2014年10月31日金曜日

ファン・リューラー著『キリスト者は何を信じているか』の日本語版とドイツ語版と原著オランダ語版の関係についての疑問点

ファン・「リューラー」著『キリスト者は何を信じているか 昨日・今日・明日の使徒信条』という本の日本語版と、日本語版が「底本」にしたドイツ語版の関係については、以下のことを申し上げることができます。

ファン・ルーラーの使徒信条黙想『われ信ず』の初版(1968年)と第三版(1971年)の内容は同一

(1)この写真に写したのは、ファン・ルーラーの使徒信条講解(正確に言えばmeditatie、黙想です)の原著オランダ語版の第一版(1968年)(左)と第三版(1971年)(右)のコピーです。この両方を私は持っています。この第一版(1968年)と第三版(1971年)は内容は全く同じです。何の加筆・修正もありません。

(2)ファン・ルーラーが死去したのは、この使徒信条講解の第一版(1968年)と第三版(1971年)の間の「1970年12月15日」です。それ以降の原著者ファン・ルーラー自身による加筆・修正は不可能です。

(3)ドイツ語版が出版されたのは「1972年」です。出版月までは分かりません。

(4)ドイツ語版の「訳者序文」の脱稿日は「1971年夏」と記されています。そして、その「訳者序文」の中に、以下の記述があります。

「1970年12月、本書の著者は突然の逝去(まだやっと62歳であった)により、予定していたドイツ語版の序文を残念ながら自ら書くことができなくなった」(日本語版より引用)。

(5)しかし、ドイツ語版訳者は、この「訳者序文」の中でオランダ語版との違いの問題については全く触れていませんし、原著者であるファン・ルーラーがドイツ語版にどの程度関わったかについても全く触れていません。

(6)いちばんお人好しの解釈を選ぶとすれば、原著者ファン・ルーラーが1968年の第一版出版から突然死去する1970年までの2年間かけて、ドイツ語版訳者クヴィストルプと綿密な連絡を取り合い、すべての訳文をチェックし、すべて問題ないとゴーサインを出し、クヴィストルプにドイツ語版出版の全権を委任していた、という可能性です。20%にも及ぶ「敷衍・拡張」もすべてファン・ルーラーが責任をもって書いた部分であって、クヴィストルプは1970年12月の原著者の突然の死去以降は、そのドイツ語版テキストに何一つ加えてはいない、という可能性です。

(7)しかし、それならそうと、ドイツ語版訳者は、はっきり書くべきでした。このドイツ語版テキストはすべてファン・ルーラーのチェック済みのものであると、そのように「訳者序文」に明記すべきでした。しかし、そういう言葉は全く出てきません。

(8)いま私が言いたいことは、日本語版の底本にされたドイツ語版は「そういうテキスト」だった、ということです。ファン・ルーラーがドイツ語版に関わった可能性は大いにあると思いますが、ドイツ語版の出版時(1972年)には原著者ファン・ルーラーはすでに死去していたので、原著者自身が決定稿の最終チェックをした可能性は「ゼロ」なのです。

(9)つまり、言い方を換えれば、ドイツ語版における「敷衍・拡張」の部分にファン・ルーラーがどれくらい関わったのか、全く関わらなかったのかを客観的に論証する方法がないということです。その「根拠」を知っているのは、ドイツ語版訳者クヴィストルプただ一人だけです。そういうやり方ならば、ある意味で、ドイツ語版訳者の意のままに「敷衍・拡張」が可能であると、どうして言えないでしょうか。だれも客観的に論証できない、ドイツ語版訳者ただ一人だけが知っている「根拠」は、学問的に信頼しろと言われても無理なものでしょう。

(10)しかし、いまの我々にとっての問題は、ドイツ語版とその訳者のやり方の問題というよりも、そのような学問的に信頼することがきわめて難しいドイツ語版を、なんと無邪気に「底本」にしてしまう日本語版訳者の軽率さです。あまりにも拙速すぎます。学問的に信頼できないものを根拠にして、その上にどんな学問を築き上げていくことができるのでしょうか。

私の言いたいことは、だいたい以上のことです。