2004年9月26日日曜日
自由なる生の喜び
ガラテヤの信徒への手紙4・21~5・1
パウロが今日の個所に書いている内容は、もちろん、一つのたとえ話です。少し難しい言葉を使わせていただくなら、「寓喩」(アレゴリー)と言います。
寓喩とは、聖書の中に書かれてある言葉について、「じつは、これは、こういう裏の意味が隠されているのです」というような仕方で、全く予想もつかない意味を説明してみせるとか、あるいは、論理的には必ずしもつながりがあるとは思えないところに真意を見出す比喩の方法、というふうに説明できるかもしれません。
ところで、通常の場合、たとえ話というのは、一般的には分かりにくいことを、できるだけ分かりやすく説明するために用いられます。しかし、どうでしょうか。今日の個所のたとえ話についてのわたし自身の率直な印象は、これは非常に難しい、ということです。はっきり言えば、今日の個所に書いていることが、わたしには、さっぱり分かりません。
胸を張って言うようなことではないかもしれません。しかし、いくつかの聖書注解書に当たってみましたが、どの本を読みましても、十分に納得できるように解説してくれるものは見当たりませんでした。聖書には時々、このような個所が出てきます。
しかし、この期に及んで、そのようなことを言っている場合ではないのかもしれません。分からないなりに読んでいくうちに、少しくらいは分かる部分が見つかるかもしれません。今日の個所の最初にパウロが書いていることは、これです。
「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは律法の言うことに耳を貸さないのですか。」
これは、とりあえず何とか理解できるところでしょう。パウロは、「律法の下にいたいと思っている人たち」に向かって語りかけている、ということが分かります。
ここで「律法」は、特別な意味であると思われます。わたしたちは、聖書全体を指して「律法」と呼ぶことがあるからです。
しかし、ここで、パウロは、明らかに「律法の下にいたいと思っている人たち」を厳しく批判しています。もしここで言われている「律法」の意味が、わたしたちの持っているこの「聖書」のことだけであるならば、パウロもまた聖書の御言を宣べ伝える伝道者の一人であるわけですから、なんだか奇妙な話になってしまいます。「聖書の下にいたいと思っている人たち」が悪いのでしょうか。そんなことを、パウロが言うでしょうか。それはちょっと、ありえないことです。
むしろ、ここで「律法」とは、今日の個所の最後に出てくる「奴隷の軛」という意味で語られていると思われます。
「軛」というのは牛や馬の頸(くび)にかける横木のことです。「くび」にかける「木」だから「くびき」です。これを人間にもかけると「奴隷の軛」となります。総じて、自由を束縛する道具や手段を指します。しかし、今のわたしたちの国では奴隷制度というものは禁じられておりますので、「奴隷の軛」を実際に見たことがある人は少ないと思います。
それはともかく、ここでパウロが「律法」という言葉を「奴隷の軛」と全く同じ意味で使っていることは明らかです。しかし、そうであるならば、やはり、これは、わたしたちにとって非常に驚くべき言葉である、と言わなければなりません。聖書全体という意味でもありうる「律法」が、人の自由を奪う道具ともなりうる、とパウロは考えているのです。
しかし、わたしたちは、このことを、今開いておりますガラテヤの信徒への手紙の全体の文脈から全く切り離して考えることはできません。今日は、少しこれまでのおさらいをしておきたいと思います。
パウロは、この手紙をガラテヤ教会の人々に書き送りました。パウロは、ガラテヤ地方にしばらく滞在して福音を宣べ伝えたのち、別の地に移動し、新たな伝道を始めました。そのパウロが立ち去った後のガラテヤ教会の中に、「異なる福音」を宣べ伝える別の教師が現れ、その教師を支持するグループができてしまった、というわけです。
この教師が宣べ伝えた「異なる福音」の内容とは、一言で言って、「ユダヤ教的律法主義への回帰」というべきものでした。その人々は、ユダヤ人以外の異邦人たちが信仰を告白してキリスト者になることのために、洗礼を受けるだけでは足りない、と主張しました。旧約聖書に基づくユダヤ教の伝統である割礼をも受けなければならない、と言いはじめました。異邦人たちは、まずユダヤ人になりなさい。ユダヤ人になってから、キリスト者になりなさい、と言うのと同じことを、彼らは異邦人たちに強要したのです。
そして、そのような「ユダヤ教的律法主義」を強要する教師たちの主張に対して、事もあろうに、当時のキリスト教会の最高指導者であった使徒ペトロまでもが同調しはじめました。そこに至って、これは全くとんでもないことだ、とパウロは怒りをあらわにしたのです。
洗礼を受けるだけでは足りない、という主張は、今のわたしたちの時代にも、いろいろと形を変えて、装いを新たにして、登場いたします。
わたしたち松戸小金原教会の歴史を考えていく中で決して忘れることができない出来事として、いわゆる「異言問題」というのがありました。具体的なことを申し上げるのは控えます。わたしは当時のことを正確に知っているわけではありません。いろいろと差し出がましいことを語るのは、慎まなければなりません。
しかし、一般論として「異言問題」というのは、基本的・本質的なところで、ガラテヤ教会の問題に通じるところがあるのです。
まず最初に、その人々は「水の洗礼」を受けるだけでは足りないと語りはじめるのです。「聖霊の洗礼」を受けなければならない。「聖霊の洗礼」を受けた者たちは「異言」というものを語りはじめるのだ。異言を語ることができないのは「聖霊の洗礼」を受けていない証拠なのだ、というふうな話に、必ずなっていくのです。
そこで起こる大きな問題は、わたしたちがキリスト者であるためには、信仰を告白し、洗礼を受ける、ということだけでは足りないという理由から、それ以外のいろんな条件がたくさん加えられていく、ということです。洗礼を受けただけの「偽物のキリスト者」とそれ以上の何かを持った「本物のキリスト者」という二種類のキリスト者という考えが出てくるのです。そのようにして、「教会の敷居」が、どんどん高くなっていく、ということが起こるのです。
しかし、それは違うのではないか、というのが、パウロの立場であり、信仰そのものでした。人がキリスト者となるために、洗礼だけでは足りず、割礼も受けなければならない、と言われることは、異邦人のための伝道者であるパウロの立場からすれば、「伝道の障害」以外の何ものでもありませんでした。
パウロにとっては、わたしたちがキリスト者であるために求められる唯一の事柄は、わたしたちの救い主イエス・キリストを信じることだけである。「なんだかんだ」という条件は、一切排除されるべきである、ということであったわけです。
そのことを、しかし、パウロは、ただ単に自分の信念であるとか、主義・主張である、ということだけで語ることは許されませんでした。牧師・説教者・伝道者の仕事は、自分の主義・主張を語ることではありません。聖書の御言に基づいて、真理を語ることです。おそらく、そのために、パウロは、今日の個所のたとえ話を書いているのです。
「あなたがたは律法の言うことに耳を貸さないのですか」とあります。もちろんここでパウロが言いたいことは明らかです。律法の下にいたいと思っているあなたがた。あなたがたが頼りにしている律法そのものが、聖書そのものが、あなたがたの主義・主張の根拠そのものが、あなたがたの主義・主張を否定していますよ、ということを言いたいのです。
このようなパウロのやり方は、間違いなく、論争的なかたちを必然的にとらざるをえません。ピリピリ張り詰めた雰囲気の中での厳しい言葉の応酬になります。こういうのは、本当に嫌なことであり、できれば避けたいことです。
しかし、大いに学びうることもあります。それは、教会の中にいろんな問題が起こったときに、わたしたちにできることは、とにかく徹底的に「聖書そのものを読んでいくこと」以外には無いだろう、ということです。聖書にどう書いてあるか。聖書が教えていることは何か。このことに、わたしたちは、常に立ち返らなければなりません。
とはいえ、もちろん、パウロにとっても、わたしたち自身にとっても、論争相手として登場する人々自身も、「わたしたちも聖書に基づいている」というふうに、必ず言います。解釈の違いである、というところで終わってしまうことが、しばしばです。
しかし、わたしは、「それでもよい」と思うのです。それでもよいから、とにかく聖書を読みましょう。聖書には何が書かれているのかということを、みんなで一緒に学んでいきましょう。ここに問題解決の糸口がある、と信じることが、わたしたちに許されている道なのです。
そして、その上でさらに申し上げておきたいことは、このような「聖書」の用い方こそが、わたしたちにとって最もふさわしい、ということです。わたしたちは、聖書の内容について自由に論じあってよいし、分からないことは「分からない」と言ってよいのです。
反対に、最も正しくない聖書の用い方がある、と思います。それがまさに「律法主義」です。聖書の御言を「奴隷の軛」とすることです。聖書の御言に基づいていると称して、わたしたちがキリスト者であるためにイエス・キリストを信じる信仰を告白すること以外のいくつもの条件を加えていくことです。「ああしろ、こうしろ」と無理難題を次々に積み上げて行くことです。しかし、わたしたちは、もっと自由であってよいのです!
今日の個所について、わたしに語りうるのは、この程度のことです。パウロが語っているたとえ話そのものは、正しく理解することが本当に難しいと感じます。
「アブラハムの二人の息子」とは、女奴隷の子イシュマエルと正妻サラの子イサクとの二人のことです。しかし、この二人の息子のどちらがわたしたちであり、もう一方が誰である、というようなことが書かれているのですが、それはなぜなのか、とか、それをどのように説明すればよいのかなど、考えれば考えるほど、さっぱり分かりません。
しかし、幸いなことに、パウロはこのたとえ話をしめくくるに当たり、「要するに」と、一言で要約してくれています。こういうのが有難いと思います。
「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」
キリスト者の人生は、全く自由な人生です。わたしたちの救い主イエス・キリストが、わたしたちを自由な身にしてくださったのです。
律法主義の罠に陥らないよう、お互いに気をつけたいと思います。
(2004年9月26日、松戸小金原教会主日礼拝)