2015年1月30日金曜日

「バルト神学の受容」と「教会の戦争協力」の関係は「にもかかわらず」なのか「だからこそ」なのか

カール・バルト(Karl Barth [1886-1968])
K先生

興味深い記事をご紹介くださり、ありがとうございます。まだ印象の段階ですが、私はかなり違和感を覚えながらリンク先の記事を読ませていただきました。私の長年の問題意識の琴線に触れる内容でもあり、この問題は深刻に受けとめています。その上で申し上げたいのは、違うのではないかということです。

150年余に及ぶ日本プロテスタント教会史における「バルト神学の受容」と「教会の戦争協力」との関係は、①前者「にもかかわらず」後者なのか、それとも、②前者「だからこそ」後者なのかという二者択一において、現在の多くの神学者(国内外問わず)は、かなり無批判に①を選択してしまっています。

しかし実際には、②の可能性もかなりあると考えるべきだと私は思います。はっきり言えば、私はどちらかというと②を選びます。その理由は、バルトおよびバルト主義者が第二次大戦後のヨーロッパにおいて「キリスト教政党」に対して採った態度ゆえです。彼らは「キリスト教政党全否定論」の立場でした。

バルトが起草したことでよく知られるいわゆる「バルメン宣言」や彼の影響下に書かれた諸文書のすべては「対教会的文書」です。それは「内向き」であり、その神学者が属する教派・教団と関係諸教会のメンバーたち、つまりキリスト者たちへの呼びかけです。直接的な「外向き」のアピールではありません。

もちろん、たとえそういうものであっても、まわり回って「対国家的文書」という意味の「外向き」の役割を果たすようになることは、もしかしたら、ありうるのかもしれません。しかし、それらの文書を埋めつくす概念のすべては神学と教会の専門用語であり、世間一般の人々には理解しようのない暗号です。

そういうものをもってバルト主義者たちは「反ナチ文書」と言いたがるかもしれませんが、それらの文書が実際に機能した場所は(せいぜい)「教会」の内部だけであり、「国家」や「社会」を動かした形跡はありません。

バルトとバルト主義者の「キリスト教政党」への全否定の態度はよく知られています。アメリカにも日本にも「キリスト教政党」は存在しませんので、バルト主義者たちの「キリスト教政党全否定論」の意味を理解できる素地がアメリカにも日本にもないため、これの問題性を認識しづらい面があると思います。

オランダの実例でいえば、第二次大戦後のオランダでバルト主義者が徒党をくんで始めたことは、19世紀に由来するオランダのキリスト教政党「反革命党」を政権与党の座から引きずり下ろし、「労働党」(共産党とコレスポンデンス)を支持すべきことをオランダのキリスト者に精力的に訴えることでした。

これが意味することは、オランダのバルト主義者(彼らはスイスのバルトと常に連絡を取り合っていました)は、キリスト者が「政党」という形で政治や社会にかかわることを中止させることに精力的に寄与したということです。言い方を換えれば、彼らのしたことは、キリスト教の政治的無効化への寄与です。

繰り返し言えば、バルトとバルト主義者がしたことは「キリスト教政党という形での教会の政治に対する直接的関与を否定すること」でした。それはキリスト教の政治的側面の無力化ないし「脱構築」を意味していました。代わりに彼らがしようとしたことは(せいぜい)「教会自身の政治的態度決定」でした。

それは、教派・教団の大会ないし総会で、多くの場合その議長名で、その国の総理大臣なり、大統領なりに宛てた文書を作成し、実際に郵送することです。それは、政府の側としては、官邸の郵便ポストに毎日届く大量の手紙の中の一通にすぎないものであり、まあたぶん、かなり確実に即ゴミ箱行きです。

そういう残念な結果に終わるであろうことは、その文書を書く人々の側でも、もちろん認識されています。それでも書こうというモチベーションが執筆者の中に保持されるのは、その人が書く文書には自分の属する教派・教団の人たちに対する「啓蒙活動」ないし「教化」としての意味があると思えるからです。

そしてまた、教会の「内向き」の文書に「対内的な政治的アジテーション」の意味は、なるほど確かにあるといえばあります。しかし、それは、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。私はいま皮肉や当てこすりを書いているのではなく、現実の教会が体験してきた事実を書いているだけです。

さて、くだんの「日本の教会の戦争協力」の問題に向かいます。当時の日本基督教団の「首脳部」(この表現おかしいですね)が発した文書が多くの人から糾弾の対象とみなされてきたことは、私もよく存じております。その人々を「かばう」意図は、私には皆無です。ただ、ここでの問題は、上記の二択です。

今考えているのは、70余年前の日本のプロテスタント教会の内部に起こった歴史的な事実は、かなり多くの人々がそう論じてきたように、はたして本当に、①バルト神学の受容「にもかかわらず」日本の教会の戦争協力だったのか、それとも、②バルト神学の受容「だからこそ」の戦争協力だったのか、です。

この二択において、あまりにも無批判に①を選択してしまう人たちの多さに、私は呆れる思いしかありません。まるでバルトとバルト神学は「常に正義」であるかのようです。この問題は、私にとってはどうしても見過ごすことができないものがありましたので、スレ汚しのコメントを書かせていただきました。

2015年1月29日

関口 康