2014年10月24日金曜日

「種まきのたとえ」の意味は何か

(この画像は記事の内容とは関係ありません)

キリストの種蒔きのたとえが「こっちはいい説教してるのに、受け取り側の問題で信じる人と信じない人が出るのはやむをえない」というような理解のされ方をするのは無理もないことですけど、本当にその読み方でいいのかと、最近の説教で考え直してみました。そんなことをキリストが言うでしょうか。違う気がするんです。

私が実際にした説教のネタバレをしないとアンフェアな気がしますので、明かします。私は単純に(単純か?)、あのたとえに出てくる4つの地(道端、石地、茨、良い地)を「同じ一人の人間の、日々変わる心の状態」としてとらえてみました。

「あなたの心の状態は、昨日は道端、今日は石地、明日は茨、明後日は良い地ということはありませんか」と問いかけてみました。「今日は受け入れられないかもしれませんが、それで終わりにしないでください。明日は、いや明後日は受け入れることができると信じてください」(大意)と呼びかけてみました。

今の私がマルコによる福音書の連続講解をしている関係で「マルコ的な時系列」で考えているからでもありますが、キリストの種蒔きのたとえが語られた場所はカファルナウムの会堂で安息日ごとに行われた礼拝(連続講解(lectio continua)が行われていたと思われる)ではなく、野外です。

ガリラヤ湖岸に群集が押し寄せたので、キリストは船に乗って湖の上におられました。その意味では、その場所こそが「道端」であり、「石地」であり、「茨」です。群衆の中にどんな人が混ざっているか分からないし、すでにイエス殺害計画を立て始めたファリサイ派の律法学者も混ざっていたと思われます。

その状況の中で、キリストは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。それ「聞くか聞かないかは、おたくらの自由じゃけ、勝手にせられえ」(岡山弁)という意味でしょうか。

そんな言い方しますかね、キリストが。

「聞いてください」とおっしゃっているんじゃないでしょうか。

心を整えて、私の話を聞いてください。雑念も、邪念も、嫉妬も、憎しみも殺意も、そういうのをみんな捨てて、私の話を聞いてほしい。そういう人になってほしい。キリストの種蒔きのたとえは、そういうキリストご自身の願いのこもったたとえではないでしょうか。私はそう思ったのです。

キリストの種蒔きのたとえは新約聖書の最初の三つの福音書に出てきます。マタイとマルコとルカ、それぞれ読み比べると、このたとえが出てくる文脈の違いがあることが分かります。それはおそらく、すでに西暦1世紀の教会の中にこのたとえ話の解釈の多様性があったことを示唆しているものと思われます。

マルコだから必ずよりオリジナルに近いと考えるほど、私はナイーヴではありません。しかし解釈の多様性が担保できるのであれば、今の我々の説教においても新しい可能性が出てくるわけですから、悪い意味で「伝統に固執することに終始し、冒険することを危険視する怠慢」に陥らずに済むと思うのです。

あくまでも「マルコ的な時系列」の中での話ですが、種蒔きのたとえを語られたときのキリストのもとに集まった群集は、想像するに、キリストがカファルナウム(のペトロの家)に来られる前の「会堂」で行われていた礼拝(と連続講解)が退屈で退屈で仕方なかった可能性があるんじゃないかと思います。

「会堂」の聖職者は、説教はつまらないし、困ったときに駆け込んでも助けてくれるわけではないし、気の利いた話一つしてくれるわけではない。

こんな田舎の「会堂」での修行期間は一刻も早く終わりにして、早く首都エルサレムの「神殿」で働けるようになりたい。「律法学校」の教授か校長になりたい。今は我慢我慢。こんな田舎の生活はうんざり、まっぴらだ。

そんなふうな聖職者たちの腹の底は、町の人たちには透けて見える。あんなクソ坊主どもの話なんか聞いちゃいられねえと思っている。そのようなよどんだ空気を一新する、オモロイ説教者がやってきた。それがキリスト。

会堂の空気が変わっただけでなく、町の空気も変わった。ペトロの家の屋根をバリバリ破ってまでキリストの近くに行こうとする無茶な人たちまで出てくる。刃物もってAKBの握手会に行ったあれに近いものがありますが、そこまでの熱狂を生み出すほどのインパクトがキリストにはあった。

「インパクトとかそんなの、キリストだから、あって当たり前じゃん」という見方もできるでしょうけど、その裏側に当時の「よどんだ宗教事情」があったと私は考えます。

私が重要だと考えるのは「聖書のテキストを読むこと」です。マタイとマルコとルカの間に差があるとしても無理に調和させたりせず、矛盾を矛盾のまま放置して、とにかくテキストを読む。マタイはこう書いている、マルコは、ルカは、と言えばいいだけです。それは「最新の聖書学」でもなんでもないです。

しかし、四つの福音書やパウロの複数の書簡の中で「矛盾」があってはならない、厳密な整合性を求めなくてはならないという合理主義は、何世紀か前の古い考えではあると思います。矛盾を矛盾として放置することに何の心のとがめもないというスタンスの人間は、もしかしたら「最新」なのかもしれません。

もちろん、いろんな解釈はあってよいと思います。しかし、キリストの種蒔きのたとえを根拠にして「実を結ばない人」の側に説教の不成果の責任を常に押し付けて涼しい顔をしているようなあり方が、もしどこかにあるとしたら(どこにもなければこの話題は終了)、早く払拭される必要があると私は考えます。