テモテへの手紙二4・1~5
「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」
「御言葉を宣べ伝えなさい」(2節)と書かれています。そのことについてこれからお話ししようとしている私がどうしても触れなければならないことがあります。それは、先々週の10月14日(火)から16日(木)まで大阪で行われた、日本キリスト改革派教会第69回定期大会のことです。
歴史的な大会になりました。過去30年にわたって大会的に議論してきた女性教師と女性長老の任職に道を開く教会規程改正案を可決しました。施行は来年10月です。しかし、今やわたしたちの前に、このことについて障害となる要素は全くありません。
これから日本キリスト改革派教会は大きく変わります。これまでは小会にも中会にも大会にも男性しかいませんでした。これからは女性がいます。女性教師がすぐに増えることはないかもしれませんが、女性長老はあっという間に増えるでしょう。
教会の中で教師と長老が最も責任を持つのは、御言葉に関することです。現在は、教師がするのが「説教」であり、長老がするのは「奨励」であるという用語上の区別はあります。しかし、その一方で「信徒説教者」という制度も、今の日本キリスト改革派教会にあります。「信徒説教者」は教師ではなく信徒です。そのため「教師がするのが説教である」という説明が、すでに成り立っていません。
教師になるためには、神学校の入学試験とか定期試験とか卒業試験とか卒業論文、あるいは、説教免許試験とか教師候補者登録とか教師試験とか、さまざまな難関を乗り越える必要がありますので、教師の説教を特別扱いしていただけることに有難い面はあります。しかし私は、教師の説教と長老の奨励の間に大きな差はないと考えています。「御言葉を宣べ伝える」という点では全く同じものです。
教会の中で御言葉に関する責任を負う教師と長老の職務に就く人の中に、これまでの日本キリスト改革派教会においては、一人の女性もいませんでした。すべて男性でした。しかし、これからは違います。女性が御言葉を語ります。語らなければなりません。
語ることはもちろんできます。できないはずがないではありませんか。男性と女性の間に、御言葉を語ることにおいてどこにどんな差があるのでしょうか。
日曜学校の礼拝のお話は女性たちがずっとしてきました。しかし、大人たちの礼拝の説教を女性がすることはありませんでした。しかし、子ども相手ならば良いが、大人相手ならば良くないと、差をつけることの意味が、私には全く分かりませんでした。
私自身は、日本キリスト改革派教会の中でこの議論が始まった30年前にはまだ日本基督教団の教会におりましたし、日本基督教団では私の妻は教師でしたし、わたしたちが日本キリスト改革派教会に教師加入したのはわずか17年前のことです。30年前の状況、あるいはもっと前の状況を知りません。
ですから私はこの問題についての大会の議論から距離を置き、議論に参加しないようにしてきました。私にとっては、女性教師と女性長老のことは、全く議論の余地のない、何の疑問もない、シンプルに賛成の立場でしたので、そのような感覚をもって日本キリスト改革派教会の歴史を知らない私が議論に参加すること自体が失礼なことであると考えてきました。この議論そのものがばかげたものである気がしてなりませんでしたので、議論に参加する資格がないと考えてきました。
堂々巡りの反対意見を述べる人々の姿は、私にとっては見るに堪えないものでした。思い出したくもないことですが、実際の議論の中で、女性はすぐ泣くとか、すぐ感情的になるというような意見が出てきたこともあります。この議論が早く終わることを願っていました。女性教師と女性長老に道を開く決議を早くすべきである。そしてこの耐えがたい議論を早くやめるべきであると考えてきました。
先々週、その議論がやっと終わりました。まだいろいろ言いたい人がいるかもしれませんが、大勢は決しました。これ以降の議論は無意味です。これからは、女性たちが教会の中の御言葉を扱う責任を持つ職務に就くことができます。
これからの日本キリスト改革派教会においては、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(4・2)というパウロの言葉は、男性たちだけではなく、女性たちにも命じられます。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じる」パウロの言葉は、これからは男性だけに語られるものではありません。
教師と長老の職務は、もちろんいろんな面で重い責任を負いますが、充実感とやりがいのある仕事でもあります。
パウロが書いているのは「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を傾け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(3~5節)ということです。
これは、教えや信仰の内容において教会が間違った方向に進んでいこうとしているときに、それを食い止める働きです。しかし、それを行う方法は感情的なものではありません。あくまでも理性的に、落ち着いて、御言葉の真理を正しく解き明かすという方法で行うのです。それが女性たちにできないはずがありません。
この件に関する先々週の大会の議論で改めて驚かされたのは、大会の議場がきわめて静粛であったことです。誰一人感情的にならず、理性的に、冷静に粛々と議論がなされ、静かに決議されました。この冷静さに接して、私は改めて、日本キリスト改革派教会の大会に対する尊敬の念を深めました。
しかし、すべての議論は終わりました。聞くに堪えない意見が議場で語られることはもはやないと信じたいです。これからは、「御言葉を宣べ伝えること」に男性も女性もありません。「とがめ、戒め、励ますこと」に、「忍耐強く十分に教えること」に、男性も女性もありません。その差別はありません。大会が新しい時代を迎えたのですから、各個教会も新しい時代を迎えましょう。
これからは、女性が教師や長老にならなくてもよい、その職務の責任から逃げる理由として聖書や教会規程を持ち出すことはできません。その意味では女性たちの責任が重くなったと言えるでしょう。
女性「も」と言ってはいけません。この言い方がすでにアウトです。ぜひ女性「が」日本キリスト改革派教会の教師になってください。長老になってください。私はそのことを心から願っております。
(2014年10月26日、松戸小金原教会主日夕拝)