私の読解力はきわめて乏しい |
しかし、そんないかにも見苦しい自己弁護を繰り返しさえすれば事が足りるというわけではありえないことに、今夜ふと気づく。単純な話だ。それでは逆に、教師と学校があれば、字で書かれた本は要らないのかと考えてみた。本が紙でできているかPCやタブレットの画面かは、この際どうでもいいことだ。
字だけにこだわるものでもなく、写真や絵は大いに加えられてよい。ただ、音声や動画は、相当迷うところだが、話を単純にするなら、別にしておくほうがよさそうだ。しかし、音声や動画も、「本さえあれば誰でも分かるというなら教師と学校は要らない」という論理の中でいえば「本」の側だと私は思う。
「本を読んでも分からない」数多くの理由の中の一つは、本には著者が書かないことがあるからだ。考えることはできる、口では言える、黒板に書くことくらいはできる。だけど、印刷して配布する、書店で販売する、家庭の書斎や図書館に長期保存される物体になるようなものには書くべきでないことがある。
著者が本には書かないことがある。「だから」教師と学校が必要だ。ナマの語りが大切だ、トークライヴが必要だと、私は確かに考えてきた面がある。しかし本当にそうだろうか。教師と学校は本当に必要だろうか。もちろん無くては困るだろう。しかし教師と学校は我々にとって「どれくらい」必要だろうか。
教師と学校は我々にとって「どれくらい」必要かという問いは教会や宗教の話とダイレクトに結びつけないほうがいいかもしれない。しかし、そこはお許しいただこう。教会に一生通わない人はいくらでもいる。牧師の説教など聞いたことがない人も少なくない。それで困ったという人の話をほとんど聞かない。
教会がこれほど無視されうる存在なのであれば学校はどうか。「本さえあれば(紙でできているかどうかは問わない)教師も学校も要らない」。そういうことをもっと明言しうる可能性はないのだろうか。ただしいま書いているのは「教師不要論」や「学校廃止論」ではない。「字の可能性」を肯定することだ。