2005年3月27日日曜日

死に打ち勝つ真の力


コリントの信徒への手紙一15・50~58

イースターおめでとうございます。

今日は、わたしたちの救い主、イエス・キリストのご復活をお祝いする日曜日です。

また今日は、「召天者記念礼拝」としてこの礼拝をささげています。生前教会員だった方々、教会でまたは牧師が葬儀を行った方々、そして教会墓地に埋葬された方々の、それぞれご遺族に、今日の礼拝にお誘いするご案内状をお送りしました。

その方々には、これから毎年ご案内状を差し上げることにしました。今日ご出席くださいましたご遺族の方々は、後ほどご紹介させていただきます。

大切な方を失うこと、その方と地上ではもう二度と会うことができないということは、本当に寂しいことです。つらいことです。心にも、体にも、痛みや苦しみを感じます。

しかし、だからこそ、わたしたちは、その痛みや苦しみのなかから、助け出される必要があります。十分にいやされる必要があります。

亡くなった方々のことなどは早く忘れたほうがよい、という意味ではありません。そんな冷たい話ではありません。忘れる必要はありませんし、忘れるべきでもありません。

ただ、恐れるべきことがあります。大切な人の死は、わたしたちを容易に絶望においやってしまうのです。死の恐怖とは、絶望の恐怖です。希望を失うとき、わたしたちは、生きていく気力を失うのです。

今日は最初に、ある一人の方をご紹介いたします。

その方は、約9年前に、当時まだ二十歳に満たないご家族を病気で失い、その数日後、牧師であるご主人をも失いました。

短い間に、その家族のうちの男性二人を失いました。遺されたのは、二人の娘さんたちだけでした。それは本当につらい体験だったと、ご本人から伺いました。何日間も全く何も手につかず、寝込んでしまった、とも言われました。当然のことだと思います。

しかし、ある朝のことです。「あ、洗濯物がたまっている」ということに気づかれたそうです。それで我に帰られました。わたしには、まだしなければならないことがある、ということに気づかれたのです。

今どき、家事は主婦の仕事であると呼ぶのは、完全に時代遅れです。しかし、その方にとって、家事は、一つの救いになりました。

そうです。わたしたちは、どんなに辛いことがあったとしても、また、どんなに大切な人を失ったとしても、毎日の生活を、淡々と生きていかなければなりません。そのことに気づかなければならないのです。

その方は、牧師のおくさんだったときは、もっぱら家庭内におられました。しかし数年前、国際協力機構(JICA)の試験に合格され、現在ブラジルで、スタッフとして働いておられます。わたしのところにも、この方の活躍の様子を伝えるメールが届きます。本当に素晴らしい働きを続けておられます。

この方を立ち直らせた力は何なのかを、お話ししなければなりません。

わたしたち人間が持っている底力のようなものでしょうか。そういうものが全く無いとは申しません。

しかし、おそらく、ご本人は、そうではありません、とお答えになるでしょう。

そこでこそ、わたしはクリスチャンです、とお答えになるでしょう。

わたしには信仰がある。信仰が、神さまが、わたしを立ち直らせてくれた、とお答えになるでしょう。

キリスト教とは、復活を信じる信仰です。イエス・キリストを信じて生きる者たちには、永遠の命が与えられ、永遠の神の国を受け継ぐ者とされるという信仰です。

大切な人々、ご主人と最愛のご長男は、今も神のみもとで永遠に生きている、という信仰が、この方を立ち直らせました。

事実、キリスト教信仰には、わたしたち人間を、死の恐怖から、絶望の恐怖から、救い出し、立ち直らせてくれる力があります。

先ほど、聖書から、使徒パウロの言葉をお読みしました。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」

ここでパウロが書いている「肉と血」の意味は、一つの解説を参考にして申し上げますと、「今この地上に存在している人間」のことであると言われます。

今この地上に存在している人間は「神の国を受け継ぐことはできない」とは、どういうことでしょうか。わたしたちは、だれひとり、天国に行くことができないのでしょうか。

もちろん、そういう意味ではありません。

ただ、しかし、ここでパウロが言おうとしていることは、今この地上に存在している人間であるところの「肉と血」は、このままで、今のままで、何の変化もなく、自動的に、機械的に、神の国を受け継ぐことができるわけではない、という意味です。

「朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」は、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできません」の言い換えです。朽ちるものは、肉と血です。朽ちないものは、神の国です。

「朽ちない」とは、永遠性を意味します。永遠の神の国です。わたしたちの人生の目標としての天国です。そこに受け入れられ、そこを受け継ぐ者になるためには、わたしたち自身が「朽ちないもの」へとつくり変えられる必要があるのです。

「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今と異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」

パウロは、「神秘」について語っています。「奥義」とも「秘儀」とも訳すことができるミステリーという言葉です。それは、科学的に実証された事実というようなものではありません。むしろ、宗教的真実というべきものです。端的に「信仰」と呼ぶことができる何かです。

「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません」と言われているのは、わたしたちは、いつまでも眠り続けるわけではない、ということです。わたしたちは、「永眠者」にはならないのです。

しかし、それは、すべての人間は死なない、という意味ではありません。いやむしろ、すべての人間は、一度は必ず、たしかに死ぬのです。そして、眠りにつくのです。

ところが、パウロの信仰は、パウロの語る神秘は、それで終わりではない、と語ります。一度はたしかに死に、眠りについた者たちが、しかし、今とは異なる状態へと、すなわち、永遠に朽ちない姿へとつくりかえられるべく、よみがえるのだ、と語るのです。

そして、そのようにして、わたしたちは、永遠に朽ちない神の国を受け継ぐ者になる、というのです。

ここで大切なことは、わたしたちが「今とは異なる状態に変えられる」とは、どのような意味であるか、ということです。

先ほどわたしは、「肉と血」は、このままで、今のままで、何の変化もなく、自動的に、機械的に、神の国を受け継ぐことができるわけではない、と申しました。

その意味は、そこに救いが必要である、ということです。「救われた肉と血」が、神の国を受け継ぐのです。

いまだに救われていないもの、救われていないところを持つものが、完全に救われているものになる、完全な救いを獲得することこそが、真の変化です。「今と異なる状態に変えられること」です。

そして、その救いとは、パウロによると、救い主イエス・キリストに結ばれることです。ただひたすら、そのことです。

そのために、わたしたちは、何をなすべきでしょうか。パウロは、次のように記しています。

「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

ここでパウロが教えている、わたしたちがなすべきことの第一は、「神への感謝」です。

わたしたちの神は、わたしたちの救い主、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせることのできる全能の御力をもって、わたしたちを罪の中から救い出してくださいます。

罪の中からの救い、それこそが、神がわたしたちに与えてくださる尊い賜物であり、また宝物です。

プレゼントを贈ってくださった神への感謝の生活を送ることが、大切です。

パウロがここで教えている、わたしたちがなすべきことの第二は、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励むこと」です。

神からわたしたちに与えていただける尊い賜物であり、宝物であるところの「罪からの救い」は、しかし、このわたし個人の確信として維持し続けることは、難しいものです。

この世の中に生きるとき、じつにさまざまな罪の誘惑が、わたしたち一人一人をめがけて襲いかかって来ます。

だからこそ、わたしたちは、その誘惑に負けることなく、「動かされないようにしっかり立つ」必要があるのです。

しかし、そのためには、どうしたらよいのでしょうか。わたしたちは、ひとりで信仰を維持することは、困難ですし、ほとんど不可能とさえ言えます。

パウロは、この手紙をコリントという町にある「教会」に宛てて書きました。そのため、この手紙の中に出てくる「あなたがた」とか「わたしの愛する兄弟たち」とは常に、第一義的に「教会」のことです。

この点から言うならば、「教会」の人々に対して、ここでパウロが、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」と書いているとき、その場合の「主の業」とは、第一義的に「教会のわざ」のことなのです。

ですから、ここでパウロが勧めていることは、主の業としての教会のわざに励みなさい、という意味であると理解できます。

わたしたちには、「教会」が必要です。

わたしたちの救い、すなわち、永遠に朽ちない神の国を受け継ぐことができる者へと、わたしたち自身がつくり変えていただけるのだ、という確信をもって生きること、としての信仰を、この地上で保ち続けるために、

そして、そのわたしたちが、その信仰に裏打ちされて、死の恐怖、絶望の恐怖から立ち直り、元気に、明るく、力強く、そして自由に生きていくために、

「教会」が必要なのです。

クリスチャンなら、だれでも、死を恐れることはないのか、絶望の恐怖を味わうことはないのか、と言いますと、決してそんなことはありません。そんなはずがありません。

しかし、だからこそ、わたしたちは、毎週日曜日には教会に集まり、恵みの神を賛美し、聖書の御言葉を通して、救い主イエス・キリストにおける神の救いについて繰り返し学び、熱心に祈るのです。

その賛美は、その御言葉の学びは、その祈りは、「無駄にならない」のです。

「こんなことやっていて何になるのか」と、思いたくなることもあるかもしれません。しかし、どうか、教会のわざに、主の業に、失望しないでいただきたいのです。

わたしたちは、死に打ち勝つ真の力を、教会から得るのです。

(2005年3月27日、松戸小金原教会イースター礼拝)