2011年3月13日日曜日

神の恵みを知る


コリントの信徒への手紙一2・10~16

「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかにしてくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」

わたしたちはいま、大きな悲しみと不安を抱いています。大きな地震で多くの犠牲者が出ました。事態はまだ流動的です。今日は予定していた小会・執事会をとりやめることにしました。それぞれの家庭に帰り、ご家族と共に今の事態を見守り、互いに励まし合っていただきたく願っています。

こういう日、こういうときに、私は何を語ればよいのでしょうか。今日開いていただいている個所にパウロが書いていることは、こうです。「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかにしてくださいました」(10節)。ここで「そのこと」とは、「隠されていた、神秘としての神の知恵」であり、「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」(7節)のことです。それは何なのかといえば、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」(2節)のことです。つまりそれは、救い主イエス・キリストがわたしたち罪人の身代わりに十字架につけられて死んでくださることによって、わたしたちの罪が赦され、救われたこと、つまり、世界の始まる前から神御自身がわたしたちを罪の中から救い出すために計画してくださっていた、救いのみわざのことです。そのようなことを、神はわたしたちに「“霊”によって」、つまり、聖霊をわたしたちの心の中に豊かに注いでくださることによって明らかにしてくださったのだと、パウロは書いています。

ここでパウロが教えていることは、やや否定的な言い方をお許しいただけば、神の御心というものは、神御自身がわたしたちの心を開いてくださるまではわたしたちには隠されているということです。もっとはっきり言えば、そもそも神の御心というものはわたしたちには分からないものだということです。神が何を考えておられるかは人間には分からないものだということです。もっと分かればよいのに、と思わなくはありません。神はなぜわたしたちにさまざまな試練を与えられるのでしょうか。わたしたちはなぜ、これほどまでに辛い思いを味わわなければならないのでしょうか。神がおられるはずなのに。そうであるということをわたしたちは信じているのに。それなのにどうしてと問わない日は無いと思うほど、わたしたちの現実は厳しく険しいものです。

わたしたちにとって、神の御心というものがもっと分かりやすいものであり、だれでも受け入れることができるようなものであるならもっとよいはずなのに、現実はそうではない。そのことをパウロも知っています。パウロは単なる楽観主義者ではありません。この世の現実の厳しさや険しさを熟知している人でもあります。しかしパウロは単なる悲観主義者でもありません。なぜそのことが分かるのか。先ほどは否定的な言い方をしましたが、同じことを肯定的に言いなおせばお分かりいただけることです。そもそも神の御心というものはわたしたちには分からないものだ。神の御心とは、わたしたちに隠されている神の神秘である。それはそのとおりです。神の御子イエス・キリストが十字架の上で死んでくださることがわたしたちの救いであるとか言われても、そういうことは誰にでもすぐに納得できる話であるわけではない。百歩譲ってそのようなこと(イエス・キリストの十字架がわたしたちの救いであること)が事実であるとしても、そのようなことがわたしたちの直面している現実とどういう関係にあるのだろうか。そのように問うたことがない人など一人もいないのだと思います。

しかし、パウロが言おうとしていることは、否定的なことではなく、肯定的なことです。そのようなさっぱり分からないことを、神という方はわたしたちの心の中に聖霊を豊かに注いでくださることによって、なんとかして分からせてくださろうとする方でもあるということです。「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(10~12節)と書かれているとおりです。

しかしそれでは、わたしたちの心の中に聖霊が豊かに注がれるとはもっと具体的に言えばどういうことでしょうか。今お読みした個所に書かれている言葉でいいなおせば、聖霊とは「神の霊」であり、「神からの霊」です。そのような霊を、わたしたちは「人の内にある霊」、あるいは「世の霊」とは別のものとして神から与えられているのだとパウロは書いています。それは、神を信じる者たちの心の中には「神の霊」ないし「神からの霊」と「人の霊」ないし「世の霊」とが共存しているということです。わたしたちの心の中には、神が豊かに注いでくださった「神の霊」としての聖霊があるのです。しかし、それと同時に、神を信じる前から持っていたさまざまな考えや感情や判断としての「人の霊」ないし「世の霊」もあるのです。

それでどうなるのかというと、要するにわたしたちは悩むということです。わたしたちの心の中で「神の霊」と「人の霊」がけんかするのです。両者はたえず葛藤するのです。どれほど厳しく険しい現実を前にしても、わたしたちはその現実を単純な見方や単純な言葉でとらえることでは納得も満足もできない。悩みながら。苦しみながら。しかしそれでもわたしたちは、その現実へときちんと向き合い、とことんまで悩みぬき、苦しみぬくのです。

厳しく険しい出来事が起こったとき、それについて悩むことも葛藤することもなく、単純な見方や単純な言葉でとらえるとは、どういうことか。それはたとえば、乱暴で一方的で一面的な結論を出すことです。「神がおられるのに、なぜこのようなことが起こったのか」と問うことは無い。単純な結論の出し方の一つは「神はいない。この世界に神の救いなどありえない。だからこのような悲惨なことが起こった」というものです。このような貫き方で満足できる人がいるのかどうかは分かりません。しかし、実際には多くの人が神に救いを求めています。それがどのような神なのかは、多くの人々にとっては問題ではないのかもしれません。しかし、それでも、多くの人は祈るはずです。思わず手をあわせ、思わず目をつぶり、「助けてください、お願いします」と祈るのです。神も救いも、そのようなものはどこにも見当たらないではないかと思わず叫びたくなるような悲惨な現実を前にしても、そのときなお人は祈るのです。「神はいない」という単純で乱暴な結論では、人は満足できないのです。

しかしまた、ここで私は考え込んでしまいます。「神はいない」という結論で満足できる人はいないと、いま言ったばかりです。しかしその一方でわたしたちがよく知っているもう一つの事実があるということについても申し上げざるをえません。それは、悲惨な出来事を前にして祈る多くの人たちが、だからといって、その祈りをどなたにささげているのか、どのような方に向かって祈っているのかということまで知りたいということまでは、必ずしも願っているわけではないということです。「助けてください、お願いします」と多くの人は祈ります。その意味で祈りとは普遍的なものです。しかし、その多くの人が、必ずしも「神」の存在そのものに関心があるわけではないのです。今の苦しみから逃れたい、絶望の淵から遠ざかりたいと願う気持ちは真実です。しかし、だれがこのわたしを助けてくださるのか、その「だれ」が神なのか人なのか、あるいは神である場合はどういう神なのかということについてまでは、それほど深く知りたいと願っているわけではないのです。

今申し上げていることを、私はだれかを責めたり批判したりするつもりで言っているのではありません。私自身の心の中にもパウロが書いている意味での「人の内にある霊」ないし「世の霊」があるからです。そういう思いは私にもある。ですから深く共感することができます。よいたとえではないことを知りつつ申せば、お腹がすいている人に必要なものは食事なのだと思います。あるいは、お金に困っている人に必要なものはお金。いまお腹がすいている人を前にして、ごはんをたべていただくことを後回しにして、ただ聖書の教えだけをこんこんと説教することで良い結果を生みだすことは、ほとんどないでしょう。「助けてください、お願いします」と祈っている人を前にして、その人を具体的に助けることをほとんどしないでおいて、「助けてくださるのは神なのだから、まずはその神を勉強してください。まずは聖書とキリスト教を勉強してください。そうすれば、その中で教えられている神があなたを助けてくださるでしょう」と言い出す牧師がいたら、その牧師はおそらく失格者です。助けを求めているその人は「もう結構です。別のところで助けてもらいます」と、必ず言うでしょう。どう考えてもそういうのは順序が逆なのです。

しかし、今日の話も、ここで終わってはならないと思っています。今すぐに具体的な助けを必要としている人を前にして、その人の必要をただちに満たすことが重要であるということに深く共感することが間違いであるとは思いません。しかし、そこでなお、もう一歩先に進んでほしいと願うこと、あなたが思わず手を合わせ、目をつぶって祈りはじめるその方は「神」という方であり、「神」というその方は憐み深い方であり、かつ愛する御子イエス・キリストをわたしたちの救いのために十字架につけてくださったほどにわたしたちとこの世界を心から愛してくださっている方であるということを知っていただきたいと願うことを、躊躇したり遠慮したりすることも、わたしたちには不可能な話であるということを、申し上げなければなりません。

それが信仰なのだと思います。わたしたちはイエスさまが十字架のうえで叫ばれた言葉を知っています。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか」。神の御子が、父なる神の前で、ほとんど絶望に近い言葉を叫ぶ。しかしこれは不信仰ではありません。イエスさまは不信仰の極みに立たれたわけではありません。むしろこれこそ最大の信頼の表現です。イエス・キリストは御自身の体と心に、世界のすべての人々が究極的に悩み問いを引き受けてくださいました。神を信じる者だからこそ問う問いを自ら問うてくださったのです(神を信じない人は「なぜ神は?」とは問いません)。イエスさまがこのように問うてくださったからこそ、わたしたちにはなお生きていく希望があります。このイエスさまがわたしたちと共にいてくださるからです。

(2011年3月13日、松戸小金原教会主日礼拝)