2004年10月24日日曜日
励ましの言葉
コロサイの信徒への手紙2・1~5
「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。」
ここに記されているパウロの言葉は、コロサイ教会の信徒たちへの励ましの言葉です。しかし、そのことを語るために、パウロは、このわたし自身があなたがたのために労苦し、闘っているのだ、ということを、あえて言葉にして、相手に伝えようとしているのを見ると、わたしなどは、つい、いろいろと考えさせられてしまいます。
とくに日本では、自分自身の苦労話を大っぴらに語り、わたしがこんなに苦労しているのだから、分かってほしいというような仕方で、相手の義理人情に訴える話し方のことを「浪花節」と呼ぶことがあると思います。たとえ悪気はなくても、何となく押し付けがましい話し方である、と思われてしまいます。
もちろん、こういう話し方でも十分に分かってくれる心優しい人々もいますし、じつは、そういう人のほうが多いのかもしれません。逆に考えて、自分は少しも苦労していないのに、ひとには「がんばれ、がんばれ」と語る人は、ほとんど信用を勝ち取ることができません。
しかし、世間にはいろんな人がいる、ということも事実です。ひとの話を聞く場合にも、冷たい感じの聞き方というのがあります。あなたの苦労がわたしにとって何の関係があるのですか。わたしも苦しいです。苦労話など聞きたくありません、と突き放されてしまうことがあるのです。
しかし、このことは、別の見方をするなら、自分の苦労話を安心して語ることができる相手がいる、というのは、幸いなことである、とも思えます。わたしの苦労話を善意として受けとめてくれる人がいるなら、パウロにとってコロサイ教会の人々は、そのような善意を期待できる、信頼関係のうちにある相手であった、と理解することができるかもしれません。
ところで、パウロは、彼らのために、何の苦労をしている、というのでしょうか。
「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。」
ここでパウロは、あなたがたコロサイ教会の人々とラオディキアにいる人々とが「心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるため」に、わたしは苦労しているのだ、と言っています。
この中で、とくに注目したいのは「理解力」という言葉です。また「キリストを悟る」という点が語られています。ただし、ここでの「悟る」には、以前も申し上げましたように、いわゆる仏教的意味での「悟りを開く」という意味は全くありません。むしろ「学び知ること」です。平たく言えば「勉強すること」です。
あなたがたに豊かな理解力が与えられ、キリストを学び知るために、わたしが苦労しているのだ、というのですから、パウロが苦闘している事柄として、わたしたちにとって最も分かりやすいであろう表現は、聖書に基づく「説教」とその準備である、ということではないでしょうか。
パウロも牧師の一人です。牧師は説教だけをしておればよいわけではありません。少なくとも牧会の仕事があります。しかし、説教もします。原稿も書きます。この点も、前回のこの手紙の学びの中で、すでにお話ししたことです。
そして、説教の準備というのは、意外と思われるのかどうかは分かりませんが、実際にやってみると、これはこれなりに、結構たいへんなことであると思います。
現在神戸改革派神学校で学んでいる浅野正紀神学生が、先週わたしに、一通のメールを送ってくださいました。そのメールに添えられていたのは、神学校で毎週水曜の夜に行われている祈祷会の奨励の原稿でした。「率直なところを批判してください」と書かれていましたので、率直なところの批評を書いて、送り返しました。こんなところで手加減するのは、かえって失礼だと思いましたので、遠慮なく厳しいことも書かせていただきました。
すると、浅野さんは、すぐに、わたしが指摘いたしましたすべての点を徹底的に見直してくださり、全面的に書き直して、また送ってこられました。
こういうことができる人、他人の批判を自発的に求めてこられる人には、間違いなく豊かな成長があります。浅野さんの熱心と謙遜な態度に、心から敬意を表したいと思います。
こういう人を見ていますと、わたしは、つい黙っていられなくなります。
こういうことができないのは、むしろ牧師たちです。自分の説教は素晴らしいと思い込んでいます。そう思い込んでいるかぎり、それ以上の成長は、全く期待できません。わたしは人のことは言えませんが、自分のことはすべて棚に挙げて言いますが、根本的に何か誤解しているのではないか、もう少し真面目に勉強したほうがよいのではないか、と思わされる牧師の説教に出くわすことが、しばしばあるのです。
パウロにとって、説教とは、ひとをして、神の秘められた計画であるキリストを悟らしむる何かです。「神の秘められた計画」とは、神の奥義という意味です。
そして、それは、神のすべての計画そのものを指しています。改革派信仰の表現の中で最も当てはまるのは、「神の聖定」(decrees of God)です。それは、創造者なる神によるこの世界と人類の創造のみわざから始まり、救い主イエス・キリストの十字架と復活による贖いのみわざを通り抜けて、歴史と現在における教会と世界の歩みと、終末におけるそれらの完成のみわざのすべてを含みます。
しかしまた、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と書かれているように、神のすべてのご計画を把握し、かつ正しく理解するための要(かなめ)と鍵は、まさにその神のすべてのご計画の中心に立っておられる救い主イエス・キリストです。
イエス・キリストを抜きにした「聖定」の教理は、単なる運命論・宿命論に陥る危険性があります。キリストが登場しない運命論・宿命論は、キリスト教的な教えにはなりえません。パウロは「巧みな議論にだまされないようにするため」と書いています。それが正しい教えか・誤った教えかを見分けるしるしは、そこにキリストがおられるどうかという点にかかっている、ということです。
説教とは、これらのすべてについて、聖書に基づいて、できるかぎり多くの人々に語り伝える仕事です。これは人が自らの一生をささげて取り組むに価する仕事です。説教だけがそうだと言いたいのではありません。しかし、説教もそうである。たしかにそうである、と語ることは許されるのではないでしょうか。
なんだか今日は、すっかり「浅野さんの話」になってしまいました。しかし、わたしは、いつか浅野さんに直接伝えたいことがあります。あなたの努力と労苦は必ず報われるときが来ます。間違いなく報われるときが来ます。天の神さまが報いてくださるでしょう。教会のみんなが喜んでくださるでしょう、と。
ただし、広い意味での「説教」は、牧師や神学生たちだけの仕事ではありません。「説教」は、長老や日曜学校の先生はもちろんのこと、じつは、すべてのキリスト者が仕えるべき仕事でもあると思います。
「説教」は、結局、わたしたちのこの信仰を、自分の家族や友人に正しく豊かに伝えることができる真実の言葉を探し求めるわざです。ラブレターを書くときのような真剣さと熱心さが必要です。
そして「説教」は、誰よりも、このわたし自身が、喜びと確信をもって、このわたしの信仰を公に告白する行為です。
良い意味で「みんなの宿題」であると、ご理解いただければと、願っております。
(2004年10月24日、松戸小金原教会夕礼拝)