2004年10月17日日曜日
本当の悩みを知る ~子育て、家庭、職業、隣人愛の問題にもふれて~
マタイによる福音書9・35~10・15
本日は特別伝道集会です。大勢の方々にお集まりいただきましたことを、心から感謝しております。
今朝、皆さんに開いていただきました聖書の個所は、マタイによる福音書9・35〜10・15です。今日はこの個所を、皆さんと一緒に学んで行きたいと願っております。
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
これは、わたしたちの救い主イエス・キリストの活動記録の一部です。イエスさまが、いろんな町、いろんな村を、残らず歩き回ってくださったのです。そのとき、イエスさまは、何をなさったのか。大きく分けて二つあります。
イエスさまの仕事の第一は、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」と書かれていることです。これは、要するに、今ここでわたしが行っている「説教」という仕事です。「会堂で教え」とあります。ユダヤ人の安息日は、土曜日です。土曜日ごとに「会堂」に集まって礼拝が行われます。そこで説教が行われます。イエスさまは、いろんな町や村の会堂で、聖書に基づく説教をしてくださったのです。
イエスさまの仕事の第二は、「ありとあらゆる病いや患いをいやされた」と書かれていることです。「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とも書かれています。ここに「いやすこと」と「憐れむこと」という二つが書かれています。しかし、この二つは、少なくとも当時は、それほど違うことではなかったと思われます。この点は、もう少し説明が必要でしょう。
今の時代に「いやすこと」といえば、「病院の医師が治療によって患者の病気を治すこと」を意味します。「憐れむこと」とは、何でしょうか。今日の個所に書かれている元々の意味は、「同情すること」です。シンパシーを感じること、同情することです。それが、とくに宗教的な文脈では「憐れみ」という意味になります。
しかし、イエスさまの時代は、今ほどに専門分化されていたわけではありません。医者は医者、宗教家は宗教家の領分を守らなければならないというのは、ごく最近の話です。今の日本でも、田舎のほうに行けば、スポーツ用品店に大根やキャベツが売っていたりします。一人の人が何でもしなければならないということが、ありうるのです。
イエスさまの時代において、またイエスさまご自身において、「いやすこと」と「憐れむこと」の二つは、結局のところ、人の苦しみを和らげ、取り去るという点で共通する、一つの課題であった、と言えるのです。
このような働きを、教会は「牧会」と呼んできました。これはドイツ語のゼーレゾルゲの翻訳として使われてきました。ゼーレゾルゲとは「魂の配慮」という意味です。それが「牧会」です。イエスさまの仕事の第二の要素は「牧会」である、ということです。
この二つのわざがイエスさまの主な仕事でありました。そして、この二つのわざが同時に等しく重んじられるところに、イエスさまのみわざの本領が発揮されました。
イエスさまは「説教」だけをされていたのではありません。"魂の配慮"という意味での「牧会」をも、なさっていたのです。
この点は、わたしたちが、教会の存在理由について、また、牧師という人間の存在理由について考えるときに重要です。
わたしは、牧師という仕事を始めて14年目になります。その中で、時々、わたしは本当に誤解されている、と感じることがあります。
つい最近も、ありました。これは、教会の何人かの方々には、すでにお話ししたことです。
わたしは今年、小学校の父兄の立場で、松戸市の少年補導員の一人に加わることになりました。その活動をしていたときです。補導員のひとりの方が、「関口さんは、日曜日以外は、仕事をしておられないんですよねえ」と言われました。
わたしは、ただ笑うしかありませんでした。少しくらいの説明では、分かってもらえそうにありませんでした。「あはは、まあ、そのようなものです」と答えておきました。それ以上は言いませんでした。
でも、教会の皆さんは、分かってくださっています。牧師も結構忙しい、と。どこで何をしているのかは、よく分からないところもあるのだけれど、でも、何かものすごく忙しくしているようでもある、と。
そのような、まさに「何だ」と聞かれても「これだ」とはっきり答えるのが難しいような、微妙で・複雑で・デリケートな事柄についての配慮、まさに「魂の配慮」を行うことこそが牧師の仕事である、と申し上げることができます。ある人びとにとっては、たしかに、不可解で・得体の知れない存在かもしれません。
しかし、この点においては、イエスさまも、そうであった、と申し上げたいわけです。イエスさまは、二千年前のユダヤで働かれた、ひとりの牧師さんだったのです。そのように理解することができるのです。
もう一つ、牧師という仕事をしていて、事あるごとに、かならず質問されることがあります。「牧師さんは、どのようにして生活しているのですか」。もちろん、どのようにして稼いでいるのか、という質問です。この質問をなさる方の顔は、どなたも興味津々です。
そのような質問を受けるたびに、イエスさまはどうだったのか、を考えさせられます。イエスさまは、どのようにして生活しておられたのでしょうか。
じつは、そのあたりは、聖書には、あまりはっきりとは書かれておりません。しかし、間接的に分かることがあります。先ほどお読みしました個所の後半部分に、イエスさまが弟子たちに命じておられる内容が、それです。
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つ時まで、その人のもとにとどまりなさい。」
イエスさまの弟子として働く者たちは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい、ということです。このように言われるイエスさまご自身も、当然、同じように生きられたに違いないのです。
しかし、その代わり、というのは少し語弊があるかもしれませんが、イエスさまご自身も、イエスさまの弟子たちも、その仕事と生活を経済的に支援してもらえる人々を探し、その人びとに助けてもらっていたのです。
この点は、なかなか分かってもらえないところです。わたしは、今年3月までの13年間は、おもに田舎の教会で働いておりました。その中で時々困ってしまうことがありました。
牧師館には、教会の方々だけではなく、一般の方々が、突然「相談したいことがあります」と訪ねてこられることがあります。そして、話を聞くと、その帰りがけに、お金が入った封筒を渡され、「話を聞いていただいたお礼です」と言われるのです。「いただけません」と丁重にお断りするのですが、必ず押し問答になり、無理やり置いて行かれるのです。そういうものだ、と固く信じておられるのかもしれません。
しかし、これは本当に困ることです。「ただで与えなさい」というのがイエスさまの命令だからです。
ただし、牧師たちは、まさか、かすみを食べて生きているわけではありません。教会が十分な生活費を用意してくださいます。食べ物や着る物に困ったことは一度もありません。ですから、どうか皆さんには、間違っても、そのような封筒を持って来られないように、お願いいたします。
なぜお願いするか、です。大げさでも何でもなく、牧師というわたしたちの仕事の本質ないし根幹にかかわる事柄だからです。まさに、この「ただで与える」という点が貫かれているかどうかということが、教会と牧師の存在理由そのものにかかわっているからです。
考えてみていただきたいのです。おそらく今ここに集まっているわたしたちの多くが、かつてそうだったのではないでしょうか。初めて教会を訪ねようと思い立ったとき、また牧師に相談を持ちかけようと考えたときのわたしたちは、どんな状態だったか、です。
もちろん、いろんなケースがあるでしょう。しかし、多くの場合、多くの人々は、そのとき、すべてに行き詰っているのです。まさに「万策尽きた」ときに、ひとは教会を訪ね、牧師を訪ねるのです。神を求め、宗教を求めるのです。
今日の聖書の個所の全体を見渡していただきますと、ここで分かることは、イエスさまが十二人の弟子たちをお選びになり、世の人びとを助けるために派遣された最も直接的な理由は何であったか、ということです。
それは、先ほども読みましたが、「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9・36)というこの点です。ひとえに、この点です!
まさにイエスさまは、「弱り果て、打ちひしがれている群集」に対して深く同情されたゆえに、彼らを何とかして助けるために、十二人の弟子たちを派遣されたのです。
ですから、逆に言えば、もしそこにそのような「弱り果て、打ちひしがれている群集」がいなかったとしたら、イエスさまが弟子たちを派遣する理由も無かった、ということになります。
しかし、実際には、そういう人々は、たしかにいました。そして、もちろん、今でもいます。たくさんいます。わたしたちの身近なところに、あふれかえっています。いなかったとしたら、などというような仮定の話は、全く意味の無い空想にすぎません。
そして、そのような人々を助けるために、イエスさまは、かつて弟子たちを派遣されましたし、今も派遣され続けているのです。そして、教会と牧師は、その人々を助けるために、ただで与えること、そしてこのわたしの命をかけてすべてを与えなければならないのです。与えなければならないのであって、奪ってはならないのです。
気になることがあります。それは、先ほどの9・36にある「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て」という一句です。しかし、これは、考えてみれば非常におかしいことです。困ったことです。なぜなら、その直ぐ前に「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え」と書いてあるからです。
なぜおかしいのか。なぜ困ったことなのか。それは、この個所を読む限り、イエスさまがご覧になった「弱り果て、打ちひしがれている群衆」が住んでいた町や村には「会堂」が存在した、ということが、はっきりと書かれているからです。
この「会堂」ということで、単なる宗教的な施設や建物だけを想像するのは、おそらく間違っています。少なくともその建物の中に、そこで働く宗教家たちもいたのです。当時のユダヤ教の律法学者、祭司長、長老たちは、会堂を中心に活動をしていました。その人々の宗教活動そのものが「会堂」という言葉に含まれているのです。
ということは、何を意味するのか。イエスさまがご覧になった「弱り果て、打ちひしがれている群集」には「飼い主」であるべき人びとがいた、ということです。「飼い主」は、存在しなかったのではなく、存在したのです。それなのに、彼らは「飼い主のいない羊のようだ」とイエスさまはご覧になったのです。
これは明らかに、当時の宗教家たちに対する激しい批判の意味が込められています。はっきり言ってしまえば、会堂は、そして会堂の住人たちは何の役にも立っていないではないか、ということです。「弱り果てて、打ちひしがれている」人々の助けになっていないではないか。彼らの霊的なニードに応えていないではないか、ということです。これはわたしたち教会に対する厳しい問いかけでもあります。
そして、ここでもう一つ考えられることは、このときイエスさまは、まさにそのいわば「役立たずな」会堂と宗教家たちの代わりに、十二人の「役に立つ」弟子たちをお選びになり、派遣されたに違いないのだ、ということです。
そして、とくに注目すべきことは先ほどの件です。「ただで与えなさい」という問題です。
考えられることは、当時の宗教家たちが、宗教を悪い意味での商売道具とし、私利私欲を求めることに熱心であり、目の前で困っている人びとを助け起こすことには少しも関心をもっていなかったのではないか、ということです。もしそうだとするならば、「ただで与えなさい」というイエスさまの命令には、当時の堕落した会堂と宗教家たちへの痛烈な批判が含まれていた、と考えることができるのです。
そして、もしそれが真実なら、ここにこそ、人びとの「本当の悩み」もあった、ということを考えざるをえません。
たとえば、子育てに行き詰まり、家庭生活や職業に行き詰まり、そして人生そのものに行き詰まってしまった人びとがいる。そして、いわば最後の最後に、教会に行く。しかし、そのとき、教会が役に立たない。宗教が役に立たないと感じる。そのときには完全に絶望するしかありません。そのとき、ひとは、本当の意味で行き場を失ってしまうのです。
「本当の悩み」とは、最後の最後に、心から信頼して相談できる相手がいない、ということではないでしょうか。助けを求めた人を信頼して相談したとき、与えてくれるどころか、奪われた。そのとき、ひとは、心の底から「神に見棄てられた」と感じるのです。
しかし、反対のことも言えます。もし「本当に役に立つ人々」が、助けを求めている人々に「ただで与える」ことを始めるならば、あるいは、「ただで与える、本当に役に立つ人々」がこの世界の中に増えていくならば、この世界全体が、真によきものへと変わっていくでしょう。
教会とは、地上において、そのことを追求する団体です。わたしたちは、まさにこの「本当に役に立つもの」になりたい。そして、「ただで与えるもの」になりたいのです。それこそがイエスさまが教えてくださった「愛」のかたちである、とわたしたちは信じています。
時間が無くなりました。この続きの部分は、午後の集会の中で、わたしの家内が話してくれると思います。打ち合わせもきちんと出来ております。夫婦で力を合わせて、午前と午後で一つの話になるように準備しましたので、わたしの話は、ここまでにします。
最後に一言だけ申し上げます。
困ったときには、教会に来てください。牧師館を訪ねてください。そして、何でも相談してください。十分な意味で役に立てないかもしれませんが、できるかぎりのことをさせていただきます。
その際、何も持ってくる必要はありません。とくに、お金の入った封筒は、謹んでお断りいたします。
わたしたちは皆さんの助けになりたいだけです。お役に立ちたいだけです。必要なものは、すべて神さまが満たしてくださるのです。
(2004年10月17日、松戸小金原教会特別伝道礼拝)