2014年10月13日月曜日

日記「『場違い』の問題」

(この画像は記事の内容とは関係ありません)

ふと思い出したことを、当時感じたとおりのまま字にしておく。

娘の公立中学のPTA会長をしていたときのことだ。臨時採用の教員が辞校式の挨拶で「神さまの話」をしはじめた。そういうとき私はうつむかざるをえない。違和感と苦痛しか感じない。政教分離うんぬんの問題ではない。「場違い」だと思う。

「福音を恥としない」。それはいい。私も大賛成。だけど、「場違い」なことを言ったりしたりすることを「恥」と感じないことと、それ(福音を恥としないこと)とは全く別問題である。「場違い」なことをして、それを見聞きした人が違和感や反感を抱いているのに気づかないことと、それ(同上)は別だ。

それでは、公立校ではなくて私立のキリスト教学校であれば、教員が辞校式(という呼び名かどうかは知らないが)の中で「神さまの話」をすることには問題ないだろうか。絶対間違っているとまでは私は言わない。だけど、やっぱり「場違い」ではあると思う。その学校の主義主張の問題ではないと思うのだ。

「もっと別の話もあるだろうに」と、心の中の私が怒鳴っていた。ほとんど絶句に近い気分だった。臨時採用とは言え、たとえ短期間であれ子どもと向き合う場所と時間を経てこられたに違いない教員だ。なぜ「神さまの話」なのか。なぜ「人間の話」ではないのか。私は本当に、ただ不愉快でしかなかった。

ここから先は微妙な話なので言葉を選びながら手探りの気持ちで書くという感じにならざるをえない。たとえば今書いた教員の「神さまの話」とか、テレビ的歌謡曲で「神さま」とか歌っちゃう。それってやっぱり「神の名をみだりに唱える」ことだと私は思ってしまう。「場違い」は「冒瀆」の別名だと思う。

当時感じたのは、だいたい以上のようなことです。

以上は「事件編」です。「解決編」はありません。

言いっぱなし。後始末しない。