2011年10月23日日曜日
すべての点ですべての人を喜ばせるように
コリントの信徒への手紙一10・23~11・1
「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、『良心』と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の利益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」
今日お読みしました個所に記されていることは、8章から続いてきた「真の神を信じる者たちは偶像に供えられた肉を食べてもよいか」という問いに対するパウロの答えです。結論的なことが今日の個所にまとめられています。
しかし、パウロが出した結論とはどういうものであるかといえば、非常に複雑なものです。「食べてもよいが、しかし、食べてはいけない」。もう何を言っているのか分からない、支離滅裂だと言われても仕方ないような結論です。要するにどっちなんだと問い詰めたくなります。曖昧で、煮え切らない、優柔不断な答え方であると、そうであることを認めざるをえない感じです。
しかし、私自身は、パウロの出した結論に、非常に深く共感し、同意する者です。先週の特別集会の前の週に学んだ個所で「それでも決断は必要である」と語ったばかりです。しかし、わたしたちが現実の場面で下す決断は、実際にはすっきりしたものではないし、あっさりしたものでもないのです。そのようにも言わなくてはなりません。
なぜわたしたちが現実の場面で下す決断が、すっきりしたものでも、あっさりしたものでもないのか、その理由ははっきりしていると思います。それは単純な話です。わたしたちが日々の生活の中で共に生きている仲間は、真の神を信じて生きているキリスト者だけではないということです。
わたしたちの周りにはキリスト者である人もいますが、キリスト者でない人も必ずいます。それは牧師たちも同じです。牧師たちは、教会の人とだけ付き合っているわけではなく、教会以外の人とも必ず付き合っています。かなり厳しい言い方かもしれませんが、信仰を持っていない人とは一切つき合わないと言う牧師がいるとしたら、伝道する気が無い人だと言われても仕方がありません。教会の中だけに引きこもっていて、社会の人々と一切付き合わない牧師は、伝道の仕事を放棄している職務怠慢の罪を犯していると言われても仕方がありません。
もちろん伝道とはまだ信仰を持っていない人々に信仰を持ってもらうように勧め、決断してもらうことです。しかし、その場合に重要なことは、まずは、まだ信仰を持っていない人々との付き合いを始めることです。その人々との接点を得ることです。接点も無い人々に向かって、どうしたら信仰を宣べ伝えることができるのでしょうか。一度も話したこともない、顔を見たこともない、そのような相手との間に、どうしたらコミュニケーションが成立するのでしょうか。それはありえないことです。それとも、わたしたちは、そこに誰もいない空中に向かって説教するのでしょうか。それは空しいことです。
そして、わたしたちがよく知っているもう一つの事実は、だれ一人として、生まれながらに信仰を持っている人はいないということです。信仰は、親から子へ、子から孫へと、血を通して、自動的に遺伝するものではありません。我々自身の言葉と態度を通して、汗と涙を流しながら懸命に伝えなければ決して伝わらないものです。ですから、わたしたちにできる伝道とは、まだ信仰を持っていない人々とまずは知り合いになること、まずは付き合いを始めること、まずは接点を得ることです。それ以外に伝道の可能性はありえないのです。
いま私が申し上げていることをご理解いただけるのであれば、これから申し上げることも、きっとご理解いただけるに違いありません。これから申し上げることは、もしかしたら信仰的確信をもって生きる者たちの心を乱すことになるかもしれません。しかし、そのことを私はパウロから学んできたつもりです。それはこういうことです。もしわたしたちに伝道する気があるならば、わたしたち自身の信仰的確信に基づく言葉や行いをかなりの部分で我慢したり、譲歩したりしなくてはならない面が必ず出てくるということです。それをもし「妥協」という言葉で説明するのを許していただけるなら、わたしたちの信仰生活は、日々妥協の連続であると言わなくてはならない面があるということです。
今日の個所の冒頭にパウロが書いている「すべてのことが許されている」というのは、わたしたちキリスト者の信仰的確信です。わたしたちは真の神を信じる信仰によって、あらゆる迷信や偶像礼拝やタブーから解放されています。何を食べると呪われるとか、どちらの方角に頭を向けて寝ると祟られるとか、どこに入ると汚れるとか、そのようなことは全く起こらないし、ありえません。それは、信仰を持っている人だけがそうだということではなく、信仰を持っていない人も同じです。食べ物の呪いとか方角の祟りとか場所の汚れとか、そのようなものはそもそも存在しないのですから、それが起こるかどうかは、信仰を持っているかどうかに関係ないのです。はっきり言えば、そういうことがあると思い込んでいる人たちは、だれかに騙されているとしか言いようがないのです。
しかし、わたしたちが知っている事実は、次のようなことです。わたしたちが自分の信仰的確信に基づいて、このようなことをいくら語っても、訴えても、全く耳を傾けてくれない人がいるということです。取りつく島が無い人がいるのです。
しかし、それでは、わたしたちはそのような人たちにはもう何もできないのでしょうか。取りつく島が無いのだから、放っておくか距離を置くかしか選択肢はないのでしょうか。ある意味でそのとおりと言わざるをえない面もあります。そのことも事実です。しかし、放っておくことも距離を置くこともできない人がわたしたちの周りには必ずいるということも事実です。それはたとえば家族です。あるいは親しい友人です。わたしたちの人生の中には、「もうこの人とは付き合わない」と言ってしまえば、その後の関係を断ち切ることができるという相手も、いると言えば確かにいます。しかし、みんながみんなそうではありません。たとえ信仰が違い、立場が違うとしても、死ぬまで付き合わなければならない相手も、わたしたちには必ずいるのです。死ぬまで付き合うと言っても、いろんなレベルがあることも事実です。家族ならば、あるいは親しい友人ならば、「付き合う」どころか「愛する」ことが求められているのです。
今日私は二つくらいのことを言っています。第一に言っていることは、伝道とは、まだ神を信じていない人々との付き合いを始めることなしにはありえないということです。第二に言っていることは、神を信じて生きる者たちもまた、まだ神を信じていない人々と付き合うことを避けて通ることができないということです。「付き合うことを避けて通ることができない」どころか、その人々をわたしたちは「愛さなければならない」ということです。
そして、もしそうであるならば、わたしたちの信仰生活は同じ信仰をもって生きている人たちだけが集まって営むものではなく、異なる信仰や宗教や思想を持って生きている人々の中に混ざりながら営むものであるということは明白です。信仰を持たない人々を憎んで、呪って、切って捨てて、軽蔑しながら生きることが、わたしたちの信仰生活ではない。すべて正反対である。このように言わなくてはならないのです。
しかし、私は今日、まだ言っていないことがあります。それは本当は、真っ先に言わなければならないことだったかもしれませんが、あえて後回しにしました。それは、わたしたちは、いろんな信仰や宗教や思想を持って生きている人が複雑怪奇に入り乱れた世界の中にいながら、それでも真の神を信じる信仰を貫いていくことが必要であるし、そうすることが可能であるということです。
それは可能なのです。できます。それは不可能だと言っているのではありません。わたしたちに、それはできることです。ただし、そのときわたしたちのとるべき態度は、パウロが言っているとおりです。「食べてもよいが、しかし、食べてはいけない」。こういう話になっていきます。
どういうことでしょうか。これから申し上げることは、誤解を生むような言葉かもしれませんが、事柄をはっきりさせるために、あえて言います。それは、わたしたちが自分一人でいるときと、あるいは同じ信仰を共有している信仰の仲間たちだけで集まっているときと、そうではない、異なる信仰や宗教や価値観や思想の持ち主たちと一緒にいるときとで、わたしたちの言葉や態度を変えることは許されるということです。はっきりいえば、わたしたちは、教会の中にいるときと、教会の外なる社会にいるときとで、言葉や態度において完璧な首尾一貫性をもっていないことがありうるし、そのような使い分けをすることが許されているのです。
もっとはっきり言っておきましょうか。わたしたちには、表の顔と裏の顔があってもよいし、二つの顔を使い分けてもよいということです。わたしたちが自分の生き方の首尾一貫性を追求することは、わたしたち自身の利益です。しかし、それを追求しすぎることによって、他人の利益を損なうことがありうるのです。わたしたちの信仰的確信やキリスト者としての生き方の首尾一貫性という点を重んじすぎて、教会の外側にいる人たちを傷つけるようなことがあるならば、伝道にとってはマイナスでしかないのです。
「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばせようとしているのですから」(33節)とパウロが書いているときの「すべての人」の中には、キリスト者である人だけでなく、キリスト者でない人も含まれています。そしてわたしたちの伝道はわたしたち自身の自己満足のために行うのではありません。信仰をもって生きることはこれほどまでに自由で喜びに満ちた人生であるということを、そのことをまだ体験していない人々に、何とかして分かっていただき、その人々と共に喜びの人生を始めること、それが伝道なのです。
(2011年10月23日、松戸小金原教会主日礼拝)