2011年4月17日日曜日

使徒の気持ち


コリントの信徒への手紙一4・7~13

「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になってくれていたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」

いま行なっている説教の方法は「連続講解説教」と呼ばれるものですが、このやり方で聖書を前から順々に学んでいくことには、良い面と、困ったなあと思う面とがあります。良い面は、聖書を隈なく学べることです。困ったなあと思う面は、読むのがつらいと感じる、読んでいてなんとなく胸騒ぎがするような個所でも避けて通ることができないことです。先週の説教の最後あたりで少しだけ予告しましたが、この手紙を書いているパウロとこの手紙の宛て先であるコリント教会の人々とのあいだになんらかのトラブルが発生していた、ということが、今日の個所を読みますと分かります。そういう個所であっても避けて通ることができないことが、この学び方の、困ったなあと思う面です。

以前、使徒言行録の学びをしましたときに私が申し上げたことを繰り返しますと、パウロという人はどうもかなり怒りっぽい人だったということは否定できません。ですから、もしかしたらパウロは、本当にただ自分の怒りにまかせて、乱暴な言葉を書きつけてしまっているだけなのかもしれません。しかし、そういうことが仮にあるとしても、それでもなおわたしたちが考えなければならないことは、本当にただパウロが怒りっぽかっただけなのか、それとも、パウロの側の堪忍袋の緒が切れてしまうほどにコリント教会の側に問題があったのか、果たしてそのどちらなのか、というあたりでしょう。

しかし、あらかじめ申し上げておきますが、今日の個所にパウロが書いている内容をわたしたちが正確に理解することは難しいです。はっきり言って、よく分からないことだらけです。分からないと言って済ませるわけには行かないかもしれませんが、とにかく伝わってくることは、コリント教会に対するパウロの怒りと悲しみの気持ちです。そうであるということだけは、はっきりと分かります。しかし、彼が書いている言葉の一字一句の意味はよく分かりません。そのように言わざるをえません。

「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(7節)と記されています。ここで「あなた」とはコリント教会を指していると思われます。しかし、「ほかの者たち」が誰のことかは、よく分かりません。私の読み方では、コリント教会以外の別の教会のことではないように思います。なぜそう思うのかといえば、「あなたをほかの者たちよりも、優れた者とした」と書かれているのは、コリント教会を別の教会よりも優れた教会にした、という意味ではないと思われるからです。

それではどういう意味なのでしょうか。これも私の読み方ですが、ここでパウロが「優れた者」と呼んでいるのは、要するに、キリスト教の信仰を受け入れ、教会に通っている人たちのことだと思われます。つまり、信者のことです。少し後に「あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています」(10節)とも書かれています。「信者は優れている」とか「信者は賢い」とか言いますと、信者でない人たちに怒られてしまうかもしれませんが、そのあたりはお許しください。そのように言っているのは私ではなくてパウロです。

それにまた、信者である人と信者でない人とが全く同じであるということも事実に反することですし、そんなふうに言う必要はないでしょう。わたしたちが教会に通っているのは教会に通っていない人を「わたしたちより劣っている」と見くだすためではありません。そういうことは、あってはならないことです。しかしまた、だからと言って、教会に通っている人と教会に通っていない人とは全く同じであるというようなことも、わざわざ言う必要もないことです。もし全く違いがないのならば、我々が今していることには何の意味があるのかと問わざるをえなくなります。

パウロが言っていることの意味もおそらくその程度のことです。自分よりも下の人を見くだすとか蹴落とすとか、パウロの考え方の中にあったとは思えません。しかし、パウロはその一方で、自分はコリント教会の人々を教えた教師であるということについての強い自覚と自負と責任とを感じているようにも思われます。パウロは彼らの先生なのです。先生が生徒の前で、少し上の立場に立って物を言うことはあるでしょう。「お前たちに聖書の御言葉を教えたのは、この私だよ。お前たちが今いろんなことが分かるようになっているのは、この私が教えたからだよ」と。

しかし、パウロはこんなふうに書いているからといって、コリント教会の人々に恩を売りたいわけではないのだと思います。そういうことではなく、事実を述べているだけです。しかし、その事実をすっかり忘れて、まるで先生から教えられる前から何もかも全部分かっていたかのように振舞ったり、先生をないがしろにしたり、挙句の果てに先生を攻撃したり恨んだりするというような態度を教え子たちが取りはじめるときは、先生としては「おいおい、ちょっと待ってくれよ」と言いたくなる場面も出てくるというような事情は、理解できなくもない話です。

ですから今日の個所は、どうやらそのような話なのです。しかし、まだ分からないことがたくさんあります。「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になってくれていたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」(8節)と書かれています。正確には分からないのは「既に大金持ちになっており」とか「王様になっています」という言葉です。キリスト教を信じれば、大金持ちになったり王様になったりできるのでしょうか。ないとは言えないかもしれませんが、因果関係は必ずしも明白ではありません。

そうだとしたら、これは比喩やたとえ話でしょうか。そうかもしれません。しかし、そうでないかもしれない。分からないです。はっきり比喩だと言えそうなのは「勝手に王様になっている」のほうです。しかし、比喩ではなく事実だったと思われるのは「既に大金持ちになっている」のほうです。なぜそう言えるかといえば、その後に書かれている「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます」(11節)とあることは、パウロにとっては紛れもない事実だったと思われるからです。その前に「わたしたち使徒は」(9節)とありますので、この文脈で「わたしたち」とは明らかに使徒のことです。今でいえば、狭い意味での教師、牧師、伝道者のことです。つまりパウロが言いたいことは、わたしたち使徒は貧しい生活をしてきたし、今も貧しい生活をしているが、あなたたち信者は大金持ちであると言っているのです。これはおそらく事実です。この事実をパウロは比喩で言い換えて、「あなたがたは…わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」と書いているのです。

もし私がいま申し上げたようにこの個所を読むことができるとしたら、これはどうやら献金の問題なのです。これは私が言っていることではなくて、パウロが言っていることですので、どうかお許しください。パウロの言葉だと思って聴いていただかなければ、わたしたちの間柄まで、おかしなことになってしまいます。しかし、これだけははっきりしていると言えそうなことは、狭い意味での教師、牧師、伝道者たちの生活は、もっぱら献金で支えられているということです。しかしパウロは、その点について教会に対して不満を持っているのです。「苦労して自分の手で(伝道以外の別の仕事をして)稼いでいます」と言わなければならないような生活を強いられていることに対して、お前たちの先生が苦労している姿を見てもなんとも思わないのかと苦言を述べているのです。

しかし、それにしても「最後に引き出される死刑囚」(9節)だとか「世界中の見せ物」(同上節)とか「愚か者」(10節)とか「世の屑」(13節)とか「すべてのものの滓」(同上節)だとかは、いくらなんでも言いすぎの感があります。たとえ自分自身のことだとしても「バカ」だの「クズ」だの「カス」だのと言わなくてもいいでしょう。しかし、このような一つ一つの言葉は、パウロが実際に置かれた厳しい立場や彼が味わった過酷な現実を考えてみますと、おそらく比喩ではないと思われるのです。比喩ではなく現実であると思うのです。少なくともパウロの側の実感はそうだったに違いないのです。

しかし、私はもちろん、まさか、今日の話をこんなところで終わらせるわけには行かないと思っています。ここで終わってしまいますと、今日は一体何の話だったのかという気持ちになるでしょう。まるで私が、パウロの言葉を借りて教会の皆さんに何かを言おうとしているかのようです。しかし、そう思われると困ります。何度も言いますが、今しているのは私の話ではなく、パウロの話なのです。

そして私は、実をいえばパウロも、このような一見かなり辛辣なことを書いていながらも、彼の心の中にあったのは喜びであり感謝であったに違いないと思っています。パウロは教師なのです。教え子たちが成長していくことを心から喜ばない教師がいるでしょうか。「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています」(10節)と言われているのは皮肉ではなくて喜びです。教師ならだれでも、自分自身よりも生徒のほうが上になってくれることを喜ぶはずでしょう。手塩にかけて育て上げた教え子たちが、いつまで経っても自分よりもでたらめなままの、自分よりも弱い、自分よりも軽んじられる存在のままであることを喜ぶ教師がいるのでしょうか。いるかもしれませんが、それは良い教師ではなくて悪い教師です。

このパウロの教師としての姿に、イエス・キリストの苦難の姿を重ねることができるように思えてなりません。わたしたちを救うために、わたしたちを幸せにするために、イエス・キリストはこの世のすべての苦難を背負ってくださり、十字架の上で死んでくださったのです。ぼろぼろのイエスさまが、人を助け、人を幸せにし、人を変えたのです。そのことは、パウロにもよく分かっていたのです。

(2011年4月17日、松戸小金原教会主日礼拝)