2004年9月5日日曜日

なぜ逆戻りするのか


ガラテヤの信徒への手紙4・8~11

「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている。いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」。

ここでパウロが書いていることは、何でしょうか。最初に少し丁寧に、ゆっくりと分析してみたいと思います。

初めの文章に「あなたがたはかつて」とあり、次の文章に「しかし、今は」とあります。「あなたがた」とは、もちろんガラテヤ教会の人々のことです。「かつてのあなたがた」と「今のあなたがた」。まるで二種類のあなたがたがいるかのようです。

そして、明らかに言いうることは、二種類のあなたがたを区別するものは、彼らの人生の中で起こる時間の流れである、ということです。「過去のあなた」と「現在のあなた」とが区別されているのです。

どれくらいの時間が流れていたのでしょうか。5年くらいか、10年以上か。パウロは何も書いていません。時間の長さは、問題ではないのかもしれません。ここでパウロが問題にしていることは、「過去のあなた」と「現在のあなた」とでは、明らかに違いがある、ということです。

「過去のあなた」は、神を知らずに生きていた。しかし、「現在のあなた」は神を知っている。ここに大きな違いがある。パウロの言葉をさっと読むと、とりあえずこんな感じになると思います。しかし、続けて「いや、むしろ神に知られている」とも書かれています。これは何でしょうか。この問題は、少しあとで取り扱います。

それより前に扱っておきたい第一の問題は、「神を知らなかった過去のあなた」と「神を知っている現在のあなた」とでは、たしかに大きな違いがある、ということです。

「神を知っている」ということで思い浮かぶのは、神についての知識とか、その知識を身につけるための勉強、というようなことでしょう。「教会でも勉強しなければならないのか。勉強するのは学校である。教会は学校なのか」と思われるかもしれませんし、実際にそのように問われることがあります。

しかし、事実はそのとおりです。おそらくわれわれの多くが洗礼を受ける前に参加したでありましょう「受洗準備会」とか「求道者会」などと呼ばれる時間に行われることは、ひたすら勉強です。教会には学校的な面があります。わたしたちは、教会で、神について勉強しなければならないのです。

しかし、です。ここで、ちょっとだけ、ケンカ腰っぽい言い方をさせていただきます。

はたして、わたしたちは、教会で、どのくらい神について勉強したことがあるでしょうか。「毎週の礼拝も、聖書の勉強の時間である」と言えば、そのとおりです。しかし、時間は短いと思います。受験生と同じくらい、長い時間をかけて、まさに徹夜で、猛勉強をしたことがあるでしょうか。「しました」という方がおられるかもしれません。しかし、どれくらい分かったでしょうか。わたしたちは、神について、何を、どれくらい知っているのでしょうか。「全部分かりました」という方がおられるかもしれません。しかし、それは本当でしょうか。

こういうところに引き合いに出されると、ご本人は嫌がると思いますが、わたしが今、心から尊敬している先輩教師の一人は、神戸改革派神学校の校長をしておられる牧田吉和先生です。つい先々週、同じ研究会でご一緒しました。

この先生は本当によく勉強される方です。若い頃、ドイツとオランダに5年間留学してこられたご経験をお持ちです。今は60才を越えておられます。にもかかわらず、今でも毎日のように朝早くから夜遅くまで、辞書と首っ引きで猛勉強を続けておられます。

しかし、そのような先生が、先々週お会いした折にも頻りにおっしゃっていたことが「分からん、分からん」ということでした。「先生が分からないのに、なぜわたしたちに分かるのですか」と言いたくなるほどでした。牧田先生に限って、「わたしはすべてを知っている」というような顔や態度を見たことがないのです。

もちろん、牧田先生はたいへん謙遜な方である、ということも事実です。だからこそ、多くの尊敬を集めておられます。しかし、これは牧田先生お一人の話ではないでしょう。おそらくわたしたちのすべて、まさにすべての人間は、完全な意味で「神を知っている」と語ることができないのです。

そこで注目していただきたいのは9節です。「しかし、今は神を知っている。いや、むしろ神から知られている」。先ほど「少しあとで扱います」とお断りしました「神から知られている」とはどういう意味であるか、という今日の第二の問題を考えたいのです。


ご覧いただけばお分かりのとおり、ここでパウロは、最初に「あなたがたは神を知っている」と書き、「いや、むしろ」と続け、その後すぐに「あなたがたは神から知られている」と言い換えています。原文でも、このとおりになっています。「いや、むしろ」(マーロン)という言葉がはっきりと書かれています。英語のratherです。敷衍しながら意訳するとしたら、「よりよく語るとしたら」とか「もっとふさわしい言い方をするとしたら」というふうに訳すことができます。

パウロによるこの言い換えの意図は、明らかです。

思い浮かべていただきたいのです。パウロは、この手紙の、この個所の文章を書いています。「かつてのあなたがたは神を知らずに生きていた。しかし、今のあなたがたは、神を知っている」と、ここまで書きました。しかし、そこで筆が止まってしまった。「いや、むしろ」(マーロン)と続けたくなった。そのときパウロは、「神を知らなかった過去のあなた」と「神を知っている現在のあなた」との対比を描くだけでは、満足できないものを感じてしまったのです。

「いや、むしろ」、よりよく語るとしたら、もっとふさわしい言い方をするとしたら、「あなたがたは神から知られている」と書かなければならないのだ。このように、パウロは感じてしまったのです。

なるほど、確かなことは、「神を知っている」ということと、「神から知られている」ということとでは、全く正反対の方向を向いている、ということです。

わたしたちは、もちろん、神を知らなければなりません。神を知るために、神について勉強しなければなりません。このことも確かな真実です。

しかし、ここで付け加えなければならないことがあります。それはパウロの言葉どおり、「いや、むしろ」(マーロン)です。「もっとふさわしい言葉で語るならば」です。ありのままのわたしたちは「神から知られている」と語ることができるだけである、ということです。

そして、このことは、「神から知られている」ということは、だれにでも、はっきりと、遠慮なく、躊躇なく、大胆に、自信をもって語ることができます。

ただし、「だれにでも」という意味は「洗礼を受けている者ならば、だれにでも」ということです。洗礼を受けていないならば、このようなことを自信をもって語ることは難しいと思います。

すでに学んだとおり、このガラテヤの信徒への手紙の3・26以下に、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と書かれていました。「洗礼を受けること」と「キリストに結ばれること」とが、まさに一つのこととして語られていました。

洗礼は、結婚にたとえられるものです。「洗礼とは、キリストと結婚することである」と言い切っても構わないほどです。

しかも、神が(キリストを通して)わたしたちを知りたもう、と語られるときの「知る」の意味は、単なる「知識」ではありえません。神は何でもご存じの方ですから、「わたしたちを知る知識」という言い方は、変です。むしろ、ここでこそ、創世記4・1に出てくる「アダムは妻エバを知った」という場合の「知る」を思い浮かべるべきです。それは結婚関係、あるいは結婚的な関係において「愛しあう」という意味です。

洗礼を受けるとは、まさにそういうことです。「神がこのわたしを愛してくださっている」ということを知ることです。神とこのわたしが結婚関係、ないし結婚的な関係を結ぶことです。まさしくそのとおり、「神を知る」とは「わたしが神を愛すること」です。「神から知られる」とは「神がわたしを愛してくださること」です。

ですから、今日の個所のパウロの言葉は、次のように言い換えることができるでしょう。「あなたがたはかつて、神を愛していませんでした。もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を愛している。いや、むしろ、神から愛されている」。

はっと気づかされることがありました。ああそうか、と深く納得するものを感じました。それは、「神を愛する」という意味の「神を知る」という言葉は、「もともと神でない神々に奴隷として仕えること」ということの反対の意味で使われているに違いない、ということです。

もっと短く言い直します。「愛すること」の反対が「奴隷として仕えること」である、ということです。

「奴隷として仕えること」は「隷属する」とも言い直せるでしょう。しかし、実際的に考えると、「隷属」の実態は「させられること」でしょう。強制的に引きずり回されることでしょう。

むりやり引きずり回されることを自ら好む人もいるのでしょうか。人それぞれである、と言われたら、それまでです。しかし、それはまさか「愛」ではないでしょう。

愛のかたちはいろいろある、と言われたら、それまでです。しかし、奴隷として引きずりまわされる関係と、愛の関係は、全く異なるものです。

このことを、ガラテヤ教会の人々は、よく知っていました。そのことを彼らがよく知っている、ということを、パウロはよく知っていました。だからこそ、パウロは、彼らに、そのことを何とかして思い出させようとして、この手紙を書いているのです。

あなたがたは「神から知られている」、すなわち「神から愛されている」者になったではないか。神を愛し、神から愛される関係、神との結婚関係、すなわち洗礼を受けて、教会のメンバーに加わる、という神との契約関係に入ったではないか。もはや、すでに結婚の関係は、成立しているではないか。

それなのに、です。

あなたがたは「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」とパウロは続けています。

そして、こうも言っています。「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」。

ここでパウロが告白している「心配」を、わたしたちは、文字どおり受けとるべきです。

パウロも牧師の一人です。おそらく牧師ならばだれでも、教会から離れようとしている人がいるとか、信仰を捨てようとしている人がいるとか、そしてもちろん神から離れようととしている人がいたら、間違いなく、まさにここでパウロが書いている意味での「心配」をするでしょう。「うるさい」とか「わたしの勝手でしょ」とか「お節介を焼かないでもらいたい」と思われることを覚悟しながら、「心配」いたします。この意味での「心配」をしないような牧師は、如何なものか、と思います。もちろん、牧師だけではなく、教会全体が「心配」します。

しかし、その「心配」の中心にあるものを、ぜひ理解していただきたいのです。

あなたの非を責めているのではありません。「神の愛」から離れて生きようとするあなたの人生の行く末を「心配」しているのです。「無力で頼りないもの」へと逆戻りすることは、あなたにとって何の益にもならない、ということを「心配」しているのです。礼拝の出席者が減ると困る、というような次元の話をしているのではないのです。

まことの神だけが、あなたを自由にし、まことの喜びで満たしてくださるのです。

(2004年9月5日、松戸小金原教会主日礼拝)