2014年10月26日日曜日

宗教改革の意義は何ですか

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂

マルコによる福音書4・21~34

「また、イエスは言われた。『ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。』また、彼らに言われた。『何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。』また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。』更に、イエスは言われた。『神の国は何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。』イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」

毎年10月31日の宗教改革記念日に近い日曜日に宗教改革記念礼拝を行っています。今日の礼拝はそのようなものとして行っています。

1517年10月31日、ドイツのカトリック修道士マルティン・ルターが当時のカトリック教会を激烈に批判する95か条の命題を書いた紙をヴィッテンベルクの城教会の壁に貼りつけたことをきっかけに、ヨーロッパ全土で宗教改革運動が始まりました。

なぜ10月31日なのかといえば、翌日の11月1日がカトリック教会の定める諸聖徒の日で、多くの人が教会に集まることをルターが知っていたからです。その人々に自分が貼りつけた一枚の紙を見てもらおうとルターが考えました。そのルターの目論見は成功しました。その一枚の紙が、その日から始まるプロテスタント教会の歴史を生み出しました。

それが1517年です。今年は2014年です。3年後の2017年に宗教改革500年という記念すべき日を迎えます。2020年に東京オリンピックが行われることになりました。しかし、その前に迎える2017年がわたしたちにとって重要な年になります。全世界で多くの記念行事が行われるでしょう。

500年はずいぶん長い歴史です。まさに一つの伝統と呼ぶにふさわしい歴史を刻んできました。世界史の中に「宗教改革の伝統」が確立しました。それは非常に大きな影響力を持っています。

その伝統の中心にあるのが「プロテスタント」と呼ばれる教会です。「プロテスタント」とは「抗議する者」という意味です。それはもちろんカトリック教会に抗議する者という意味です。その「プロテスタント」の教会の中に、わたしたち改革派教会も含まれます。

「改革派」というのも「カトリック教会を改革した」という意味です。改革派教会はリフォームド・チャーチと言います。リフォームドというのは過去形です。「改革した」または「改革された」です。その言葉だけでいえば、宗教改革はすでに完了している、もう終わっているという意味になります。

しかし宗教改革の伝統は終わったわけではありません。現実の歴史はそうなっていません。500年前の宗教改革の結果どうなったでしょうか。カトリック教会がなくなったわけではありません。今日に至るまで世界大の規模を持つ巨大な教会としての歩みを続けています。現実の歴史はカトリック教会からプロテスタントの教会が分離しただけです。

それでは世界のキリスト教はカトリックとプロテスタントの二種類なのかというと、そういうことではありません。そのようなことを言おうものなら、すぐに激しく叱られます。少なくとももう一つ、ロシアやギリシアを中心とする「オーソドックス」と呼ばれる大きな流れがあることを決して忘れてはなりません。

それではプロテスタントの教会は完全に一致している一枚岩のグループでしょうか。全くそうではありません。プロテスタントはばらばらです。小さなグループが無数にあります。そして多くの場合、互いに対立し、いがみ合っています。それはかなりの面で悲しい現実であると言わざるをえません。

しかしまた、プロテスタントの教会がばらばらの状態であることは、単に悲しい現実であるとだけ考える必要はない面もあります。見方を換えれば、プロテスタントの教会は自由であるということを意味しています。

どこか一つの国の一つの教会が組織上の頂点の位置に君臨し、他の教会を支配し、統制するというあり方をプロテスタントの教会は嫌います。それぞれの教会が置かれている国や社会や文化の違いを重んじ、それに自らをできるかぎり溶け込ませ、適応していく能力が非常に高いことがプロテスタントの教会の特徴でもあります。

そして、それだからこそ、プロテスタントの教会は、500年に近づく伝統の中で、教会に通う人たちだけに影響を与えてきたのではないと語ることができます。教会を発信源にしながらも、それぞれの教会が置かれている国や社会や文化の中に溶け込み、浸透する形で、教会の外の人々に多大な影響を与えてきました。カトリック教会やオーソドックスの教会はそうでないという意味ではありませんが、プロテスタントの教会は、自ら率先してそのようなあり方を選んできました。

たとえば、現代社会の民主主義はカトリックやオーソドックスの教会以上にプロテスタントの教会が推進してきたものです。日本国憲法は、ヨーロッパやアメリカのプロテスタントの人々の影響なしには成り立ちえなかったものです。

憲法で民主主義をうたう国になって70年になろうとしている日本国内に、依然としてキリスト者がほとんどおらず、国民のわずか1%にとどまっていることは、もちろん残念なことです。教会の無力さを痛感するばかりです。しかし、見方を換えれば、宗教改革の500年の伝統は、「教会」だけを生んできたわけではないとも言えます。プロテスタントの国、社会、文化を生み出してきました。

教会に集まるのは、ほんの一握りの人々だけかもしれません。しかし、教会に集まっているわたしたちが信じているこの教えは、教会の外の世界に非常に大きな影響を与えてきましたし、今でも与え続けています。

名前の問題だけにする意図はありませんが、「プロテスタント」にせよ、あるいは「改革派」にせよ、カトリック教会のあり方を批判する教会であるという意味が込められている名前であることは間違いありません。しかし、だからといって、現代のプロテスタントの教会、現代の改革派教会が存在する理由や目的がいつまでもカトリック教会と対立することだけであるということはありえません。今のわたしたちはもっと別のことを考えていますし、考えなければなりません。

今のわたしたちの目は、カトリック教会がいかに間違っているかを指摘し、批判するために用いているわけではありません。そのようなことばかりに終始するのは空しいばかりです。なんら生産的なものはありません。むしろ、わたしたちの目は、教会の外に向いていなければなりません。

しかし、それは、教会に通わない人たちをにらみつけて批判することではありません。どうして教会に来ないのか、どうして来ないのかと、文句を言うためににらみつけることではありません。そうすることによって教会に通う人が増えるならば、そうすることのすべてが間違っているとは言えないかもしれませんが、それは無理な話です。そういうことをすれば、かえってますます教会から人を遠ざけることになるでしょう。

宗教改革の伝統は、カトリック教会を批判し、抗議し、改革する教会だけを生み出してきたのではなく、むしろそれ以上に、それぞれの教会が置かれている国や社会や文化の中に溶け込み、浸透していくことをめざす教会を生み出してきました。そのことを考えるならば、これからわたしたちの教会が取り組まなければならないことは、おのずから見えてきます。

それは、要するに、この国、この社会、この文化を良くすることです。不当な支配や差別や束縛、間違った政治から人を救い出し、真に自由にすることです。プロテスタントの教会、そして改革派教会はそのことを目指してきました。わたしたちは、改革派教会を名乗るかぎり、そうでなければなりません。国や社会や文化の中に入り込んでいかなければなりません。そういうのは俗世間に染まることである、この世の流行に迎合することであるなどと、考えるべきではありません。改革派教会は、そのような立場をとりません。

今日もマルコによる福音書を開いていただきました。今日の個所でイエスさまがおっしゃっているのはほとんど一つのことです。ともし火、秤、成長する種、からし種。これらのものがたとえているのは、聖書に基づく神の御言葉のことであり、説教のことです。

とくに、最後のからし種のたとえの意図は、よく分かるものです。からし種は、小さなものです。大きさや規模においては取るに足りない些細なものです。説教はある意味でだれでもできることです。いま私がしているのも説教です。原稿を書いてそれを読んでいるだけです。しゃべっているだけです。口しか動いていないと言われれば、そのとおりです。学校の勉強のほうがはるかに難しいし、会社の仕事のほうがはるかに大変です。

500年前にルターが最初に貼りつけたのも一枚の紙です。一生懸命勉強して書いた紙かもしれませんが、紙は紙です。丸めて捨てれば、ただのゴミです。しかし、それが歴史を変える力になりました。教会を改革し、国や社会や文化を変える力になりました。

しかし、今しているのは私の話ではありません。神の御言葉は、説教は、その一回一回は、取るに足らない些細なものです。今のわたしたちは少人数です。しかし、礼拝や集会の規模が何千人、何万人になったとしても、その一回一回の説教は小さなものです。しかし、それがからし種のように時間をかけて大きく成長するのです。

悪い地に蒔かれた種は実りません。良い地に蒔かれた種は芽生え育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になります。

しかし、悪い地なのか良い地なのかは人の違いではありません。実を結ばないのは私が悪い地だからであると思い悩む必要はありません。御言葉を今は受け入れられないかもしれません。しかし、いつか必ず受け入れることができる日が来る。このわたしにも神の御言葉を聞く耳を持つことができる日が来ると、どうか信じてください。

御言葉を受け入れたその日から、あなたは大きな実を結ぶようになります。あなたの努力ではなく、神の御言葉そのものが持つ力が、あなたを用いて豊かな実を結ぶのです。

(2014年10月26日、松戸小金原教会主日礼拝)