コリントの信徒への手紙一6・12~14
「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」
いま短めに読みました。この個所にはキリスト教信仰の核心部分が端的に表現されています。ここで問題になっていることを少し丁寧にいえば、神がわたしたちに与えてくださる自由(キリスト者の自由!)と、その自由を間違った目的のために用いてしまう人間の罪との関係はどうなっているのかということです。しかし、こういうことをさっと言うだけでは何のことかお分かりいただけるはずはありませんので、これから説明いたします。
「わたしには、すべてのことが許されている」という一文にかぎかっこが付けられている理由は、分かりません。このような言葉が旧約聖書かあるいは新約聖書のどこかに書かれているのかと思って調べてみましたが、見当たりません。どこかから引用したことを示すためのかぎかっこではなさそうです。しかし、書かれているとおりの言葉が聖書に出て来ないとしても、この「わたしには、すべてのことが許されている」という一言こそが、神がわたしたちに与えてくださる自由を端的に表現していると語ることができます。わたしたち、キリスト者は、全く自由なのです。
まさに書いているとおり「わたしたちには、すべてのことが許されている」のです。わたしたちには「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」というタブーがないのです。あの日はいけない、この日はいけない。あの方向はいけない、この場所はいけない。そういうのが全く無い。あるいは、あれを食べてはいけない、これを飲んではいけない。そういうのも全く無い。他の宗教にはよくあるその種の拘束や束縛が、わたしたちキリスト者には全く無いのです。
そんなことはないだろうと、反発を受けるかもしれません。キリスト者こそが、あれもいけない、これもだめだと、そんなことばかり言ってきたではないかと。また、聖書の中には、あるいは、教会の教えの中には「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」というような言葉がたくさんあるではないかと言われてしまうかもしれません。
なるほど、たしかにそうです。たとえば聖書には、有名なモーセの十戒が書かれています。皆さんがもっておられる今週の週報の最後の面にも十戒の全文を印刷してあります。「あなたは、殺してはならない。あなたは、姦淫してはならない。あなたは、ぬすんではならない。あなたは、隣人について、偽証してはならない。あなたは、隣人の家をむさぼってはならない。」
たしかに、わたしたちには、すべてのことが許されています。しかし、殺してもよいわけではありませんし、姦淫してもよいわけではありませんし、ぬすんでもよいわけではありません。まさかそんなことまで許されているわけではありません。
しかし、もしそうだとしたら、わたしたちは少しも自由ではないと考えなければならないでしょうか。教会はいろんなことを禁止しているではないかと、反発されなくてはならないでしょうか。いやいや、ちょっと待ってくれ。いくらなんでもそういう理屈はないだろうということくらいは、聖書を毎週学んでいる人でなくても、常識で考えても理解していただけることではないかと思います。
詳しい事情を話しはじめますと長くなってしまいますので、途中の説明を省いた結論だけ申します。わたしたちが人を殺すということは、わたしたちが殺すその相手の自由を奪ってしまうことを意味します。また、それだけではなく、人を殺した人自身の自由が奪われることをも意味します。姦淫も、あるいは盗みも、偽証することも、むさぼることも、みな同じです。わたしたちは自由だ。しかし、その自由を間違ったことのために用いてしまうならば、その結果として、自分の自由も他人の自由も奪ってしまうことになるのです。
パウロが今日の個所に書いているのは、そのことです。わたしには、すべてのことが許されている。「しかし、すべてのことが益になるわけではない」のです。神がわたしたちに与えてくださる自由を間違ったことのために用いるならば、それは自分自身と他人に対して被害をもたらす結果を生むことは間違いないわけですから、その意味では、わたしたちは何をしてもよいわけではないのです。神がわたしたちに与えてくださる自由は、罪を犯してもよい自由ではないのです。
いまわたしは「罪」と言いました。パウロが書いていることは、結局のところ、神がわたしたちに与えてくださる自由と、わたしたち人間が犯す罪との関係である、と説明することができます。そうしますと、今度は「罪とは何か」についての説明をしなくてはならなくなりますが、それも長くなりますので、途中の説明を省いて結論だけ言います。
私の結論は、罪とは自由の正反対であるということです。このことは前に一度、お話ししたことがあります。わたしたちにとって自由が遊びの本質だとしたら、罪は仕事です。いま私は「仕事が罪だ」と言ったわけではありません。それは主語と述語が逆さまです。「罪は仕事だ」と言ったのです。昔のテレビドラマに「必殺仕事人」というのがあったではありませんか。人殺しのことを「仕事」と呼んでいるのです。国際的なテロを働くような人たちは、綿密な計画を立てて、ありとあらゆる可能性を想定して行動します。そうでなければ彼らの犯行は決して成立しませんし、失敗に終わるでしょう。
あるいは、姦淫を犯すこと、不倫を働くこと。こういうのも、最初は遊びなのかもしれませんが、そのうち必ず仕事になります。こちらにもあちらにも嘘をつき、こちらにもあちらにも隠しごとをし、結局どちらも重くなる。どちらかを捨てざるをえなくなるし、どちらからも捨てられる。多くの人を傷つけ、家族を傷つけ、自分自身を傷つけて、何もかも破壊する。
盗みも、偽証も、むさぼりもみな同じです。自分の犯した罪を隠すために嘘をつき、その嘘を隠すために、また嘘をつく。ピノキオの鼻はどんどん伸びていくばかりです。
仕事は罪ではありません。そんなことを言ったら怒られてしまいます。しかし、罪は仕事なのです。人間は汗水たらし、苦労して罪を犯すのです。しかしその結果は常に悪いものです。罪の結果が良いことはありえません。自分自身を不幸にし、多くの人を不幸にするだけです。そんなことのためにも、人間は汗水たらすのです。まるで馬鹿みたいな話ですが、いったん罪の電車の中に乗ってしまうと、途中で降りられなくなってしまうのです。
今日の個所でパウロが書いているもう一つのことは、そのことです。わたしには、すべてのことが許されている。「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」。ここでパウロが「支配」という言葉で表現しているのが罪のことです。罪はわたしたちを自由にせず、むしろがんじがらめに支配します。電車の扉は、次の駅まで開かないのです。無理やり開けて、走っている電車から飛び降れば、死んでしまう。それほどに罪はわたしたちを支配するのです。乗ったら最後なのです。だから、わたしたちは、よくよく気をつけなければならないのです。
「食物は腹のため、腹は食物のためにある」と続いています。パウロが「腹」という字を書くときの意味は、たいていの場合、狭い意味ではなく、広い意味です。「腹」は人間の欲求や欲望の象徴です。と言いますと、私はこの場から逃げたくなってしまいますので、このことをあまり強調したくはありません。しかし、ここでパウロが言いたいことは「食べすぎたらお腹が出っ張る」というような単純な話ではないと申し上げたいのです。
パウロがしているのは食べ物の話だけではありません。だからこそ、このあとすぐ、間髪いれずに「みだらな行い」の話が続いています。いわゆる三大欲求とは食欲、性欲、睡眠欲だと言われますが、睡眠の話をパウロはしていません。パウロがしているのは残りの二つの話です。人間が欲求や欲望を持つこと自体が悪いと言っているのではありません。わたしたちが人間であるかぎり、地上に生きているかぎり、そういうものと全く無関係に生きることは不可能です。その意味での避けがたさ、「欲求の不可避性」を指して、パウロは「食物は腹のため、腹は食物のためにある」と言っているのです。
いま申し上げていることは日本では強調しておく必要があるかもしれません。クリスチャンというのは何も食べない人(?)であるかのように誤解している人がいないともかぎらない国の中では。
しかし問題は、そこから先のことです。ごく当たり前の話ですが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。自分自身を傷つけ、家族を傷つけ、多くの人を傷つけるほどの過度の欲求、過剰な欲望をもつことが悪いと言っているのです。そこまで行くと罪だと言っているのです。だからその次にパウロは「神はそのいずれをも滅ぼされます」と書いています。行きすぎた欲望追求は、神の厳しい裁きの座に耐えることができないのです。
だから、次の言葉が大事です。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」とパウロは書いています。「体」という字をパウロが書くときの意味も、たいていの場合、狭い意味ではなくて、広い意味です。わたしたちがよく言う「心と体」という区別を置いた上での「体だけ」の話をしているのではありません。そのような区別がパウロの考えの中に全く無いと言いたいのではありませんが、少なくとも今日の個所に「体」と書かれているのはもっと広い意味です。それはほとんど「人間の存在そのもの」を指していると言ってよいでしょう。
ですから、いま申し上げたことを踏まえていただいたうえで、パウロの言葉の中の「体」という字を「人間の存在」と言い換えていただけば、パウロの意図をよく分かっていただけるでしょう。実際に言い換えてみます。「人間の存在はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は人間の存在のためにおられるのです」。
いかがでしょうか。まだ日本語として分かりにくさが残っているようです。もう少し噛み砕く必要がある。それなら、これでどうでしょうか。
「わたしたちは、みだらな行いをするために生まれてきたのではない!
罪を犯すことが人生の目的ではない!
罪は人間の運命でも定めでもない!
人生の目的は、神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶことなのだ!(ウェストミンスター小教理問答1)
わたしたちは、神を喜ぶために生まれてきたのだ!
神は、わたしたちの存在を喜んでくださるためにわたしたちを造ってくださったのだ!」
わたしたちの存在は、神の目から見てこの上なく価値があります。だから、みだらな行いはただちにやめなければならないのです。
(2011年6月5日、松戸小金原教会主日礼拝)