2004年6月6日日曜日

牧者の責任


ガラテヤの信徒への手紙2・11〜14

「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。」

ガラテヤの信徒への手紙の中にパウロが描いているペトロとの会見の場面は、これで第三回目です。

しかし、この第三回目の会見は、前二回と比べてみますと、いくつかの点で非常に違ったものになってきていることは、明らかです。

違いの第一は、会見が行われた場所です。第一回目と第二回目の会見場所は、いずれもエルサレムでした。当時の全世界のキリスト教会の"総本山"と言うべき教会が置かれていたエルサレムです。そのエルサレムに、当時の教会の最高指導者であった使徒ペトロがいました。そのペトロのもとに、パウロが出かけて行って、二人の会見が行われました。

ところが、第三回目の会見場所は、アンティオキアでした。そこにも、教会がありました。アンティオキア教会はパウロをはじめとする異邦人伝道に従事する伝道者たちが"ベースキャンプ"にしていた教会です。

その教会に、今度はペトロのほうが訪ねて来たのです。そして、そこで、パウロはペトロに会いました。これは大きな違いです。

会見がどこで行われたかという点は、じつは非常に大きな事柄であると言えます。エルサレムにいるときのペトロは、自他共に認める教会の最高権威者としての外見を持っていたはずです。会社の社長が社長室にいるようなものです。近づくのも恐れ多いと感じさせるような場所です。

ところが、パウロとペトロの第三回目の会見は、言うならば、少し低い場所で行われました。もちろん、どこにいようともペトロはペトロです。しかし、自由に語り合える場所というのは、たしかにあると言えるでしょう。

違いの第二は、パウロ側に見られる顕著な変化です。これは、読んでいただくと、すぐにお分かりいただける点です。前二回の会見は、パウロもペトロもお互いに非常に穏やかな態度でなされました。

第一回目のときは、パウロがまだ、洗礼を受けて教会のメンバーになってまもない頃でした。迫害者だった頃の反省や悔い改めの思いが強く残っていたに違いない頃です。どちらかというと控えめで、謙遜で、少し頭を下げているようなパウロの姿が目に浮かびます。

第二回目のときは、パウロが伝道者としての活動を活発に展開しはじめて、まもない頃です。その頃のパウロは、なお控えめで、謙遜なものではありましたが、神の御言を宣べ伝える伝道者としての誇りと自信、福音の真理の確信に満たされていました。自分の歩むべき道を自覚しつつ、しっかりとした足取りで歩んでいるパウロの姿が目に浮かびます。

しかし、と言うべきでしょう、第三回目の会見のときのパウロの様子は、これまでとは明らかに違います。

「ペトロに非難すべきところがあったので、面と向かって反対した」。口語訳聖書では「面と向かってなじった」と訳されていました。新改訳聖書では「面と向かって抗議しました」と訳されています。面罵という言葉がありますが、まさにこれです。広辞苑での意味は「相手の面前で罵ること」です。

罵倒することです。いずれにせよ、そこには、いささかの穏やかさもありません。非常に攻撃的で、乱暴で、破壊的でさえあります。まるで喧嘩腰。怒りに任せて、相手かまわず、大声を張り上げて、怒鳴りつけている感じがしてならないのです。

こういうのは、できればやめてほしいという感じがしなくもありません。大の大人同士が、直接向き合って、口から唾を飛ばしながら対決している姿というのは、周囲の人々に恐怖や躓きを与えかねません。少なくともパウロ側は、完全に激怒しています。ほとんど許せない思いを持っています。

そのことを、パウロは、この手紙に書きながら、また腹を立てている感じです。あのときは腹を立てて申し訳なかったというような反省の言葉は、全くありません。むしろ、今でも怒っている。ペトロのしたことは許せない、という思いが消えていないのです。一体、何があったのでしょうか。


「なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。」

書き残されている事実は、これだけです。これ以上のことは、分かりません。いつ、どこで、こういう事件が起こったのか、ということについては、全く触れられていません。また、だれが、ということについても、「ある人々が」とか「彼らが」とあるだけで、まるで伏字だらけのイニシャルトークでも聞いているようです。当時の人々には手に取るように分かったのかもしれませんが、時代の違う人々には、全く分かりません。

しかし、逆に言うならば、パウロがここで問題にしている相手は、名前を伏せられている"だれそれさん"のことではなく、ひたすらペトロ一人であった、ということの証拠である、と考えることもできるわけです。つまり、問題はペトロにある、ということです。ペトロが問題なのです。ただし、一個人としてのペトロではなく、一公人としてのペトロが問題です。彼のしたことは一体何だ、とパウロは怒っているのです。

ペトロは、異邦人たちと一緒に食事をしていた。しかし、あるときを境に、そのことをやめてしまった。きっかけは、ある人々が来たこと、その人々がおそらく何かを言ったこと。そのことでペトロは、ユダヤ人たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしはじめた。他のユダヤ人たちも、異邦人たちと一緒に食事をしなくなってしまった。

そのようなことを、パウロと一緒に伝道旅行をした伝道者バルナバさえしはじめた。これは一体何なのだと、開いた口がふさがらないほど、あきれ果てているパウロの姿が、目に浮かびます。

一緒に食事をする、というのは、象徴的な行為です。ユダヤ人と異邦人とがキリストの福音に基づいて、罪の赦しと和解のテーブルに着くことです。しかも、この文脈における「異邦人」の意味は、いわゆる"異邦人キリスト者"のことであると思われます。つまり洗礼を受けている異邦人です。すでに教会の正式なメンバーに加わっている異邦人です。

わたしたち日本キリスト改革派教会の場合、洗礼式のときに読まれる式文の中に、次のような感銘深い言葉が記されています。

「あなたは、今ここに信仰を告白し洗礼を受けました。それゆえ、あなたは、神の教会のすべての特権を与えられ、聖餐の礼典にあずかることができます」。

他教会からの転入式や他教派からの加入式の式文には、次のように書かれています。

「あなたは、今この教会に転入し、私たちの交わりに入れられました。それゆえ、あなたは、この教会の会員としてすべての特権を与えられたことを宣言します」。

そのとき厳かな宣言をもって約束されることは、神の御前で一人の信仰者に与えられる「神の教会のすべての特権」であり、「この教会の会員としてのすべての特権」です。そこに差別は無いのです。あってはならないのです。

いろんな意味での自分自身の出所(でどころ)のことを"出自(しゅつじ)"と言います。多くの場合、教会は、出自が違う人々の集まりです。出身地、出身学校、出身教会など、それぞれみんな違います。生まれも育ちも違う。言葉も性格も違う。年令も体験も違う。なにもかも違います。すべてが全く同じ人間は、一人もいません。

そしてわたしたちは、多くの場合、良い意味でも悪い意味でも、それぞれの過去を引きずっています。過去を引きずることのすべてが、悪いわけでもありません。過去の記憶や体験、過去の宗教が、現在のわたし、このわたしを決定しているのです。わたしがわたしであり、わたし以外の何ものでもないというこのことは、わたしがこれまで体験してきたすべてのことを引きずり続けるときに、初めて自覚できるのです。

そして、しかし、そのように過去を引きずりながら生きているわたしたちが、キリストの福音によって救われ、キリストの体なる教会に集められたとき、そこで起こることは、わたしたち一人ひとりが根本的に全く自由なものにしていただける、というこのことも、忘れてはなりません。悪い意味で過去を引きずってきた人々が教会の中に加えられるとき、もはやそれを引きずらなくても良い、ということを深く知らされるのです。

だからこそ、です。ユダヤ人がキリストに救われるとき、ユダヤ的律法主義というものから全く解放され、まるで異邦人のように生きることが許されるのだ、というのがパウロの信仰であり、またペトロ自身もその信仰を持っていたはずなのです。

ところが、一体何なのか。ある人々が現われて、ちょっと言われただけで、自分の立場を変えてしまう。そして、その結果として、異邦人キリスト者たちに対しても約束されているはずの「教会のすべての特権」を奪い去ってしまう。教会の中でさえ、異邦人とユダヤ人を差別してしまう。パウロが激怒した理由は、このあたりにあると言えるでしょう。

しかも、ペトロ自身は、異邦人のような、かなり自由な生活を続けていました。ユダヤ的律法主義に戻ることは、もはやできませんでした。一度味わった自由の味を忘れることができませんでした。それなのに、異邦人たちに対しては、ユダヤ的律法主義を強要する。

人に厳しく、自分に甘い。そのような最も模範的でないペトロの生き方を、わたしたちは、とくに教会における伝道・牧会の責任を負う牧師や長老たちは、他山の石とすべきです。

(2004年6月6日、松戸小金原教会主日礼拝)