関口 康(日本基督教団教務教師)
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」
今日も使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙を開いていただきました。先ほど朗読していただいた箇所のひとつ前の段落から読んでいきます。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲を満足させるようなことはありません」(16節)と記されています。ここで言われていることの主旨は、「肉の欲を満足させること」と「霊の導きに従って生きること」とは矛盾し、対立する関係にあるということです。
そのとおりのことが次の節に記されています。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(17節)。
そしてその続きに「肉の業」とはどのようなものであるかが記されています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」(19~21節)。
これは悪徳表と呼ばれるものです。並べられている悪徳は、どちらかといえば個人的な要素が強いものばかりです。社会全体で取り組まなければならない構造的な悪の問題、たとえば戦争、人種差別、搾取、経済格差といったことについては述べられていません。
しかし、個人的なことと社会的なことが無関係であることはありえません。両者がどのような関係にあるかを説明するのは難しいことです。謎めいた関係にあります。しかし、間違いなく言えるのは、個人が集まって社会が形成されるということです。小さな悪や罪の根や種を放置したままでいれば、それらはやがて必ず大きく成長していくでしょう。
いま学校の授業で扱っているのはそのことです。罪の問題を扱っています。一般的な意味での「罪」はほとんどもっぱら行為を指します。それに対し、聖書の意味での「罪」は、行為を含まないわけではありませんが、それ以上に行為の根や種となる心の性質を指します。行為と性質を合わせた全体を、聖書は「罪」と呼びます。そのように説明しています。
いま申し上げたこととの関係でいえば、パウロが記しているこの悪徳表は、「肉の業」とあるとおり、その内容は「業」すなわち「行為」です。しかし「肉の業」と言われていることが大事です。「肉」に罪が潜むのです。そして、その罪が悪を生み出すのです。
しかしそれは、「肉」そのものが罪だとか悪だとかいう意味ではありません。「肉」そのものはただの物質です。物質そのものを悪とするのは、聖書的な価値判断ではありません。別の宗教の思想です。
しかしまた、「肉」とは弱いものです。罪に負けやすく、悪に染まりやすい弱さという性質を持っています。その「肉」に罪が潜みます。悪の行為の根や種を容易に抱え込みます。それを放置すると世界を脅かす巨悪が育ちます。厳密に言おうとするなら、今申し上げたようなことをじっくり丁寧に考えていかなくてはなりません。
ここまでお話ししたうえで、ほんの少しだけ聖書から離れて考えてみたいことがあります。それは肉の弱さについてです。難しい話ではなく、分かりやすい話です。疲れるとか眠いとかという話です。それは昨日の私自身の状態です。
学校の仕事はとても楽しいです。本当に楽しいです。しかし、教会の仕事とは性質が違う疲れ方をするものだということが分かるようになりました。それを説明するのは難しいことですが、土曜日になるとぐったりしています。それでも土曜の朝もいつもと同じ時刻に目が覚めるようになりました。完全な昼夜逆転人間でしたので今の自分に自分で驚いています。しかし「今日は土曜日だ」と気づくとまた布団に潜って昼まで眠ってしまうことがよくあります。
昨日の私もそうでした。これも「罪」でしょうか。そうかもしれません。今日の礼拝で説教させていただくための準備を怠ってぐっすり眠りこんでいる説教者はだめでしょうか。そうかもしれないなと反省して、目が覚めた後は、説教の準備に集中しました。
しかしふと考えました。話が飛躍しているかもしれませんが、パウロが記している悪徳表の内容は、昨日の私の状態と同じような意味での「疲れること」と多くの点で結びつくことばかりではないかと考えさせられました。
お酒やわいせつなことにのめり込む人がいます。すぐに腹を立てる人がいます。その人々の言い訳は多くの場合、ストレスの発散です。そのようなことは全く言い訳にならないし、言い訳にすることが断じて許されないのは、そのとおりです。しかし、ストレス発散の方法を他に知らない人たちは、ストレスをたくさん溜め込み、そのうち心身に不調をきたし、壊れてしまいます。
だからこういうことにのめり込むのはやむをえないのだ、だから許してあげましょうという話にはなりません。そのようなことでは、問題は全く解決しないどころか、家族の関係も友人関係も会社や社会での信頼関係も全く破壊されてしまい、もっと多くのストレスを抱え込むことになるでしょう。全く別のストレス発散の方法が真剣に考えられなくてはなりません。
とにかくよく眠ることが大事です。暇さえあれば眠る。ところかまわず眠る。そのほうがいいです。歳をとると眠りが浅くなると言われます。しかし、じっとしているだけで体も心も休まります。動き回って余計なストレスを抱え込んで、そのストレスを発散するためにいかがわしいことにのめり込むよりは、はるかにましです。
じっとしていても構わないし、引きこもっていても構いません。引きこもって、内弁慶になって、家の中でいばり散らされると、家族は迷惑するかもしれません。でも、そんなことはあまり言わないであげてください。お願いします。
高齢者を揶揄する意図は全くありません。パウロが記している悪徳表に並べられている「肉の業」は厳しい社会で戦っている人々が抱え込むストレスの問題と結びつくところがありそうだと気づいたので、申し上げました。そして、ストレスの問題を解決するためには、全く別の、いわばもうひとつのストレス発散方法を真剣に考える必要があることを訴えたかっただけです。
「これに対して」と、パウロは続けます。今日の箇所にたどり着きました。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(22節)。
この「霊」に新共同訳はダブルクオーテーションを付けていませんが(凡例三(2)参照)、だからといってこの「霊」が「聖霊」であることを否定しなくてはならないわけではありません。この手紙の中に記された「霊」という字の多くにダブルクオーテーションが付けられていることを確認することができます(3章2節、3章5節、3章14節、4章29節、5章5節、6章1節)。
また、「聖霊」以外の意味でありえない「霊」にダブルクオーテーションを付けていない箇所があります。そのひとつは4章6節です。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(4章6節)。
この箇所は、気をつけて読まなくてはなりません。「わたしたちの心」に「神」が送ってくださった「御子の霊」について記されています。しかしその意味は、「御子の霊」を送ってくださった御子の父なる「神」の「霊」でもあるということです。御子だけの霊であって父なる神の霊ではないわけではありません。「わたしたちの心」へと送られ、注ぎ込まれるのは「御父と御子の霊」としての「聖霊」です。
しかも、その「霊」(ダブルクオーテーション付き!)は「福音を聞いて信じる」(3章2節)こと、つまり「信仰によって受ける」(3章14節)ものであると記されています。これで分かるのは「聖霊」と「福音」と「信仰」はワンセットであるということです。ばらばらに受け取るわけではありません。
「聖霊」が先か「福音」が先か、それとも「信仰」が先かについて順序や時間差があるかどうかには議論があります。申し訳ないことに、私はバプテスト教会の教えを存じませんので、もしかすると皆さまのお考えに反することを申し上げるかもしれません。それを避けるために詳細に立ち入ることは控えます。
ただ、これだけははっきり言えると思いますのは、先ほど申し上げたとおり、「聖霊」と「福音」と「信仰」はワンセットであるということです。そして、この場合の「福音」は「説教」と呼びかえることができます。
その意味は、「説教」は聞かないが「聖霊」も「信仰」もある、ということはない、ということです。あるいはまた、「説教」を聞いても「信仰」に至らないが(それはよくあることです)「聖霊」はある、ということもない、ということです。
そして「聖霊」を理解するためにもうひとつ大事な点、そして私がそれこそが最も大事だと考えている点は、「聖霊」はすべての人が生まれつき持っているものではないということです。すべて後から追加されるものです。
もし生まれつき「聖霊」を持っている人がいるなら、「福音」も「信仰」も不要です。「教会」も不要です。「聖霊」を生まれつき持っている人がいるなら、それを生まれつき与えられていない人に後から与えられることを期待するのはおかしいことだからです。
しかし、そういう事情でないからこそ、わたしたちは「教会」を続けているのではないでしょうか。「福音」も「信仰」も必要だからこそ、それを宣べ伝える「教会」が必要だと信じているのではないでしょうか。「聖霊」も「信仰」も親や先祖から遺伝するものではありません。だからこそわたしたちに「教会」が必要であり、福音の説教による「伝道」が必要なのです。
これは私の心の底からの問いかけです。そしてこの思いは、パウロ自身も持っていたのではないかと、私が信じたいと願っているところです。
「霊の結ぶ実」とは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。すべてを暗記する必要はありません。ばらばらのことではありえないからです。先ほど申したこととの関係でいえば、ストレス発散のもうひとつの方法がこれです。それは「教会」で「福音の説教」を聞き、「聖霊の結ぶ実」を実らせていくことです。これは確かに効き目があります。効き目があるということを教会の歴史が証明しています。
そしてまた、わたしたちは、教会でストレスを抱え込むことがないように、「聖霊の結ぶ実」が実るような教会をかたちづくっていくのを目指すことが大切です。そのことを最後に一言だけ申し上げておきます。
(2016年11月27日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)