私のネットの書き込みが毒にも薬にもならない理由は、具体的な記述はほとんどなく、だいたいが抽象的で人を幻惑する内容で埋め尽くすくせがあるからだ。ネットごときに核心に触れることを書いたためしがない。「言質とったぞ」とかしたり顔されるのがとにかく嫌なので、尻尾をつかませない自信がある。
そんな私であるが、たまには具体的なことを書く気になるときがないわけではない。なぜ人は、自分で自分を死なせてはならないか。そういう質問を私にすると、ほぼ確実にけむに巻かれることを知っている人が多いらしく、その質問をされたことがない。しかし、質問されたらこう答えようと準備はしている。
その答えはこうだ。「死んでも楽にはならないからです」。そういうふうに、10年以上前ではあるが、あるパンフレットに書いたことがある。死んだら楽になるなんて、だれが言ったのか。いまの現実よりも高級で至福の現実が我々の死後に待っているなんて、だれが教えたのか。だまされちゃいけないよと。
詳細な議論を展開する気力はない。天上と地上でも、彼岸と此岸でも、形而上と形而下でも、自分の腹にはまる表現で構わない。二極の「連続性」と「非連続性」の関係の問題であるといえばピンとくる方もおられるだろう。私の考えは、ほとんど「連続性」の線である。天上の現実と地上の現実は、大差ない。
それは自らへの戒めでもある。地上の現実からのエスケイプを後押しするほど天国をキラキラに描きすぎるな。ウィークデーの現実は地獄の闇であるかのようにサンデーの現実を称賛しすぎるな。両極に高低差をつけすぎるな。なるべくフラットに描け。ふらっと教会に来て、ふらっと現実に戻れるほうがいい。
こういうこと書くと嫌われることは分かっている。変身願望のある方には特に。だけど私には譲れないものがある。宗教や神学の論理的整合性の問題ではない。「死んでも楽にはならない。だから生きていよう」は私の信仰だ。自分の「ありのままの」現実を受け入れろとは言わない。そんなえらそうなことは。