2012年2月12日日曜日

なぜ愛が最も大いなるものなのか


コリントの信徒への手紙一13・13

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」

東関東中会伝道委員会が主催の「平和の集い」は、今年で四回目となりました。毎年恒例の行事となりましたことを、とてもうれしく思っています。今日の集いが祝福に満ちたものになりますようにと、お祈りしています。

さて、開会礼拝で開かせていただきましたのは、皆さんがよくご存じのみことばです。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」。このように使徒パウロが書きました。パウロはこの三つを、わたしたちの神がキリスト者に与えてくださる多くの「霊的な賜物」の中で特に大切なものであると述べています。

他の「霊的な賜物」は大切ではないと言いたいのではありません。この手紙の中でパウロが「霊的な賜物」と呼んでいるものの中には、たとえば「知恵の賜物」があり、「知識の言葉」があり、「病気をいやす力」があります。あるいは「奇跡を行う力」であるとか、「預言する力」であるとか、「霊を見分ける力」などです。

そのような賜物が大切でないはずがありません。一つだけ取り上げますと「預言」とは今のわたしたちの教会で言うところの「説教」のことです。神のみことばを預かって人に向かって語ることです。「説教」は教会の中できわめて重要なものであると、わたしたちは繰り返し教えられてきました。

しかし、パウロが書いているとおりに言えば、「預言」よりも、つまり説教よりも「愛」が重要であるという話になります。

なぜ説教よりも愛が重要なのでしょうか。パウロは「愛は決して滅びない」と断言しています。しかし「預言は廃れる」と言っています。つまり、わたしたちの説教は「廃れる」ものなのです。なぜなら、「預言は一部分だから」です。「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れる」のです。

これは終末論的な話です。終末の日が来ると、神と人間は「顔と顔とを合わせて見る」関係になるのです。そのときは神御自身が直接わたしたち人間にみことばを語ってくださいますので、説教者は用済みになるのです。終末には説教者の仕事は無くなるのです。牧師たちは全員引退しなければならないのです。

しかし、終末の日を迎えても残るものがある。それが「信仰」であり、「希望」であり、「愛」であると言われているのです。

ところがパウロは、そこで話を終わりにしません。この三つを比較した上で、順位をつけています。その第一位が「愛」であると言っています。信仰よりも、希望よりも、愛が偉大であると言っているのです。

これはやはり驚くべきことばです。わたしたちは信仰によって救われると教えられています。「信仰のみ」は宗教改革の三大原理の一つです。その「信仰」よりも偉大なものがあると言われると、びっくりしてしまうでしょう。今日の集会のテーマは「信教の自由」です。その集会の開会礼拝の説教者は「信仰こそが最も重要である」と言わなければならないのかもしれません。

しかし、わたしたちはパウロのことばを重んじるべきです。「最も大いなるものは愛である」と書いてあるとおりに受け入れるべきです。

それでは、なぜ愛は最も大いなるものなのでしょうか。これが今日、皆さんに考えていただきたい問題です。パウロは理由を書いていません。そうであると、ただ断言しているだけです。ですから、わたしたちは、その理由をわたしたちの頭でよく考えてみなければなりません。

皆さんは、それぞれの教会でこの問題の答えを聞いておられるでしょうか。なぜ愛は最も大いなるものなのでしょうか。残念ながら、私はどうも想像力に乏しい者であることが分かりました。自分の頭で考えても、その答えを見つけることができませんでした。そこで一つの解説を頼りにしました。それを読んで、なるほど、そういうことかと、納得しました。

その解説によりますと、信仰と希望は人間が持つものです。神御自身が「信仰を持つ」ということはありません。神御自身が「希望を持つ」こともありません。信仰も、また希望もわたしたちが持つものです。わたしたちが、このわたしが信じるのです。わたしたちが、このわたしが願い、望み、祈るのです。

しかし、愛は違うというのです。「愛は神のものである。愛は神が行ってくださることである。ここに違いがある」と解説されていました。

別の言い方をすれば、愛の出発点は神御自身であるということです。わたしたちが神を愛するよりも先に、神がわたしたちを愛してくださったのです。しかし、だからと言ってわたしたちはだれも愛さなくてよいというわけではありません。神が愛してくだされば人間は愛さなくてもよいということではありません。神がイエス・キリストにおいてわたしたちを愛してくださったように、わたしたちも神と隣人を愛さなければならないのです。

また、その解説には、もう一つのことが記されていました。「わたしたちが誰かを愛するとき、神に似た者になるのである」。その意味は、わたしたちが神を愛し、隣人を愛している姿は、神がわたしたちを愛してくださる姿に似ているということです。そのときわたしたちは、神に最も近づくのです。「この点こそが、パウロが信仰よりも希望よりも愛が偉大であると述べている理由である」。私はこの解説で納得できましたので、皆さんにも紹介させていただきます。

わたしたちが教会でいつも教えられていることは、神と隣人を愛しなさいということです。しかし問題は、わたしたちは神と隣人をどのように愛したらよいのかということでしょう。イエスさまのお答えを、皆さんはよくご存じです。「わたしの隣人とはだれですか」と質問してきた人に対してイエスさまがお話しになった「善いサマリア人のたとえ」(ルカによる福音書10章)を思い出してください。

「善いサマリア人」は、おいはぎに襲われて半殺しにされたまま倒れていた人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに載せ、宿屋に連れて行って解放し、翌日になるとデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡し、「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言いました。愛とはこのようなものであるとイエスさまがお話しになりました。

倒れていたその人を見過ごした祭司も、レビ人も、イエスさまにとっては愛が足りない人々でした。彼らがどれほど信仰深い人たちであったとしても、愛がないような信仰は空しいものであるということをはっきりお示しになりました。

イエスさまがお教えになった愛のあり方は、どう考えても、キリスト者同士の間だけで完結するものではありません。信仰が違う人のことは愛さなくてもよいという考えは、イエスさまにはありません。愛はもっと広いものです。教会の枠を超えていくものです。

わたしたちが神と隣人を愛しているとき、そのわたしたちの姿は神に似ているのです。

教会の対社会的活動も、神の愛の模範に従っていくことが大切です。

(2012年2月11日、第4回「東関東中会平和の集い」開会礼拝、日本キリスト改革派船橋高根教会)