現在刊行中の『ファン・ルーラー著作集』(左)と1970年代に出版された『神学論文集』(右) |
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序
「ファン・ルーラー研究会」の15年半の歩みを締めくくるに際し、今までお世話になった皆様に、心からの感謝を申し上げます。
私がファン・ルーラーの重要性を認識した瞬間は、高崎毅志牧師と1993年頃に交わした会話です。
高崎「きみは改革派神学に興味があるらしいな。何を読んでいるんだよ」
関口「私は日本語に訳されたものしか読めません。ウォーフィールドとかメイチェンとかカイパーとかバビンク(バーフィンク)とかですね。あとは岡田稔先生の本くらいです」
高崎「なんだ、ずいぶん古いな。今の現実に全く対応できていないものばかりだ」
関口「それでは何を読めばよろしいのでしょうか」
高崎「きみ、ファン・ルーラーだよ」
関口「ええっ!興味ありますけど、オランダ語ですよね。読めないですよ」
高崎「何言ってんだ、ばか野郎。あのな、組織神学やる人間は自分の読みたい本の語学をやるもんなんだよ。神戸(改革派神学校)の牧田くんは、ファン・ルーラーをちゃんとオランダ語で読んでるぜ。甘えるんじゃないよ」
関口「は、はい、すみません。分かりました。オランダ語、これから勉強します」
ファン・ルーラーへの関心はありました。東京神学大学の学士論文と修士論文の指導教授であった近藤勝彦教授が『神学』に書いた論文が、『歴史の神学の行方―ティリッヒ、バルト、パネンベルク、ファン・リューラー―』(教文館、1993年)にまとめられていました。しかし、近藤教授は複数の論文や個人的な会話の中で「私はオランダ語ができない。ジョン・ボルト訳のファン・ルーラーの英語版論文集しか読んでいない」と明言していました。私もオランダ語には全く接点がありませんでした。
しかし、高崎牧師との会話以来、ファン・ルーラー研究への足がかりを求めるようになりました。1997年1月に神戸改革派神学校の家族寮に入寮し、牧田吉和校長と市川康則教授の「改革派教義学」を聴講するようになったことも、高崎牧師との会話と無関係ではありません。
前史
ここから場面は神戸改革派神学校の校長室に移ります。時に1997年1月。同年4月より同神学校の二年次に編入することが決まった私が書くべき卒業論文のテーマを牧田吉和校長と相談する中で私が「ファン・ルーラーの研究をしたいです」と言いました。牧田校長の答えは「オランダ語だよ?」という一言でした。すぐに凹みました。英語版があるバーフィンク『神論』を研究することにしました。
同年3月、異変が起こりました。宮平光庸氏(西南学院大学神学部の宮平望教授の父)がジョン・ボルト訳のファン・ルーラーの論文集のコピーを抱えて神戸改革派神学校の校長室を訪ね、「この本に感動しました。ぜひ神学校でゼミを開いてください」と牧田校長に申し入れました。そのとき、私も校長室に呼ばれ、相談の結果、一緒にその本を読むことになりました。
同年4月、牧田吉和校長の指導による神学校正規の「組織神学セミナー」が開かれました。最初のメンバーは関口康、宮平光庸氏、望月信、朝岡勝、石原知弘、弓矢健児の各神学生、そして神学校で教理史を担当していた日本改革長老教会の坂井純人牧師でした。
研究方法は、学生が英語版論文集に基づいて訳文を作って配布して全員で読み、牧田校長が原著を見ながらチェックし、訂正と解説を加えていくものでした。私が神学校を卒業するまでの1年3カ月間に読んだのは、英語版論文集の最初の二つ、「三位一体論的神学の必要性」と「キリスト論的視点と聖霊論的視点との構造的差異」でした。
私は1998年5月に「A. A. ファン・ルーラーの三位一体論的神学と参加的思惟」という卒業論文を提出し、同年6月、後ろ髪引かれる思いで神戸改革派神学校を卒業しました。同年7月、山梨県甲府市の日本キリスト改革派教会の牧師になりました。
「組織神学セミナー」でゼミ生が配布しあったレジュメ |
結成
私の卒業後も神学校で「組織神学セミナー」が継続されました。英語版論文集の第三論文「聖霊論の主要線」が読まれていました。しかし、私は参加できません。無念でした。悔し紛れに思いついたのがインターネットを利用することでした。
山梨の教会の初任給で、当時発売されたばかりの「ウィンドウズ98」搭載パソコンを購入しました。パソコン購入直後、東京神学大学の同級生の清弘剛生牧師にメールを送りました。インターネットの「メール」をだれかに送るのは初めてでした。
清弘牧師は最先端を走っていました。毎週の礼拝説教を配信する「ウェブチャペルウィークリー」というメールマガジンを、その数年前から発行していました。そのことを私は知っていました。清弘先生ならインターネットを神学研究に利用する方法をご存じに違いないという期待をもった久しぶりの連絡でもありました。
さすが清弘先生でした。すぐに「メーリングリストという方法があるよ」と教えてくださいました。清弘先生は東京神学大学大学院では左近淑教授のもとで旧約聖書神学の修士論文を書いた方ですが、「ファン・ルーラーを読みませんか」と持ちかけたところ、快く応じてくださいました。清弘先生は早稲田大学大学院修了後に就職した会社でオランダのハーグで研修があったことや、組織神学を勉強したいと思っていたところだったと返信してくださいました。そして「ウェブチャペルウィークリー」で得てきたノウハウを伝授してくださいました。
メーリングリストを立ち上げることにしました。最初のメンバーは、清弘先生と私の2人でした。その後、やはり東京神学大学で同級生であった土肥聡牧師と生原美典牧師を誘い、この4人で始めたメーリングリストに1999年2月20日、「ファン・ルーラー研究会」と命名しました。
その日から始めたことは勧誘でした。神戸改革派神学校で継続されていた「組織神学セミナー」のメンバーに加わっていただくことを優先しました。当時の本音をいえば、神戸から遠い山梨県にいる私としては神戸改革派神学校の「組織神学セミナー」の進捗状況を知らせてほしかったのです。訳文ができたところから送ってもらいたかったのですが、その願いはかないませんでした。
結成してまもなくの頃のメーリングリストのやりとりの内容は、清弘先生と私が交互に訳文と原文と解説を書いたメールをリストに流し、互いにチェックしあうというきわめてシンプルなものでした。その方法で全訳した論文は「地上の生の評価」、「モーセの律法の意義」、「説教の定義」の三つです。その他、長期連載になったものとしては、ゼカリヤ書説教集の清弘先生訳、ポール・フリーズ博士の学位論文の村上恵理也先生訳などが、研究会としての初期のものです。
私も清弘先生もオランダ語を全く知らないまま立ち上げたメーリングリストでしたので、「蘭学事始」さながらでした。同時進行でオランダ語、オランダ教会史、オランダ政治史などの資料を見つけては紹介しました。やりとりしたメール数は、全期間で約2600通でした。
発展
1999年2月20日の結成後、「ウィンドウズ98」以来のインターネットの爆発的普及との連動に成功しました。メンバー(メーリングリスト登録者)は、結成3周年(2002年2月)には70名、5周年(2004年2月)には90名超、6周年(2005年2月)には100名超になりました。最後は108名を数えました。メンバーの所在地として確認できたのは北海道、青森県、宮城県、栃木県、群馬県、千葉県、埼玉県、東京都、神奈川県、静岡県、山梨県、長野県、石川県、岐阜県、愛知県、奈良県、大阪府、兵庫県、岡山県、香川県、高知県、台湾、オランダ、イギリス、アメリカ、カナダです。
爆発的なメンバー増加に対応するために、研究会を運営する組織の必要性を痛感し、2000年10月に「世話人会」を立ち上げました。最初の世話人は5名。代表・関口康、書記・清弘剛生、顧問・牧田吉和、朝岡勝、石原知弘の各氏でした。その後、会計・弓矢健児、栗田英昭、田上雅徳、阿久戸光晴、横川寛の各氏が世話人に加わってくださいました。
海外のファン・ルーラー研究者との連絡関係もインターネットで作られました。やりとりがあったのはオランダのヘリット・イミンク教授、ファン・ルーラーの三女ベテッケ・ファン・ルーラー教授、J. M. ファント・クルイス博士、H. オーステンブリンク・エヴァース博士。アメリカのポール・ロイ・フリーズ教授、アラン・ジャンセン博士。ナミビアのクリスト・ロムバルド教授。そして南アフリカのガース・ホドネット博士です。
研究会の最盛期には、以下のセミナーを開きました。
2001年 9 月 3 日(月) 第 1 回セミナー(日本キリスト改革派園田教会)
2002年 9 月 2 日(月)・ 3 日(火) 第 2 回セミナー(熱海網代オーナーズビラ)
2003年 9 月 1 日(月) 第 3 回セミナー(日本キリスト改革派東京恩寵教会)
2004年 8 月23日(月)・24日(火) 第 4 回セミナー(母の家ベテル)
2007年 9 月10日(月)・11日(火) 第 5 回セミナー(日本基督教団頌栄教会)
2014年10月27日(月) 最終セミナー (日本基督教団頌栄教会)
インターネットによって他の学会との関係も生まれました。世話人の田上雅徳氏の紹介でアジア・カルヴァン学会の野村信氏や久米あつみ氏がメーリングリストに参加してくださり、私と弓矢健児氏が同学会の運営委員会に加わることになりました。
ファン・ルーラー生誕100年を記念して2008年12月10日にアムステルダム自由大学で開催された「国際ファン・ルーラー学会」の準備委員会から私の名前と住所宛に招待状が届きました。私は日本から、またすでにオランダ留学を開始していた石原知弘氏と青木義紀氏が出席しました。国際学会のメイン講師はユルゲン・モルトマン教授でした。参加者の主な国籍はオランダ、ドイツ、アメリカ、南アフリカ、そして日本。私はモルトマンを含む200名の神学者の前で英語のスピーチをしました。
国際ファン・ルーラー学会(2008年12月10日、アムステルダム)でスピーチ |
限界
しかし、「ファン・ルーラー研究会」は、メーリングリストでした。メンバーが増加するにつれて、次第にインターネット特有のトラブルが増加し、活動の限界を痛感するようになりました。
トラブルの発端は、ほとんどの場合、私の投稿でした。私との面識がない方が増えてくるにつれ、メンバーが所属する教派・教団の立場の違いなども関係して、顔の表情が見えず感情の伝わりにくいメールの活字のやりとりの中で、私のほうに悪意は全くありませんでしたが、激突が起こりました。そのたびに退会する方がおられ、私のトラウマになりました。
また、ほとんど自覚がないのですが、インターネットの特性上、情報発信者(多くの場合が私)が把握しえない範囲まで情報が拡散していく中で、私のことを「ネットおたく」だ「引きこもり」だとラベルを貼っては「牧師としての本業がおろそかになっている」などと中傷している人々がいることを知らされるたびに、落胆しました。
やがて世話人たちの本業が移動時期を迎えました。研究会結成5周年の2004年4月に、私は山梨県の教会から千葉県の教会へと移動しました。その後も、清弘牧師は大阪から東京へ、牧田教授は神学校長を退任され高知へ、石原牧師は神戸からオランダへ、田上雅徳長老はオランダへ移動しました。中心的なメンバーが多忙になり、結成11周年の2010年頃にはメーリングリストのやりとりが完全に途絶えました。
それでも私は、研究会の不振の原因は「メーリングリストの機能上の欠陥」にあるととらえ、別の方法を考えようとしました。インターネットのやりとりはすべてやめて、メンバーから会費を集めて年一回の例会を行うか。あるいは、インターネットにとどまるとしても、メーリングリストではなく、ソーシャルネットワークサービス(ミクシイやフェイスブックなど)で行うか。いろいろ考えました。しかし、どの方法もうまく行かないことを察知し、断念しました。
そして今日の「最終セミナー」をもって研究会を解散することにしました。メーリングリストから出発した「インターネットグループ」としての歩みは、今日で終わります。
展望
しかし私の心の中に後ろ向きの思いはありません。ファン・ルーラー研究会は今日で解散しますが、各個人に力がついてきたことの証しです。これからは各自の責任でファン・ルーラーの翻訳と研究を続行します。初めから言っている我々の最終目標は日本語版『ファン・ルーラー著作集』の刊行です。我々は後退するのではなく、前進します。そのことを神の前で誓おうではありませんか。
これから我々は何をすべきか、また「何をしてはいけないか」については研究会の15年半の歩みの中に多くのヒントがあります。上記の回顧はヒントを見つけるために書きました。
15年半前はほとんどなかった「日本語で読めるファン・ルーラー研究文献」が増えました。2007年にオランダで新訂版『ファン・ルーラー著作集』(Verzameld Werk)の刊行が始まったことでファン・ルーラー研究熱が再燃しています。石原知弘先生がアペルドールン神学大学での5年間の留学を終了し、2013年に帰国しました。
「日本におけるファン・ルーラー研究」は、これからが本番です。
(2014年10月27日、ファン・ルーラー研究会最終セミナー、日本基督教団頌栄教会)