2008年5月11日日曜日
地上の教会の存在理由
コリントの信徒への手紙一6・19~20
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
今日はペンテコステ礼拝です。今から約二千年前、この地上にキリスト教会が誕生したことを記念する日です。今日確認しておきたいことは、この地上に教会が存在する理由は何かということです。教会とは端的に言って何でしょうか。わたしたちが毎週教会に通う理由は何でしょうか。
今日開いていただきました聖書の個所に書かれていますことは、ある一つの文脈の中で語られたものです。その文脈は、問題としてはかなり深刻なことです。事柄の核心は教会に属する人々の中で起こった人間関係上の道徳的な問題です。夫婦や家族の正しい関係を破壊する不貞や不倫の関係が、教会に属する人々の中で起こった。そのことが、教会全体に混乱や不信感をもたらしている。そのことを使徒パウロが、ある面では腹を立てながら、別の面では何とかしてその問題を解決し、教会全体の良好な関係を回復しようと願いつつ、問題の核心部分に踏み込んで厳しい意見を述べているところです。
15節あたりから読んでみますと、そのことがはっきり分かるように書いています。
「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体になる、ということを知らないのですか。『二人は一体となる』と言われています。」
これは二千年前に実在した一つの教会の中で、実際に起こった出来事について書かれていることです。キリスト者の中に娼婦と呼ばれる人々と関係を結んでいる人がいる。それは本当に恥ずかしいことであり、神の前で犯された罪です。その罪がどれくらい重いものであるのかを説明するためにパウロが語っていることは、あなたがたの体は「キリストの体の一部」である、ということです。その体を「娼婦の体の一部」にしてもよいのか、と問うています。あなたがたが娼婦の体の一部になるということは、キリストの体を娼婦の体に結びつけることを意味しているではないか、ということです。
パウロが語っていることは、もちろん、言うまでもなく、あなたがたはそういうことをしてはならない、ということです。それは、あなたがた自身の体を汚すことであり、またキリストの体を汚すことである、ということです。
「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊になるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」。
「あなたがたがキリストの体の一部である」と言われていることは、ただ単に体の一体性ということだけではなく、霊の一体性という点を必ず含みます。また「一部」という点を強調しすぎないほうがよいでしょう。「あなたがたはキリストの体である」と言い切っても構いません。あなたがたは、体も霊もキリストと一つになっている。そのような者なのだから、あなたがたはみだらな行いを避けねばならない、とパウロは語っています。
なぜ今、私はこのような聖書の個所を引き合いに出しているのでしょうか。今日お話ししていますことは、地上の教会が存在する理由は何かということです。
地上の教会は、救い主イエス・キリストを信じる信仰をもって生きている人々の集まりです。しかし、今日の個所でパウロが明らかにしていることは、救い主イエス・キリストを信じる信仰をもって生きるとは、ただ単に、聖書というこの書物を勉強してわたしたちの教養の一部とするとか、キリスト教という歴史的宗教についての知識をもって生きるというようなこととは明らかに次元が異なる事柄であるということです。
私は今申し上げたようなことは無意味だとか無価値だと考えているわけではありません。聖書を勉強することも、キリスト教について知識を得ることも重要なことです。しかし、わたしたちが教会に通う理由、あるいはこの教会のメンバーになる理由、そしてそもそもこの地上に教会が存在する理由は、それだけなのかというと、決してそれだけではないと言わざるをえないのです。
勉強すること、知識を得ることも重要です。しかし、わたしたちの場合は、それだけで終わるわけではなく、強いて言えば、少なくとももう一歩先に進んでいかなければなりません。教会で学んだこと、教会で得た知識を、そのとおり実践するということを、少なくとも始めなければなりません。しかしまた、それだけでもありません。キリスト教の理論を実践するというだけでは、まだ主導権は自分の側に握られています。わたしが勉強したことを、わたしが実践に移す、というだけです。その場合の関心は、どこまで行っても、わたしの生き方という点に限定されています。厳しく言えば、自己中心的です。
しかし今日の個所でパウロが語っていることは、そのようなこととは明らかに違います。あなたがたの体は、キリストの体の一部である。主に結びつく者は、主と一つの霊になる。これはどういうことかというと、誤解を恐れずに言えば、わたしたちは今や、いわば地上を歩くキリスト自身になっているということです。今はわたしたち自身が、地上の教会が、いわばキリストであるということです。
もちろんこのように言うだけでは、非常に大きな誤解を生むでしょう。もう少し事柄を正確にお伝えする必要があるでしょう。わたしたち自身が三位一体の神に属する神の御子キリストであるわけではありません。あるいは、わたしたち自身が十字架の上で全人類の贖いのみわざを行なったわけではありません。その意味では、わたしたち自身はキリストではありません。正確に言えば、わたしたちはキリストの代理者にすぎません。
しかし、たしかに言えることは、わたしたちは今や、地上におけるキリストの代理者であるということです。法律的な書類を書くときに弁護士にお世話になったことがある方にはピンと来る話だと思いますが、本人の代理者である弁護士は、まさに全権を委任されています。代理者の押す印鑑は、本人の押す印鑑と同じ意味や重さを持っています。
わたしたちの存在、地上の教会の存在が、今やいわば地上を歩くキリストであると私が申し上げていることも、ある意味で、そのようなことです。
すぐに理解していただけそうな例から言いますと、たとえば、田舎の教会で牧師などをしていますと、その町の中にもその市の中にも教会が一つしかない、というところが実際にあります。改革派教会ということになりますと、一つの県の中に一つしかないところはたくさんあります。そういうところにおりますと、その教会が、その教会員が、その牧師が、その町の中ではキリストです。その町の人々は、その教会、その教会員、その牧師を見て、「ああ、キリストはこういうものか」と見るのです。あんなのがキリストなら、私はとてもついていけないと見る人もいます。もちろん反対もあります。あのようなキリストなら、わたしは信じる。ついていける。すべてをささげて一生お従いできる。
なぜわたしたちは、みだらな行いをしてはならないのでしょうか。わたしたちの体は、もはや自分自身のものではなく、キリストの体の一部になっているからです。「の一部」という点をことさらに強調する必要はありません。わたしたちは「キリストの体」です。「体」を強調する必要さえありません。「わたしたち自身がキリスト」なのです。わたしたち自身が地上を歩くキリストそのものになっているのです。「どうかわたしたちのことは見ないでください。キリストだけを見てください」という言い訳は通用しないのです。わたしたち自身の立ち居振る舞いのすべてが、キリストの存在を地上に映し出しているのです。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。
ここに、今日お話ししたい最も重要な事柄が語られています。わたしたちの存在、地上の教会の存在が、いわば地上を歩くキリストであると語ることのできる根拠がここに語られています。注目していただきたいのは「あなたがたの体」、すなわち、わたしたちの体は「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」であるという点です。
教会は、救い主イエス・キリストを信じる信仰をもって生きている人々の集まりであると申しました。その教会に集まるわたしたちの体には、聖霊が宿っています。聖霊とは、神御自身です。聖霊がわたしたちの体に宿っているとは、神御自身がわたしたちの体の中に住んでおられるということです。神が住んでおられる場所が神殿です。神殿は遠い外国に立っている歴史的な建物ではありません。今わたしたちが礼拝を行っているこの建物でもありません。わたしたち自身のこの肉体、この存在そのものが聖霊なる神が宿っておられる神殿であると、パウロは語っているのです。
そのような清く貴くあるべきもの(聖霊の神殿としての人間の体)を、わたしたち自身の行いで汚してよいはずがないのです。もちろん実際には、わたしたちは何度も繰り返し罪を犯します。信仰をもって生きている人々も罪を犯します。パウロが今日の聖書の個所で強く批判している相手も、教会に属し、信仰をもって生きている人々です。キリスト者は罪を犯すことはないし、うそをつくことはないし、失敗も落ち度も無い、完璧な人間であるということは、事実ではないし、そのように語ること自体がうそになります。
しかし、だから駄目だと諦めるべきではありません。また、わたしたちは、地上の教会がキリストの代理者であるということを、あまり重苦しく考えすぎる必要もありません。パウロがわたしたちの体を「神殿」にたとえてくれていることは、わたしたちにとっての慰めでもあります。
神殿とは、なんと言ってもやはり、第一義的には、建物のことです。わたしたちが毎日住んでいる自分の家も建物です。建物は、放っておくと、すぐにほこりがたまり、ごみが出てきます。放っておくと、です。きれいにするためには掃除をすればよいのです。
忙しいときには、掃除するひまなどないかもしれません。そういうときは「四角い部屋を丸く掃く」というやり方も許されるかもしれません。しかし、全く放っておくことだけは避ける。そうすることを心がけるだけで、状況は少しずつでも改善していくでしょう。
今お話ししていることは、建物の掃除の話だけではありません。わたしたちの心と体の問題です。わたしたちが犯す罪の問題です。罪のない人間は一人もいない、というのが、聖書の教えです。わたしたちは、ちり一つ無い真空の中に生きているわけではありません。罪も悪も絶えず横行している複雑な社会の中に生きていますので、その影響を全く受けずに生きていくことは難しい面もあります。
しかし、だからこそ掃除をするのです。わたしたちの教会は「改革派教会」と言います。繰り返し聞かれることは「何を改革するのですか」ということです。その答えははっきりしています。わたしたち自身を改革するのです。教会を改革するのです。わたしたち自身、そして教会自身もまた、放っておくと汚れてくるのです。ほこりもごみも溜まってきます。だからこそわたしたちは「常に改革し続ける教会」でなければならないのです。16世紀の宗教改革の目的は、新しい教会を作ることではなく、「教会の大掃除」をすることであったと評する人がいます。そのとおりだと思います。
救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、わたしたちが罪の中から救い出され、喜びと感謝をもって生きるようになること。
そのために自分の罪を告白し、赦しの恵みに与ること。
そのようにして自分の心と体の中身の掃除を定期的に行うこと。
それこそが地上の教会の存在理由であり、わたしたちが毎週教会に通う理由なのです。
(2008年5月11日、松戸小金原教会主日礼拝)