2004年10月27日水曜日
キリストの昇天について
ハイデルベルク信仰問答第18主日
使徒言行録1・6~11
ハイデルベルク信仰問答の第17主日の第46問から第18主日の第49問までに記されている内容は、イエス・キリストの昇天についての教理です。
この教理の意図は、使徒信条に告白されている「主は・・・天に昇り」とはどのような意味であるのか、そしてわたしたちにとってどのような益をもたらすのか、を明らかにすることです。
キリストの昇天についての聖書的証言としては、ハイデルベルク信仰問答が挙げている証拠聖句(マタイ26・64、マルコ16・19、ルカ24・51、使徒1・9)の他に、ヨハネによる福音書14・2~3とコロサイの信徒への手紙3・1~2などを挙げることができます。
「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネによる福音書14・2~3)。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを心に留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(コロサイの信徒への手紙3・1~2)。
そして、ハイデルベルク信仰問答は、「キリストの昇天」ということを、「キリストが、弟子たちの目の前で、地から天に、上げられたということであります。そして、生ける者と死ねる者とを審くために、再び来られる日まで、わたしたちのために、そこに在す、ということであります」と定義しています。
これは、言葉どおりに受け入れる他はありません。地から天へと移動すること、まさに「上にあげられること」、これが昇天です。それ以上でも、それ以下でもありません。
しかし、問題は、「地」とはどこであり、「天」とはどこであるか、ということでしょう。もっとも、「地」のほうは、わたしたちが今生きている物理的・感覚的な世界のことである、ということは、おそらく議論の余地はありません。
むしろ、問題は「天」はどこか、ということです。これについて、ハイデルベルク信仰問答の表現は、非常に慎重なものです。
第46問の答えを見ていただきますと、「生ける者と死ねる者とを審くために、再び来られる日まで、わたしたちのために、そこに在す、ということであります」と書かれています。この中の「そこに在す」の「そこ」が「天」である、ということです。
つまり、「天」とはキリストがおられるところである、と言われているだけです。これが「天とはキリスト論的概念である」と言われる所以です。
また、もう一つ、「天」の所在についてハイデルベルク信仰問答が教えていることは、第49問の答えに「キリストは、天にあって、父の面前で」とある中の「父の面前」ということです。そして第49問の答えと第50問の問いに出てくる「神の右の座」ということです。
つまり、「天」とはキリストと共に父なる神もおられるところである、と言われています。しかし、それ以上のことは語られていない、と言うべきです。
父なる神と御子イエス・キリストがおられるところが「天」である。それならば、聖霊はおられないのか、ということが気になります。もちろん、聖霊もおられると考えるべきです。三位一体の神がおられるところが「天」である、と理解することができます。
しかし、これではまだ、わたしたちの疑問の答えになっていないでしょう。天はどこにあるのか。もし天という場所があるならば、それは、わたしたちが今生きている世界から非常に遠いのか、それとも、近いのか。また、そこは今のわたしたちの現実とは全くかけ離れた別世界なのか、それとも、よく似たような、あるいは全く同じと言いうる場所なのか、というあたりが、わたしたちにとって本当に知りたいことだからです。
この件については、ハイデルベルク信仰問答は、少なくとも今日の個所を見るかぎり、ズバリとした答えをわたしたちに示してくれてはいません。しかし、ヒントはあると思います。第47問の答えです。
「キリストは、真実の人間であり、真実の神であり給います。人性においては、今は、地上には、おられませんが、神性、尊厳、恩恵、霊においては、決して、わたしたちを、離れ給うことはありません」。
先ほどわたしは、「天」とはキリストがおられるところである、と申しました。そのキリストが、「今は・・・神性、尊厳、恩恵、霊においては、決して、わたしたちを離れ給うことはありません」と言われているのですから、そのキリストがおられる天とわたしたちが今生きているこの地上の世界との「距離は無い」と言われている、と考えてよいのです。
つまり、「天」と「地」は、ピッタリくっついている、ということです。両者は、いわば全くふれあっている。遠いどころか、ものすごく近いところにある、ということです。このように語ることが、わたしたちの教会において許されているのです。
しかし、ハイデルベルク信仰問答には、もう一つのメッセージがあります。第47問の答えにある、キリストは「人性においては、今は、地上には、おられません」という点です。これは、明らかに、人間の姿をとられたキリストは、現時点においては、地上においては"不在"である、というメッセージです。
この二つのメッセージ、つまりキリストのおられる天は、わたしたちの生きているこの地上の世界と全くふれあうほどに近い。しかし、キリストは、今は地上にはおられません、というこの二つのメッセージは、わたしたちにとって何を意味するのか、ということを、よくよく考える必要がある、と思われます。
ただし、このことについて、わたし自身は、教理そのものの説明よりも、まずは聖書の御言を読むことが大切であると考えています。
そこで開いていただきたいのが使徒言行録1・6~11です。これは、わたしが今年4月に松戸小金原教会に赴任してきてすぐに、イースター礼拝の次の週に、説教のテキストとして取り上げた個所ですので、記憶してくださっている方もおられるかもしれません。
そのとき、わたしが強調しましたのは、最後の11節に出てくる天使の言葉です。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
この天使たちは、ちょっと腹を立てているようです。イエスさまが天に上げられていく様子を下から見上げながら、ボーっと突っ立っている弟子たちの姿が、なんとも哀れで・頼りなく・悲しげに見えたので、天使たちを通して神さまご自身が、彼らのことを厳しく叱りつけているような感じさえするのです。
「おいおい、皆さん、天を見上げている場合ですか。見るところが違うでしょう。見なければならないのは、上ではなく、前ではありませんか。あなたがたの希望は上にあるのではなく、前にあるのですから。イエスさまは、またおいでになるのですから。この地上の世界にもう一度来てくださるのですから。上なんか見上げてボーっとしている場合ではありません。しっかりしてください!」
わたしはこの個所を読むたびに、こういう声が聞こえてくるのです。
そして、使徒言行録は、このあと、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を詳しく描いていきます。聖霊が弟子たちの上に注がれて、弟子たち一人一人が力を受けて、自らの命をささげ、地の果てまで自らの足で歩いてイエス・キリストの福音を宣べ伝える、勇敢な伝道者となっていったことを描くのです。
そして、その伝道者たちの旅の中で、事あるたびに、何度も繰り返し、登場するのは、幻の中で御声をかけてくださるイエスさまご自身です。
姿は見えません。しかし、御声が聞こえてくるのです。こちらに行け。あちらに行くな。こうしろ、ああしろ、と(使徒26・15以下など)。また、弱り果てているときに、「勇気を出せ」と励ましの言葉をかけてくださるのです(使徒23・11など)。
なかでも興味深いのは、幻の中に現れてくださったイエスさまが、使徒パウロに対して「自分の足で立て」と言われた御言です(使徒言行録26・16)。
これと響きあうのが、イエスさまの昇天を見ていたあの弟子たちに語られた「なぜ天を見上げて立っているのか」という、ややお叱りの言葉です。
イエスさまの御言が今も響いてきます。
「上ではなく、前を見なさい。そして、自分の足で立ちなさい。あなた自身が伝道しなさい。わたしはいつもあなたと共にいるのだから。あなたは独りではないのだから。しかし、今はわたしは天にいて、あなたがたと一緒にはいない。あなたが伝道し、あなたが教会に信仰の仲間を集めなさい。そして、この世界を神の世界にしなさい。それらは、あなたの仕事です。人任せにしてはなりません」。
さて、ハイデルベルク信仰問答第49問には、キリストの昇天がわたしたちにもたらす益は何かということが書かれています。しかし、これは、なかなか難解であると思います。
ただ、とくに、第二の点に記されていることは、今日的にも大きな意味を持つ非常に大事なメッセージを含んでいると思います。
第二の点には、キリストの昇天とは、言ってみれば、神の御子キリストが、この地上においてまとわれた、わたしたちと同じ、人間の肉体そのものを、天に持ち上がってくださった、ということを意味する、と言われています。そして、だからこそ、そのことがわたしたち自身が天に迎え入れられるときの「確かな担保」である、と言っています。
このことは、キリスト教信仰の根本にかかわる非常に大事な点です。
と言いますのは、日本の中で(日本だけではありませんが)、「天国に行く」という言葉が語られるとき思い描かれることは、「地上の肉体との別れ」ということでしょう。
しかし、そうなりますと、天国というのは、霊だけがあって、肉体がないところとして描かれざるをえません。それは、まるで、影も形も無い、純粋で無色透明で、結局そこには何も無い、真空の世界であるかのようです!
ところが、そのようなことは、聖書のどこにも書かれていません。それどころか、聖書に描かれている「天」は、たとえば、「神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治する」(ヨハネの黙示録22・5)とあるように、きわめて色鮮やかで・にぎやかで・物質的で・政治的なイメージを持っているのです!
キリスト教信仰の根本は、復活にあるのです。すべての人は一度は必ず死にますが、その後再び、体ごとよみがえります。
そして、イエス・キリストへの信仰に生きた者たちは、そのまま天に召されます。そのようにして、わたしたちは、体をもって復活し、永遠の喜びのうちに生き続けることを、待ち望んでよいのです。
この希望には「担保」がある、と言われています。とても頼もしい話ではありませんか!
(2004年10月27日、松戸小金原教会水曜礼拝)