2004年6月27日日曜日
わがうちに生くるキリスト
ガラテヤの信徒への手紙2・17~21
「もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。」
ここでパウロが書いている第一のことは、「キリストによって義とされた人」は、しかし依然として罪人のままである、ということです。「義とされる」と訳されています。「義と認められる」とか「義とみなされる」という訳もあります。いずれにしても微妙な言葉づかいであることには、変わりありません。
なぜ微妙でしょうか。どの訳を採用するとしても、結局のところ義とされた人々はただ単に「義とされた」だけであり、「義と認められた」だけであり、「義とみなされた」だけである、というように、常に何となく奥歯にものが挟まったような言い方になるからです。これらの言葉づかいの裏側に「実際にはそうではない」という、非常に強い否定の言葉が隠されているのです。
しかし、まさにこの"奥歯にものが挟まったような言い方"こそが、キリスト教信仰の特徴です。あなたは、ただ「義とされた」だけである。実際に「義人」になったわけではない。このような、聞く人によっては「詭弁でも聞かされているのではないか」と感じてしまうに違いないような、きわめて微妙な言葉で、わたしたちは、キリスト教信仰の核心部分を説明しようとします。
実際、たしかに、キリストを信じる信仰によって義とされた人は、しかし、その時点でもう二度と絶対に罪を犯すことがない、という意味で完全な義人になることができるわけではありません。
ちょ、ちょっと待ってください。そこのところで、「完全な義人になることができます」と言ってほしいです、と思われる方がおられるかもしれません。
しかし、それは無理な話です。すべてを捨てて新しく生まれ変わりたいという願いをもって洗礼を受けた人に、「いいえ、あなたはこれからも罪人のままなのです」と言わなければならないのが牧師の仕事です。夢も希望も無いかもしれません。しかし、それが現実です、と言うしかありません。
ここでパウロが語っていることは、そういうことです。パウロはきわめて現実主義者なのです。
しかし、もしそうであるならば、どうなるか。そのような、あいかわらず罪人のままであるような人間を、まるでそうではない者であるかのように義なる者とみなしてくださるキリストというお方は、結局のところ、罪を犯し続ける人間を、ただかばうだけの存在であるということになるのでしょうか、という問いが、当然のように出てくるでしょう。
それが「キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか」というパウロの問いの意味です。それが、ここでパウロが言おうとしている第二の事柄です。
「罪に仕える者」を原文から直訳すると「罪の奉仕者」となります。ここでパウロは、キリストは罪の奉仕者なのか、と問うています。あいかわらず罪人のままである者たちを、まるで罪人ではないかのようにみなすキリストは、黒いものを「白い」と言い張るだけの詭弁をあやつる悪徳弁護士なのか、という問いであると理解することができるでしょう。
「決してそうではない」とパウロは書いています。そんなことはありえません、と断言しています。そのような言葉でキリストを侮辱する人々を許すことができない、パウロの怒りの表明が、ここにあると言えます。
「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。」
少し理解が難しい言葉が続いています。「自分で打ち壊したものを再び建てる」とは、何のことでしょうか。
ここでパウロは、おそらく律法について語ろうとしています。パウロは、律法を打ち壊したのです。しかし、それは、自分が持っている聖書を破り捨てた、というような意味ではないでしょう。そんなことをしても、意味がありません。そうではなく、律法の行いによって救われるという、パウロがキリストへの信仰に入る前に信じていた、ユダヤ教の律法主義的な生き方そのものを捨てたのだ、という意味であると思われます。
そのような生き方を、パウロは、全く捨てました。同じように、ペトロも捨てたはずでした。しかし、ペトロは、自分が一度捨てたものを、再び拾おうとしたわけです。ここが、ペトロとパウロとの決定的な違いとなりました。
何事においても、できるだけ、腹は立てないほうがよいと思います。しかし、少し長く生きてきますと、腹が立つ場面は、たくさんあります。何に腹が立つかといって、自分が捨てた者を拾おうとする人がいるときに、腹が立ちます。
大した価値の無いものであればともかく、少なくともかつての自分自身にとっては大いに価値があると信じてきたものに裏切られ、いわば泣きながら捨てたものを、易々と拾おうとする人がいる。しかも、その人自身も、一度は同じものを捨てたはずである。きっとあの人も、わたしと同じ思いで、必死の思いで捨てたのだろう、と思っていたら、そうではなかった。
なんだ、あの人の決意は、それほどのことでしかなかったのか。パウロがペトロに対してあからさまに示した怒りは、このあたりに真相があると思われます。心の底から、がっかりしたのです。
一度捨てたなら、もう二度と拾ってはなりません。最初に捨てたことの意味が無くなります。
なぜ捨てたのでしょうか。ユダヤ教的律法主義は、渋滞続きの旧国道です。何時間たっても前が見えず、目的地に到達することができません。だからこそ、父なる神は、イエス・キリストによる救いという別の道、パイパスを通してくださったのです。
せっかく便利な道が開通し、そこを通ってどんどん前に進んでいるのに、なぜまた渋滞している旧国道に戻ろうとするのか。それは愚かな人のすることです。二度と戻らない。戻りたくない。一度捨てたものをわたしは二度と拾わない。わたしはもはや「律法に対しては律法によって死んだ」のだから、とパウロは語っているのです。
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」
わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 ここでパウロが明らかにしていることは、パウロがもはや過去の道、渋滞の道、ユダヤ教の律法主義の道に戻りたくないし、戻ることができない理由は、単なる彼の熱情とか、決心とか、決意によるものだけではないということの、いわば根拠です。
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」。わたしは、今や十字架につけられ"ちゃっている"。「ちゃっている」というのは、もちろん変な言い方です。しかし、パウロの心境を考えると、おそらくこんな感じになると思います。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。パウロは、十字架に張り付けられているのです。自分で動くことは、もはやできない。ぷらぷらすることができない。なんだか都合よく、「今日はユダヤ教で行きます。明日はキリスト教で行きます」というふうに、思いのままに行ったり来たり。そんなことは、わたしにはできない、と言っているのです。
わたしの中には、もうすでに、キリストがおられるのだから!
ここはもう少し丁寧に、聖霊の働きによってキリストがわたしの中におられる、というべきところかもしれません。しかし、ここでパウロは、あまり神学的ではないように感じます。激しい愛の力をもってキリストに捕らえられている、自分自身のありのままの状態を、まったく率直に告白しているのです。
「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。ここでパウロは、「わたし」という言葉を繰り返しています。「わたしたち」ではありません。このわたしを、神の子イエス・キリストは愛してくださり、このわたしのために身を献げてくださった。この神の子を信じる信仰によって、このわたしは、今ここで、生きているのです。
この愛、キリストの愛によって、パウロは捕らえられました。わたしの中にキリストがおられる。この告白へと導かれました。それが、彼に与えられた救いそのものなのです。
「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそキリストの死は無意味になってしまいます。」
もうあまりしつこく言葉を重ねる必要はないかもしれません。キリストに対するパウロの思いは、十分に理解していただけたのではないでしょうか。
パウロとキリストを結ぶ絆(きずな)は、愛です。このわたしを愛してくださるキリストを、わたしは愛している。プロポーズはキリストのほうが先です。だからこそ、その愛は「神の恵み」なのです。
どちらが先にプロポーズしたかということが、結婚してからも、いつまでも問題になることがあります。先に惚れた者の負け、という面もあります。
キリストは、愛されるよりも先に、愛してくださいました。だからこそ、その愛は真実です。まだ罪人であるときに、愛してくださいました。これからも罪人であり続けることが分かっていても、愛してくださいました。
そのようなお方を裏切ることはできない。キリストの死を無駄にしてはならない!
この思いが、パウロの信仰を支えました。
(2004年6月27日、松戸小金原教会主日礼拝)