あとは推して知るべし |
遺言をしかるべき人と場所に預けて厳重に保管してもらうことと、古代人が硬い石に字を刻んで後世に何かを伝えようとしたこととの共通点は「敵の存在」だよなということを最近読んだ本(マンガではない)で考えさせられた。空中に消える声だけでは、家族や味方が全滅した場合、あとに何も伝えられない。
自分にとって都合の悪いことを「どぞどぞ、遠慮なく書き残してください」と言える人はそんなにはいない。人は自分に都合のいい歴史を編む。しかしそれが歴史のすべてではありえない。裏側がある。側面がある。闇があり、恥がある。それを書き残し、後世に伝える責任を痛感する者が、どの時代にもいる。
しかし、今考えているのは、大げさなことではない。眼前のネットのことだ。「ネットに書いた」で大炎上。職や命さえ失う人が後を絶たない。思いつきで書いた字が「動かぬ言質」とみなされ、責任を厳しく問われる。削除してもダメ。「○○氏は○○と書いたがそれをあとで削除した」と永久に記録される。
それで考えさせられるのは、ネットの中で行き交う、字でも画像でも動画でもない、顔文字やスタンプの肯定的な意味だったりする。字なるものを「動かぬ言質」とみなして徹底追及の口上で襲いかかってくる人々の存在を熟知している人々が、「字ではないよ、字ではないよ」と明示しながらの意思表示方法。
すべての人が永久に仲良くて、だれに対しても温かい理解力と親切を示す世界でありえたら、石に刻んだ文字も、厳重に保管された遺言も、要らない。次元は違うかもしれないが顔文字もスタンプも要らない。しかし現実はそうでないので、それらのものが必要だった。それは「必要悪」などではありえない。
その意味ではやはり「字」だけでコミュニケーションが完結することは、当然のことながらありえない。ネットにしてますますその度合いが強まるとさえ言える。顔文字やスタンプなどのそれぞれの意味があることはさることながら、それを「使用することの意味」がある。それは「あとは推して知るべし」だ。
しかし「あとは推して知るべし」を意味する顔文字やスタンプを用いる相手との間に必要なのは、かなりの範囲の共通理解や共通体験でもあるだろう。そうでないかぎり、推しえないし知りえない。「読者よ悟れ」は迫害者の検閲や追及を免れるための暗号なのだから。真に分かり合ったもの同士の酌み交わし。
すみません、特定のだれかへの批判とかではありません。ネット生活17年の中で考えてきたことを「書き残し」たくなっただけです。
あとは前稿の続き。制度としての学校と教師から完全にエスケイプできる社会はないと私は(私も)考えているが、それを「見透かす」ような格好で漁夫の利を得る人々(それが誰だかは必ずしも明瞭でない)に縛られなければならない道理もない。引き算で考えられないものかと、いつも悩んでいる。