2014年10月23日木曜日

カール・バルトの神学の構造上の致命的欠陥はどこにあるか

バルト(左)とファン・ルーラー(右)

カール・バルトの神学の問題点については、自然神学に対する対応のまずさ、宗教や歴史という「人間的な」営みに対する低い評価など、これまでいろいろと指摘されてきました。

それら一切の原因はバルトの神学の構造上の致命的欠陥にあると、私はファン・ルーラーと共に考えています。

いちばんの基礎の土台がおかしい。その上にすべてのアプリをのせていくOSそのものに深刻なバグがある。その上に何をどれだけのせても、その深刻すぎるバグの部分からすべてが壊れていく。

その根本原因は、バルトがキリスト論と聖霊論の関係を「客観性」(Objectivity)と「主観性」(Subjectivity)の関係としてとらえたことにあります。

あの二千年前のゴルゴタの十字架において<客観的に>成就したキリストにおける贖いのみわざ(Redemptio)が、聖霊において<主観的に>現在の我々に適用される(Applicatio)とやる。

これはバルトが発明した論理であるわけではなく、ごく伝統的な考え方であるといえば、そのとおりです。

しかし、このキリスト論と聖霊論の関係を「客観-主観図式」で説明してしまいますと、両者の関係が平板な一直線の関係になりますし、まるで鏡面に写した自分の姿のように同一物の反復にすぎないものになってしまうわけです。

そうなりますと、聖霊論のカテゴリーの中から「時間」ないし「歴史」という次元がすべて抜け落ちてしまいます。人間の営みや文化は、全く意味も位置も持ちえなくなります。

二千年の教会史も、教会制度も、もちろん牧師や長老や教会員の存在や努力なども、教会の青年会やキャンプやリトリートなども、キリスト教国の歴史も、エキュメニカルな対話も、全く無意味になります。

そのような(客観的な)「キリスト」と(主観的な)「このわたし」の間に介在する一切のものは無意味・無価値と化し、時間が停止した真空の宇宙空間の中に「キリスト」と「このわたし」だけが漂っているかのようです。

それを「救い」と思える人にとっては幸せな状態かもしれませんが、あくまでもすべては「論理」の話です。

神学と説教における「論理」が「キリスト」と「このわたし」の関係を、その間に介在する存在は一切ないものとして保証するとしても、それは幻想(イリュージョン)にすぎません。

日曜日の礼拝中、説教中は、涙を流して感動し、興奮状態になったとしても、「このわたし」の現実は何一つ変わっているわけではないし、「このわたし」には日曜日以外の週日も生きていかなければならない責任があるのです。

我々は、バルトが神学的論理によって締め出したものの只中で、生きていかなければなりません。

論理の力というのは、実に恐ろしいものです。人間の営みや文化に意味も位置も与えられない神学の論理は、人を「神学的に」絶望に追いやることさえありえます。ガチで死にたくなる人がいてもおかしくないレベルです。

こういうことになってしまうのは、キリスト論と聖霊論の関係を「客観性」と「主観性」という関係でとらえることを神学の議論の一切の出発点としているためです。

神学の根本構造に「絶望の論理」が潜んでいるのであれば、高層建築物の耐震偽装問題に匹敵するヤバさがあります。

バルトがキリスト論と聖霊論を「客観性」と「主観性」の関係でとらえることの問題性をファン・ルーラーが指摘した最初の彼の論文は、1947年に提出・出版された神学博士号請求論文(フローニンゲン大学神学部)である『律法の成就』(De vervulling van de wet)です。

1940年代ですよ。70年近く前です。バルトの神学の全盛期というべき只中での勇気ある指摘でしたが、案の上というべきでしょう、ほとんど無視されました。当時も、そして現在に至るまで。

モルトマンはファン・ルーラーの『律法の成就』はちゃんと読んだようです。モルトマンの水平的終末論は、かなりファン・ルーラーの影響があっての発想だと思われます。影響関係は明らかです。