2015年1月1日木曜日

2015年 新年礼拝説教

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
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エフェソの信徒への手紙6・10~20

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」

新年あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお願いいたします。

このところ毎年の新年礼拝で、教会の一年間の目標とする聖句(目標聖句)の解説をさせていただいています。

12月の定期小会で相談した結果、2015年度の目標聖句を「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(エフェソの信徒への手紙6・10)に決めました。今月1月25日の定期会員総会で承認していただきたいと願っています。

この聖句を今年の目標聖句にしましょうと提案したのは私です。もちろん理由がありました。教会はどのような力によって立っているのかを、改めて深く考える一年になることを願ったからです。

その答えがこの聖句に明言されています。教会は「主の偉大な力」によって強くされて立っているのです。「主」とは神です。教会は「神の力」で立っています。

そんなことは当たり前だ、キリスト教のイロハである、何を今さらこのことを強調する必要があるのかと思われるかもしれません。しかし、当たり前のことだからこそ、真剣に考えましょう。

「いや、そうではない。教会は人間の努力によっても立っている」。そういうふうに考えることは、もちろんできます。そのことを私は否定しません。そして、そのことは聖書の中でも否定されていません。11節以下を読めば、聖書が人間の努力を否定していないことが分かります。

「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(11節)と記されています。神の武具を身に着けるのはわたしたちです。教会です。

そして、そのわたしたちが神の武具を身に着けて何をするのかというと、「悪魔の策略に対抗して立つことができるようにする」のです。悪魔の策略に対抗して立つのもわたしたちです。教会です。

悪魔の策略に対抗することも、立つことも、わたしたち以外の誰かがやってくれるわけではありません。わたしたち自身は戦わないし、自分で立とうとはしないが、わたしたちの代わりに神が戦ってくださり、教会を立ててくださるという話ではないのです。

「神の武具」の具体的な種類が14節以下に書かれています。

「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。…救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」。

ここに出て来るのは、帯、胸当て、履物、盾、兜、剣です。こちらのほうだけ読めば、古代の軍人が鎧を着用した姿を思い浮かべることができます。しかし、これらすべてはたとえです。ここに書いてあるとおりのことをイメージするとしたら、この人は丸腰です。

帯くらいは締め、履物くらいは履いているかもしれません。しかし、胸当ても、盾も、兜も、剣も、目に見える形のものは持っていません。全くの裸ではないかもしれませんが、堅い金属のよろいではなく、ごく普通の服を着た人の姿でしかありません。

つまり、ここに描かれているのは武装した軍人の姿ではなく、文字通り丸腰の、完全なる一般市民の姿です。真理も、正義も、平和の福音を告げる準備も、信仰も、救いも、神の言葉も、わたしたちの目に見えないものだからです。

「それで何ができるのか」と思われるかもしれません。現実の武器や凶器を持った人もいる危険な世界の中に丸腰で出かけるのは、自ら死にに行くようなものではないかと思われるかもしれません。

しかし、教会とはそういうところなのです。わたしたちは「主の偉大な力」によって、すなわち「神の力」によって立っているのです。

教会では牧師だけではなく、長老や日曜学校の先生が聖書のお話をしてくださっています。また、聖書のお話をする人だけがいても、教会は成り立ちません。話を聞いてくださる人がいなければ、教会は成り立ちません。

言葉とはそういうものです。コミュニケーションです。キャッチボールです。相手がいない話は独り言です。独り言も言葉ではあります。しかし、そればかり続けていると虚しくなってきます。

「牧師の説教だけで教会が立っているわけではありません、そんなことはありえません」ということを言いたくて、今の点を付け加えました。教会の全員が神の言葉を宣べ伝えるために奉仕するのが教会です。

しかし、その神の言葉は、わたしたちの目に見えないものでもあります。何が、どんな力が、教会を立てているのかを、わたしたちは目で見ることができないのです。目に見えない神の力によって、神の言葉の力によって、教会は立っているのです。

「主に依り頼み」については説明が必要です。原文に「依り頼み」という表現は見当たりません。原文は「主にあって」(エン・キュリオー)です。「に依り頼み」は、訳者が補った表現です。

意味として間違っているわけではありません。しかし、今年の目標聖句の強調点は、原文にない「依り頼み」のほうではなく、後半の「その偉大な力によって強くなりなさい」のほうにあります。

教会は「神の力」によって強くなります。「神の力」で立っています。それは、神の言葉であり、聖書であり、説教であり、信仰です。

そこがおろそかにされたり、ないがしろにされたりすると教会は弱くなります。しかし逆に、そこが重んじられれば、教会は強くなります。

そのことを今年はぜひ深く考えたいと願っています。

(2015年1月1日、松戸小金原教会新年礼拝)