2015年1月7日水曜日

私は「個人の行為」として説教原稿をネットで公開しています

私の説教ブログにはいろんな教会で行った説教が含まれています

ネット説教をグーグルで検索すると分かるのは、公開方法にタイプがあることです。最少でも二つのタイプがあります。(1)教会の行為として公開しているものと(2)説教者個人の行為として公開しているものです。さらに前者が二つに分かれます。(1a)説教者名つきのものと(1b)匿名のものです。

ネット説教を(1)教会の行為として公開していると言える根拠は、説教記事が掲載されているURL(ネット上の住所)に教会名が入っている、あるいは、教会の公式ホームページにリンクされている、というあたりです。その中に(1a)説教者名が明記されているものと(1b)匿名のものがあります。

教会の行為として公開されているネット説教が匿名になっている場合(1b)は、教会の公式ホームページにも牧師名もしくは説教者名が記されていない実例が多数確認できます。教会は人間のものではなく神のものである。説教は神の言葉であって人間の言葉ではないという態度表明ではないかと思われます。

私は(2)説教者個人の行為としてネットで説教を公開する方法を、意図的に選択しています。それは(1)教会の行為として公開する方法を批判ないし問題視してのことではありませんが(対抗意識は皆無)、説教文書の責任の所在や扱い方についてかなり悩み、熟考した結果として選んだ方法ではあります。

そもそも私がネットで(最初はメーリングリストやホームページ、最近はブログやSNS)説教を公開するようになった動機は「伝道目的ではない」と明言してきたことを覚えておられる方もいらっしゃると思います。そういう私の物言いに反感を抱かれた方もおられます。実際に面罵されたこともあります。

私が説教をネット公開しようと思った動機は、大別すると二つです。

(一)徹夜で書いた原稿も、一回限りで廃棄するものではある。しかし、原稿の保存は必要である。紙ではなくネットに載せておけば、かさばらなくて済むと思ったこと。

(二)「言った、言わない」論争で苦しんだ駆け出し時代があった。「あなたは○月○日の説教で私に個人的な当てこすりをした」「いやまさか、そんなことはしない」「いや、した」「いや、しない」。「そこまで言うなら、私の原稿を読んでみてください」といつでも言える備えが必要であると思ったこと。

ノートに手書きで原稿を書いていた頃は、「そこまで言うなら、私の原稿を読んでみてください」とは言いにくかったのですが、ブログやPDFの状態で保存しておけば、言いやすいです。しかし、ネットで説教を公開しはじめてからは、「言った、言わない」の論争に巻き込まれたことは、一度もありません。

私も決して、すべての説教者が説教原稿を公開しなければならないとは考えていません。「せずに済む」なら、それに越したことはないとも言えます。特に私は、(2)個人の行為としてネット説教を公開する方法を選択していますので、自由度は高いです。だれに強制されてしていることでもありません。

しかし、完全原稿でないものでも、たとえばメモでも、それはそれで公開すると、他の人の参考にはなると思います。説教の「内容」についての参考というよりも、説教の「形式」についての参考です。「おお、この方は、こういうメモで説教しているのか」ということがわかると、それはそれで面白いです。

他の人の説教との類似性という点も気にしなくていいと思います。ネット時代は複数の説教を並列的に読めます。複数の人が同じことを言っているほうが、かえって信頼感が増します。あの人とこの人が言っていることが全く違うと、何を信じればよいか分からなくなると言い出す人が増える可能性があります。

説教そのものと説教文書(紙の本であれ、ネットであれ)の関係を考えるとき、ポール・リクールの考察が役に立ちます。パロール(言葉)とエクリチュール(書)の関係は、預言「そのもの」と預言「書」の関係のみならず、説教「そのもの」と説教「文書」の関係を考えることに、そのまま当てはまります。

説教そのものは、空気の中で消えていく、目に見えない言葉です。それ以上でもそれ以下でもありません。しかしまた、その説教は少なからざる場合において容赦ない批判にさらされます。上記のような「言った、言わない」の不毛な論争に巻き込まれてみたり、揚げ足取りや告訴の言質にされてみたりします。

かくして説教者たちは、あらぬ噂や中傷誹謗の中で生活の根拠を失い、説教そのものをやめるか、人生をやめるかの二者択一の前に立たされます。そういったときに、エクリチュール(書)としての「説教文書」(紙の説教集であれ、ネット説教集であれ)が、小さからざる意味と役割を担うことがありえます。

エクリチュール(書)は、第三者の目に触れうるものであり、ある程度客観的に検証可能な物件です。「言った、言わない」の不毛な論争の原因となる発言を突き止め、対立する両者以外の第三者を加えて、言ったか言わなかったか、言ったとしてもどのような意味で言ったのかなどを論証することができます。

その上で、この説教者は資格や生活の根拠を奪われてもやむを得ないほどの過失や罪を犯したかどうかを、第三者機関で判定できます。しかし、説教がパロール(言葉)のままなら、それは不可能です。数人の(狭い)密室の中で処理されるだけです。説教者の側が保護されたケースは、ほとんどありません。

ネガティヴな話で終わってしまいましたね、すみません。これじゃダメだ。私がネットで説教を公開しはじめたのは、10年以上前です。今と状況が全く違います。私自身も10年前の動機のままではありません。もっとポジティヴな意義を感じています。客観情勢として、ネット説教の需要は増加しています。

虚しさは常にあるのです。ネット説教の需要の増加をネットで力説しても、読んでくださる可能性があるのはネットユーザーだけですよね。ネットユーザーにとっては自明のことをネットで主張してもほとんど意味ないですよね。ネットを使わない人には聞き流されるだけだし。虚しい、寂しい、苦しい言葉です。

またネガティヴな話に戻っちゃった。

ちなみに、今日は、午前中は通常の祈祷会がありました。午後は講演原稿を書いていました。来月(2月)と再来月(3月)に行われる、全く別の団体が主催する二つの講演会で、両方ともファン・ルーラーについての講演(内容は別々)をさせていただくことになっていて、そろそろお尻に火がついています。

「いまどうしてる?」を書かざるをえないのは、ツイッターやfacebookやブログに長い文章を書くとたちまち、ネットばかりやってるんだろう、他にやることあるだろう、教会員の顔が見えていないんだろうと非難されることが実際にあったし、いつでもありうるからです。

油断も隙もないネット界だ。