2014年10月21日火曜日

日記「これを俗に『渡りに船』というわけです」

青野太潮先生の『十字架の神学の展開』(新教出版社、2006年)

本日(2014年10月21日)、「2014年度第6回 十字架の神学研究会」(於千葉英和高校)において、青野太潮著『十字架の神学の展開』(新教出版社、2006年)「第1部 第5章 パウロの神中心主義」を読みました。

この章で青野先生が取り上げておられるのは、新約聖書・コリントの信徒への手紙一15・23~28の釈義問題です。この個所の「主語」は神なのか、それともキリストなのか、という難問です。

結論についてのネタバレはしないでおきます(ぜひ本を買ってください。定価3,700円(税別)です)。

しかし、私がいたく感動した点だけ申し上げます。

青野先生の釈義上の結論は、1940年代にファン・ルーラーがこの個所を取り上げて釈義したときの結論と軌を一にしています。

青野先生がこの個所についての精緻きわまる厳密な釈義に基づいて、この個所を「キリスト論的集中」の論理をもって釈義する人たちに対する明確な批判を語っておられるその結論そのものが、ファン・ルーラーの結論とかなりの面で一致しています。

1940年代のファン・ルーラーの釈義は青野先生の釈義と比べればプリミティヴなものでした。当時全盛期の只中であった「キリスト論的集中」の人たちに一蹴され、無視されました。

しかし、21世紀の青野先生の釈義は、ファン・ルーラーのプリミティヴな釈義を厳密さにおいて圧倒的に凌駕しながらも、結論は同じであるという意味で、両者の呼応関係が成立しています。

これを俗に「渡りに船」というわけです(ちがうと思う)。

実は、昨日です。ある方から電話があり、「ファン・ルーラーについて話してほしい」という依頼をいただきました(来週月曜日の「ファン・ルーラー研究会最終セミナー」ではありません)。

その電話をいただいたとき、私の心にすぐに思い浮かんだのが、この個所(コリントⅠ15・23~28)についてのファン・ルーラーの釈義が今日に至るまで激しい批判にさらされていることについて、「いつかファン・ルーラーの代わりに抗弁しなくてはならない」と私自身がずっと前から考えてきたことでした。

しかし、抗弁のための根拠をどうしたら固めることができるのかが分からないままでした。

やっとめぐりあえました。

青野先生、ありがとうございます。私、やります(大丈夫か)。