2016年6月6日月曜日

互いに重荷を担いなさい(千葉英和高等学校)


ガラテヤの信徒への手紙6・1~5

関口 康

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」

初めて礼拝で説教させていただきます。4月から聖書の先生になりました関口康です。1年生の4クラス、2年生の4クラスの聖書の授業を担当させていただいています。今年は礼拝で6回説教する予定です。1回15分話すようにとのことですので、1年90分です。よろしくお願いいたします。

宗教委員の生徒の方々に朗読していただきました聖書の箇所についてお話ししたいと思います。今日皆さんに考えていただきたいのは、「互いに重荷を担いなさい」(2節)という御言葉についてです。またすぐ後に出てくる「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」(5節)にも注目していただきたいと思いました。

二つのことは似ていますが、違うことでもあります。一つは「互いに重荷を担いなさい」です。もう一つは「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」です。後者は、言い方を換えれば「自分の重荷は自分で担いなさい」ということになります。

「重荷」は読んで字のごとく重い荷物です。毎日学校に持ってくるカバンは重いでしょうか。もし重いとしたら、皆さんのカバンが「重荷」です。「自分のカバンは自分で持ちなさい」ということです。当たり前です。自分のカバンくらい自分で持て。他人に持たせるな。

大人になっても社長さんとかになっても同じです。自分のカバンくらい自分で持て。でも、ひとりで持てないほど中身が増えてしまった場合は、遠慮なく助けてもらいなさい。それは恥ずかしいことではないし、間違ったことでもありません。

これが「互いに重荷を担いなさい」の意味です。他の人に助けてもらっているとき、自分の手を完全に放してしまえば「互いに重荷を担うこと」にならないかもしれません。怪我をしているときや、体調不良などで、自分のカバンに手をかけることが自分で不可能な場合はあります。その場合はあとでお返しすればいい。

「今日は私のカバンを持ってくれてありがとう。今度は私が持つ番だね」と約束して選手交代すればいい。それで「互いに重荷を担うこと」ができます。助け合いの精神は、相手のためにもなりますし、自分のためにもなります。助けてもらった恩は忘れないほうがいい。 

しかし、今日の箇所の「重荷」は、カバンでたとえるだけでは不十分です。もっと深刻な内容です。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」が「互いに重荷を担いなさい」の内容です。

そして「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」が「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」の内容です。つまり、この箇所で「重荷」の意味は「罪」です。「罪を互いに担う」とつなげると、なんだかまるで一緒に悪いことをするというような意味になってしまい、話がおかしくなりますが、ここに書かれていることの趣旨は「罪を犯した人を正しい道に立ち帰らせなさい」ということです。

罪を犯した人は、はっきり言えば悪い人です。しかし、だからといって、死んじゃえばいいとか、目の前から消えてほしいとか言い、その人を見捨て、切り捨て、すっきり軽くなることの反対です。罪を犯した悪い人が正しい道に立ち帰るまで見捨てず、見限らず、見殺しにせず、切り捨てず、背負い続けなくてはならないことが求められています。

それがなぜ「互いに」なのかといえば、罪の問題は「お互いさま」だからです。罪を犯さない人は一人もいないからです。お互いに我慢しあっているという面が必ずあるからです。自分はいつも必ずだれかの重荷を背負うだけ、ということはありえないからです。

もっとも、今日の箇所では、「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」とありますとおり、「不注意」の罪、つまり過失が問題になっています。しかし罪は「わざと」、つまり故意に犯されるものも決して少なくありません。だとしたら、故意の罪を犯した人は見捨てても構いませんという意味でしょうか。そうではありません。

なぜなら、その罪が「故意」なのか「過失」なのかを判断することは、もしかしたらその罪を犯した本人ですら、とても難しいことだからです。人の心の中は第三者には見えません。自分自身ですら制御しきれないのが人間の心です。その心が、罪を犯すのです。故意に罪を犯した人は見捨てるべきだという単純な話にはなりません。

しかし、要求の内容が大変なことであるのは間違いありません。自分の重荷は自分で担いながら、他人の重荷も同時に担うとなると負担が大きすぎることになるのは避けられません。実際にそのようなことは不可能だと感じるかもしれません。それは分かります。

しかし、だからこそ、ここでカバンのたとえが役に立ちます。罪の問題は「お互いさま」ですから。今は他人のカバンを持てるほど余裕がない。それどころか自分のカバンを持ってもらいたいくらいだというときはあります。そのときは、遠慮なく助けを求めてください。そして、助けてもらった人は、いつの日か、誰かのカバンをもってあげてください。

授業では話していることですが、私は大学卒業後25年、教会の牧師の仕事だけをしてきました。学校で教えるのは初めてです。慣れなくてもたもたしているところは、どうかお許しください。

しかし、みなさんからどう見えているかは分かりませんが、私の自覚としては教会と学校は全く違うものだという感覚はほとんどなく、むしろ共通点が多いと感じています。教会で私は聖書を教えてきました。いま学校でも聖書を教える立場です。お話しする相手が人間であるという点では、学校も教会も同じです。そして人間が相手である以上、罪の問題を抱えている存在であるという点で同じです。

聖書を教えるということと同時に、さまざまな個人的な悩みや相談にのり、解決していくためのお助けをしてきました。個人情報の要素が多く、守秘義務の観点からすべてをお話しすることはできません。

ただ、どちらかといえば人間のネガティヴな面の問題に取り組んできました。人間の光の側面よりも、影の側面、闇の側面のほうにどちらかといえばかかわってきました。経済的に行き詰った。家庭が崩壊した。夫婦関係や親子関係が険悪だ。してはいけないことをした。

病院に行った。役所にも相談した。関係諸機関のすべてに相談した。ありとあらゆる手を尽くした。だけどどうにもならなかった、とおっしゃる方が、最後の最後のところで教会に来る。宗教に頼る。神を求める。そういう方々とかかわってきました。

もうちょっと早く教会に来てくださればよかったのに、と言いたくなることも、しばしばでした。でも、私も他人事だとは思えません。自分だっていつ同じ立場に立つことになるか分かりません。一寸先は闇です。

皆さんにお願いしたいことがあります。「教会の牧師になってください」とは言いません。止めもしませんが、お勧めはしません。けっこう大変な仕事ですので。そういうことよりも、最後の最後まで「自分以外の人の重荷を担う」人になってほしいです。簡単に見捨てないで、切り捨てないで。

私も人のことは言えません。しかし、私には私の重荷を担ってもらえる「方々」が、また「方」がいます。最後の最後まで私のことを見捨てないでくれる仲間がいます。そして最後の最後まで私のことを見捨てない神がいてくださいます。皆さんにも必ずそのような仲間が与えられます。神はあなたを見捨てない。それが最後の最後の望みです。

(2016年6月6日、千葉英和高等学校 学校礼拝)