続けています。「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。

ここに出てくる「ただ」(モノン)の意味は、「ただし」とか「しかし」ではありません。「ただひたすら」の「ただ」です。「ただそれだけ」の「ただ」です。「あなたの選ぶべき選択肢、あなたの進むべき道は、ただひたすら、それだけです。ただ一つです」の「ただ」です。オンリーワンという意味です。

ですから、パウロが語っていることは非常に明確です。「自由を得るために召し出されたあなたがたの進むべきただ一つの道は、その自由を"愛によって互いに仕える"という、ただ一つの目的のために用いることだけです」と、パウロは書いているのです。この「ただ」は、あまりぼんやりと読まないほうが良いと思います。パウロは、ふらふらしていません。この「ただ」によって、事柄の白黒を、はっきり付けているのです。

キリスト者に与えられたこの「自由」は、ただひたすら、「愛によって仕えること」のために用いられなければならないのです。自由の目的は、はっきりしているのです。ぼんやりさせてはならないし、ごまかしてはならないのです。

「自由の濫用」などは、もってのほかです。そのようなことのために、イエス・キリストにおいて神が、あなたに自由を与えたのでは決してありません。この点は間違ってはなりません。

これこそがパウロのメッセージです。

言葉を変えて言いますと、父なる神がイエス・キリストにおいて、わたしたちに与えてくださったのは、「罪を犯してもよい自由」などではありえない、ということでもあります。わたしたちに与えられている自由は、そのような自由ではないのです。そのような自由なら、最初から「要りません」と、きっぱりと断らなければならないのです。

全く反対です。神が与えてくださる真の自由とは「罪からの自由」です。「罪を犯さないでも済む自由」です。「罪を犯したい」という思いからの解放です。

まだ明確な犯罪とは言いきれないが実際の犯罪につながる可能性が高い行為のことを、「虞犯(ぐはん)行為」と呼びます。まさにそのような、犯罪行為に至る虞犯行為そのものや、それへの誘惑からの解放です。

あるいはまた、すでに犯した罪そのもの、犯罪行為、再犯行為、罪意識、罪責の念からの解放です。誰かに罪を犯したことへの後悔や、誰かから罪によって傷を受けた悲しみや苦しみからの解放です。

神がわたしたちに与えてくださるのは、そのような意味での「自由」です。「罪を犯すために用いてよい自由」などではありえないのです。

続けて「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」とあります。これは、少し慎重に読みたい言葉です。と言いますのは、パウロはこのように書いていますが、イエスさまは、あれれ、たしか、これとは少し違ったことを言っておられたような気がするからです。

見ていただきたいのは、マタイによる福音書22・34以下の記事です。

ここでイエスさまは、「律法の専門家」と称する人から、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と質問され、「二つの掟」であるとお答えになっています。

イエスさまにとってこの「二つの掟」とは、よく知られていますように、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という第一の掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟との二つです。「隣人を自分のように愛しなさい」という掟は、イエスさまによると「第二の掟」です。つまり、律法全体を要約する掟は、一つではなくて二つである、というのが、イエスさまの教えです。

ところが、パウロのほうは、一つであると言っています。少し大げさにいえば、師弟関係の中に見解の相違がある、という感じです。ですから、この点は、やはり、かなり慎重に考えなければならないところでしょう。

それで、実際に調べてみましたところ、この件に言及している注解書が見つかりました。と言いますか、わたしがいつも参考にしている座右の書が、短い言葉ながら、きちんと説明しておりました(Vgl. P. A. Van Stempvoort, De brief van Paulus aan de Galaten. De Prediking van het nieuwe testament (PNT), G. F. Callenbach N. V. Nijkerk, 1961, p. 174〜175)。

それによると、「律法に教えられているのは、イエス・キリストにおける神による、全世界に対する愛である」と言われています。その意味は、おそらく次のようなことです。

わたしたちに求められているのは、「神に対する愛」である・・・もちろん、そのとおりです。


しかし、わたしたちが愛すべき神とイエス・キリスト御自身が愛しておられるのは、わたしたちが生きているこの世界全体と、その中で生きているわたしたち自身である、ということです。イエス・キリストは、御自身よりも、そして父なる神よりも、この世界とわたしたち人間を愛しておられるのです。

わたしたちが向けるべき視線は、「神に対して」である・・・もちろん、そのとおりです。

しかし、わたしたちが見つめるべき神とイエス・キリスト御自身のまなざしは、「この世界と人類に対して」向けられている、ということです。イエス・キリストは、御自身よりも、そして父なる神よりも、この世界とわたしたち人間を見つめておられるのです。

神がわたしたちを愛してくださいます。そして、わたしたちは、その神を愛さなければなりません。しかし、「神を愛する」とは「神に従うこと」でもあります。そして、神に従うということは、神が熱いまなざしをもって見つめ、愛してくださっているこの世界と人類を、(神と共に)愛することでもあるのです。

「律法の全体は・・・隣人愛の戒めというこの一句において成就され、遂行され、全うされるのです。ローマの信徒への手紙13・8に『人を愛する者は、律法を全うしているのです』と書かれているとおりです。ここで考えられることは、いずれにせよ、隣人への愛は、神への愛から生み出されるものである、ということです」(ibid. p. 175)。

ですから、わたしたちは、次のようにも語ることができます。

わたしたちは、神の栄光を現わし、永遠に神を喜ばなければなりません。しかし、神は、わたしたちを神御自身の栄光によって輝かせてくださり、わたしたちの存在を永遠に喜んでくださるのです。神の栄光の輝きがわたしたち自身の輝きとなり、わたしたちの輝きが隣人と世界を輝かせる光となるのです。

わたしたちのうちに時々起こるのは、「わたしは、神を愛することはできる。しかし、人間を愛することはできない」という思いです。

イエスさまの言われる「第一の掟」のほうは守ることができる。しかし、「第二の掟」は守ることができない、という思いです。

宗教的熱心はある。しかし、この世の事柄には関心を持つことができない、という思いです。

神との純粋で霊的な交わりは愛する。しかし、教会や社会の中での人間同士の“人間的な”お付き合いは、面倒くさいし、わずらわしいので、まっぴらごめんです、という思いです。

これは、わたしたちにとっては大きく強い誘惑になりうるのです。

このような思いは、とくに、教会の中で争いやいざこざが起こるときに起こりやすいものです。しかし、これは少し厳しい言い方ですが、悪い意味での律法主義の一種です。たとえば、パウロがかつて属していたユダヤ教的律法主義、とくにファリサイ派のグループの中にはこのような傾向があった、ということができます。

「神を愛すること」は大切です。しかし、一方的な宗教的熱心が「人間嫌い」の傾向をもたらすことがありうるのです。律法主義(りっぽうしゅぎ)とは、言ってみれば、一方主義(いっぽうしゅぎ)なのです。

このように考えてきますと、ここでパウロが「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟だけを強調して取り上げている意図は、このような過ちに陥ることを防ぎたいということではないか、と思われてなりません。

「だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」とあります。教会の中で、互いに愛し合い、仕え合うことをせずに、それどころか、互いにかみ合い、共食いし合うことがありえます。教会も人間の集まりですから、争いが起こるのを避けることはできません。悲しいことですが、これが現実です。

そのことを、パウロはよく知っています。よく知りながら、あえて、「隣人を愛しなさい」という人間関係の掟を強調しているのです。

この文脈で持ち出すと、「何があったのか?」と思われるかもしれませんが、先週の火曜日から金曜日までの四日間、日本キリスト改革派教会の第59回定期大会が行われました。本教会を代表して、佐藤長老とわたしが出席しました。

今年の定期大会は、比較的穏やかで、落ち着いた会議となりました。しかし、当然のことながら、異なる意見が激しくぶつかり合う場面もありました。毎度のことながら、本当に疲れる会議でした。

しかし、まさか、けんかするために、教会が存在するわけではありません。わたしたちが教会に集まっている目的は、互いに愛し合うためです。互いに祈り合い、仕え合うためです。お互いを傷つけあうためではありません。

パウロの心の中に、あなたがたは、イエス・キリストへの信仰によって、せっかく律法主義という「奴隷の軛」から自由にされ、喜びに満ちた新しい人生を始めることができたのだから、もうけんかはやめにしましょう、仲良くしましょう、という思いがあったに違いありません。

「互いに滅ぼされないように注意しなさい」。このパウロの忠告に、わたしたちは、素直に耳を傾けるべきです。

(2004年10月24日、松戸小金原教会主日礼拝)