日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂 |
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マルコによる福音書4・35~40
「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」
いまお読みしました個所に描かれているのは、イエスさまがガリラヤ湖に浮かぶ舟の中におられたときに起こった出来事です。そのとき、イエスさまと共に弟子たちも舟に乗っていました。
イエスさまはなぜ舟に乗っておられたのでしょうか。イエスさまご自身が「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われ、弟子たちがそのとおりにしたからです。それではイエスさまはなぜ「向こう岸に渡ろう」と言われたのでしょうか。それはもちろん伝道のためです。
「向こう岸」とはガリラヤ湖のカファルナウム側とは反対の場所を指しています。カファルナウムにはイエスさまが滞在されていたシモン・ペトロの家がありました。安息日ごとにそこでイエスさまが聖書の御言葉に基づく説教をなさった会堂がありました。週日にはカファルナウムの町の大勢の人がイエスさまのもとに集まっていました。そのような活動を通してイエスさまは、カファルナウムの人々の信頼を獲得して行かれました。
もっともその人々は、イエスさまを神の御子であられ真の救い主であられる方であるというふうな意味で信仰していたとまでは言えない状態だったと思います。興味があるという程度であったと言うべきでしょう。しかし、とにかくこの方はなんだかすごい方である。困っている人を助けてくださる。病気の人をいやしてくださる。孤独な人の友達になってくださる方である。あの手で触っていただくだけで病気がいやされる。そういうすごい力をお持ちの方であるというふうに見ていました。
しかし、マルコによる福音書が描いている時間の流れに基づいて言えば、これまでの時点ではまだイエスさまはガリラヤ湖の向こう岸には行っておられません。ですから、これから行くのは、いわば初めての向こう岸です。目的はもちろん伝道です。そして伝道の目的は、カファルナウムでなさったのと同じです。場所が変われば、することも変わるということではありません。それは聖書の御言葉に基づいて説教することです。そして、困った人を助け、病気の人をいやし、孤独な人の友達になることです。
しかし、だからこそイエスさまはガリラヤ湖の向こう岸に渡ることを弟子にお命じになりました。伝道の範囲を拡大することになさったのです。それはカファルナウムでの伝道はもう終わった、もう十分であるということではありません。カファルナウムにもまた戻って来られます。しかし、伝道の範囲を広げることになさった。そのためにイエスさまはガリラヤ湖の向こう岸に渡ることになさったのです。
なぜ私はこういう話をしているのかといいますと、いま申し上げたことを理由にすることができるかどうかは微妙な面があるのですが、この個所を読みながら私が考えたことは、イエスさまが嵐の中だったのに、なぜぐっすり眠っておられたのかということです。その答えはわりとはっきりしていると思います。イエスさまは、これから始まる新しい伝道の準備をしておられたのです。
その準備に当たるのがぐっすり眠ることです。冗談のように聞こえるかもしれませんが事実です。伝道の準備として重要なことは、よく眠ることです。疲れた状態で伝道することはできません。
マルコはこの出来事が起こった時間帯が「その日の夕方」(4・35)であったことをわざわざ書いています。日の高い真昼の時間帯に眠っておられたわけではありません。ガリラヤ湖のカファルナウム側の岸辺に集まった多くの人々に説教なさった日の夕方であったことをマルコはわざわざ明記しています。人前で話をするのは疲れることです。イエスさまも肉の体を持っておられますので、お疲れになります。だから眠っておられました。眠ること自体を責められる理由はありません。
そして、このときのイエスさまにとって大切だったことは、ガリラヤ湖の向こう岸で伝道するために準備なさることでした。だからぐっすり眠っておられました。理由はそれだけです。イエスさまに悪意などは全くありません。
ところが、弟子たちは違いました。嵐が始まったとき、自分たちがおびえ、うろたえている状態であるにもかかわらず、イエスさまおひとりが「艫の方で枕をして眠っておられた」(38節)ことが気に食わなくて気に食わなくて仕方ない思いになりました。それで、ぐっすり眠っておられるイエスさまをわざわざ揺すって起こしました。そして起きたイエスさまに文句を言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。
弟子たちの中の誰がこんなことを言ったのかは書かれていません。同じ内容のことが書かれているマタイによる福音書にも、ルカによる福音書にも、こんなことをイエスさまに言った弟子は誰だったのかは記されていません。すべて「弟子たち」と複数形で書かれています。複数の弟子、または弟子の全員が、イエスさまにこんなことを言ったのです。
しかし、私には少し気になることがあります。それは、このとき弟子たちが言った「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という言葉の中の「わたしたち」の中にイエスさまのことが含まれているのかどうかという点です。
イエスさまも舟に乗っておられたわけです。舟が転覆すれば当然イエスさまも湖に投げ出され、おぼれて死んでしまいます。嵐の中で舟が波をかぶって水浸しになるほどの状態であったと記されています。それほどの状態であれば、いくらイエスさまがお疲れになっておられたとしても、ご自分の身に危険を感じるほどの状態かどうかくらいはお分かりになったはずです。
このように考えることは間違っているでしょうか。イエスさまは気絶しておられたのでしょうか。あるいは、イエスさまという方はよほど鈍感で、一度眠ってしまわれれば、ご自分の身に危険が襲いかかってきているどうかを全く察知できないほどの深い眠りにおちいられるような方なのでしょうか。いくらなんでもそんなことはないと、私は思うのです。
私は3年半前の震災のことをもちろんよく覚えています。あのときは昼間でした。私も家族も当然起きていました。娘は学校にいました。ですから、あのときの恐怖ははっきり覚えています。20年前の阪神淡路大震災のとき、私はたまたま岡山に主張で、前の晩から岡山の実家にいました。あのときは早朝でした。岡山は震源地の隣の県ではありましたが、大きな揺れはありませんでした。しかし、目くらいは覚めました。「揺れているなあ」とすぐ気づきました。
人間の体はそのようにできています。自分の身に危険が迫っているかどうかは眠っていても分かるものです。目が覚めます。イエスさまは全く気づかなかったのでしょうか。そんなことはないと思うのです。
この一ヶ月ほどの間は、あまり地震がなかったように思います。しかし、その前はけっこう頻繁に地震がありました。大きな地震ならば、眠っていても目が覚めるものです。もちろん気づかなかったときもあったでしょう。それは、よほど疲れていたからかもしれません。しかし、目を覚ますほどの危険はないとわたしたちの体が判断した面もあったでしょう。
なぜ私はこのような話をしているのかといえば、イエスさまという方はいったん眠ってしまわれれば、ご自分の身に迫る生命の危険にも気づかないほど鈍感な方だったのでしょうかということをぜひ考えていただきたいからです。そんなことはないと私は思うのです。
イエスさまはわたしたちと全く同じ肉の体を持っておられる方です。全く別次元の全く異なる肉体をお持ちの方だったわけではありません。そのことをわたしたちはよく考える必要があります。
それで私が先ほど申し上げたのは、弟子たちがイエスさまに言った「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という言葉の中の「わたしたち」の中にイエスさまは含まれていたでしょうかということです。もちろん、含まれていたと考えることもできます。しかし、含まれていなかったと考えることもできます。
もし含まれていなかったとしたら、どういうことになるのでしょうか。このとき弟子たちが眠っておられるイエスさまに起きていただいたのは、イエスさまならばこの危機を必ず乗り越えてくださるであろうという期待や信仰をもっていたわけではなく、八つ当たりをしたかっただけだということになります。彼ら自身が不安になり、恐怖におびえていただけです。その不安、その恐怖をイエスさまにも分かってほしかっただけです。一緒におびえてほしかったのかもしれません。
弟子たちの中には、シモンやアンデレ、ヤコブやヨハネという元漁師だった人もいました。彼らにとっては舟や湖は専門領域です。彼らがいるなら、わざわざイエスさまに起きていただく必要はないでしょう。イエスさまに文句を言う必要はないでしょう。自分たちの手でなんとかすればいいのです。しかし、そうではなかった。自分たちが怯えているのに、そのことを無視して眠っておられるように見えたイエスさまのことが許せなかったのです。
このような弟子たちの心理状態を、いまの心理学者ならばどのように名付けるのでしょうか。私は心理学の知識がほとんどありませんので分かりません。
恐怖心を持っている人が、持っていない人の存在を許せず、自分と同じ恐怖心を持たせようとする。自分だけが恐怖心を持っている状態であることが我慢できず、恐怖心を持っていない人まで巻き添えにしようとする。このときの弟子たちの心の中にあったのは、そのような心理状態だったと思われます。
イエスさまはそれらすべてをお見通しでした。起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われました。すると、風はやみ、すっかり凪になりました。
そして、弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。イエスさまがお叱りになったのは風と湖であると聖書には書かれていますが、それだけではないように思います。むしろ、イエスさまは弟子たちをこそお叱りになりました。「黙れ。静まれ」。
危機的な状況はあります。その中で不安になることが悪いわけではありません。不安で眠れない夜もあるでしょう。しかし、危機の只中でこそ、わたしたちは落ち着く必要があります。ただおびえ、ただ騒ぐだけでは、何一つ解決しません。
(2014年11月2日、松戸小金原教会主日礼拝)