2013年8月31日土曜日

なぜぼくが「カール・バルト研究会」なのか

言わずもがな、なのか、言わなきゃ分からない、なのか、

まあ、どっちでもいいことですが、

なぜぼくが「カール・バルト研究会」なのかということは、

どこかで釈明する必要があるかもしれないと思っています。

「バルト主義者にならないこと」が唯一の入会条件である

「カール・バルト研究会」を、なぜぼくがやるのか。

決まってんじゃん。「超克」ですよね、それは当然のこと。

でも、難しい問題は、

バルト(主義)をどっちの方向に「超克」するか、です。

昨夜の「カール・バルト研究会」で読んだ個所は、

バルト『教義学要綱』「8 造り主なる神」の前半でした。

その冒頭に次のような文章が出てきます。以下、拙訳で紹介します。

「神が人間になった。
 この命題に示され、我々が信じるべきことは、
 神は自己目的的な存在であることを自ら望まず、
 それゆえ、神は孤立していないということである。
 神は、神自身とは区別される世界に、
 その固有の現実と本質と自由を、惜しみなく与えてくださっている。
 神のことばは、被造世界の存在を支える力である。
 神は、この世界を《劇場》(theatrum)として創造した。
 そのようなものとして保持し、統治しておられる。
 そして神は、その《劇場》の真ん中に
 人間を《神の栄光》(gloriae Dei)の証人として創造したのである。」

(Karl Barth, Dogmatik im Grundriß, Theologischer Verlag Zürich, 1947, 1998, S. 57)

素晴らしい感動的な文章です。これを「超克」するのは非常に難しい。

「超訳」も難しいですね。バルトの意図はよく分かりますけどね。

でも、落とし穴はあります。バルトの論理の「功罪」があります。

それを論証していきたいのです。

2013年8月29日木曜日

今日は朝から「真剣にぼんやり」しています

あらら、今日は8月29日(木曜日)、ですか。

へへ、ぼくは暑くて、熱くて、厚い夏でした。

今日は朝からずっとぼんやりしているのですが、

「予定がない」というよりも、

ずっと前から「予定を入れない予定」にしていた日でした。

カッコよく言えば、

なるべく来年中に発表したいと願っている、

ある程度まとまった規模の書き物が「四つ」あって、

その構想を練っているところです。

そのぼくはハタカラ見ると「ぼんやりしている」としか言いようがない。

しかし、はっきり言います、

なんにも思いつきません。

ダメだこりゃ。撃沈です...。

2013年8月26日月曜日

金銭の欲がすべての悪の根です

テモテへの手紙一6・6~10

「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまな欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」

いまお読みしましたこの個所に書かれていることは、かなりストレートな書き方でもありますので、疑問の余地がないと言いますか、読んで字のごとくそのままの意味でだれでも容易に理解することができるものだと思います。

しかしまた、別の言い方をすれば、身も蓋もないという感じがなくもない。強く批判的な態度を示すタイプの人たちにすれば、あまりにも言葉が露骨すぎて、いろいろな立場にある人たちへの配慮が足りないのではないかと言いたくなるようなことかもしれません。

しかしこれは、これまで何度も繰り返し申し上げてきたことですが、(いろんな解釈の可能性があることは存じておりますが)、この手紙はパウロからテモテに対してごく個人的に送られたものであるとみなして読むと、いちばん腑に落ちるものがあると、私は考えています。

彼らは教会の牧師であり、伝道者です。同じ仕事に就いている先輩と後輩の関係です。時間的順序からすれば、後輩が先輩の苦労を知っているということは通常ありません。しかし、先輩には後輩の苦労が分かります。

厳密に言えば一つ一つの苦労は内容が違いますし、状況や年代の違いがありますので、後輩の苦労のすべてが先輩には分かるわけではありません。先輩づらは禁物でしょう。

しかし、同じ仕事に就いている先輩と後輩の関係の中で先輩にできることがあるとすれば、それは、苦労している後輩のその苦労を理解し、受け容れること。そして、慰め、励ますことです。そういうことを、パウロがテモテにしているのです。

ここに書かれていることは、要するにお金の問題です。あるいは、生活の問題です。衣食住の問題であると言ってもよいでしょう。しかし、「住」の問題は、触れられてもいません。住むところなんてどうだっていい、と言わんばかりです。

しかもこれは、教会の牧師どうしの会話として書かれていることですから、これは間違いなく教会内部の話です。牧師の生活の話であり、はっきりいえば牧師が教会から受けとる給料の話です。こういうふうに言ってしまいますと本当に身も蓋もなくなってしまうものがあるのですが、そうであるとしか言いようがないことが書かれています。

その中にとにかくはっきり書かれていることは、「食べる物と着る物があれば、わたしたち(パウロとテモテ?)はそれで満足すべきです」(8節)ということです。

ここに書かれていることの意味は、「贅沢な食べ物と贅沢な着る物があれば、わたしたちは満足することができます」というようなことではありえません。そういうことではなく、とりあえず生きることができればそれで十分だ、というような話です。

パウロに限っては、贅沢なものを食べ、贅沢な服を着るなどということは考えたこともないようなこと、脳裏をかすめたことすらないようなことなのではないかと思うくらい、そういうものから無縁です。

そのことは、「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。」(9節)と書かれていることからも分かります。

誤解がないように申し上げておきますが、この個所でパウロは金持ちになることが悪いと言っているのではありません。誘惑や罠や欲望に陥る、または陥りやすくなると言っているだけです。どんな誘惑にも罠にも欲望にも陥らない強靭な心をもっていると言える人であれば、その人はある意味で、お金持ちになっても構わないのです。

しかし、それほど強い人は存在しない、ということもパウロは考えているようでもあります。そして、そのことは、教会の牧師、伝道者も同じであるとパウロは考えています。

というか、そもそもパウロが書いていること自体は、教会の牧師、伝道者の話です。教会の牧師がお金持ちになろうとするということがあるとしたら、それは教会員の献金を当てにした話にならざるをえませんので、それが何を意味するのかということは、よく考えなくてはならないことです。

教会の献金によって教会の牧師、伝道者の生活が支えられていたのは、今に始まったことではありません。二千年前の教会から始まっていることです。そして、今日の個所に書かれていることを読むかぎりで分かることは、二千年前の教会から牧師の生活にはお金の苦労が伴うものだったらしい、ということです。

以前、朝の礼拝でお話ししたことがありますが、パウロはかつて結婚していた可能性があります。その根拠になる聖書個所があります。「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」(コリント一9・5)。

この個所にパウロが「私にも妻がいた」と書いているわけではありません。しかし、他の伝道者たちのように自分の妻を連れて歩く権利が、わたしたちにはないのか、と言っていることは間違いありませんので、古代教会以来の解釈として、パウロには過去に妻がいたが、伝道旅行に連れ歩くことになるのを避けて別れたのだ、というふうな理解の仕方があるのです。

実際それは、よく分かる話でもあるわけです。結婚すれば、子どもが生まれたり、家族が増えたりします。牧師一人の生活と活動ならば教会は支えることができる。しかし、家族は別であるという話になることもありえます。パウロにも人に言えない苦労があったのではないかと思うのです。

しかし、いま申し上げていることは、私が言っていることではありませんので、あしからず。今日の個所でパウロは何を言おうとしているのかを考えてみているだけです。

私自身は、結婚しました。子どももいます。そのことを悪かったと後悔したことは一度もありません。

私にとって家族はかけがえのない存在です。結婚や出産や子育てが「伝道」にとってマイナスだと考えたことは一度もありません。むしろプラスではないでしょうか。

それに、日本だけではないと思いますが、今の教会は牧師が結婚することや子どもがいることを、むしろ積極的に奨励する方向にあるのではないでしょうか。いつまでも独身のままの牧師がいると、「早く結婚しろ、結婚しろ」と周りから催促されるほどではないでしょうか。

お金の苦労だとか、結婚や子育ての苦労だとかいうのは、あまりにも人間くさすぎて、神に仕える者としてふさわしくないという話になるのでしょうか。そうかもしれません。

しかし、少なくとも、話のタネにはなります。町の人たちと仲良くなれます。「ああ、なんだ、我々と同じなんだ」と思ってもらえます。PTAの仲間に加えてもらえるチャンスもあります。教会の敷居を低く感じてもらえ、親しみを感じてもらえます。それも「伝道」ではないでしょうか。

そのように、私は自分に都合よく解釈しています。

(2013年8月25日、松戸小金原教会主日夕拝)

2013年8月25日日曜日

教会と国家の関係についての捉え方の違い

話を単純化しすぎかもしれませんが、

20世紀ドイツの(健全な)神学の課題が

「ナチス国家との対峙」にあったとすれば、

20世紀オランダの(健全な)神学の課題は

「ナチスの蹂躙からの自国の解放」にあったと、

ぼくはとらえてきました。

目標は同じであるようでもあり、

違うようでもあります。

20世紀オランダの(健全な)神学にあるのは、

「国家=悪」VS「教会=善」

という構図ではなく、

「国家にいくらか寄り添い、助ける教会」

という構図だと思います。

また話を単純化しすぎかもしれませんが、

そこにあるのは

「預言者的」というよりは「祭司的」な何かです。

「甘い!」とか「権力志向だ!」とか

批判されてしまうかもしれませんが、

「けんか腰では伝道はできない」と、ぼくは思うので、

その種の批判は、

理解できる面があることを十分に感じながらも

やや甘受する姿勢で

進んで行こうと考えています。

「甘くて」すみません。

2013年8月24日土曜日

夏休み、終了しました

えっと、ぼく

今日で夏休みが終わりました。

明日から通常モードに戻ります。

何もしなかったようでもありますが、

多くの収穫があった夏休みでした。

たったの一週間、

何も変わってないようでもありますが、

ぼく的には

過激に、飛躍的に、前進した

夏休みでした。

ありがとうございました。

2013年8月19日月曜日

夏期休暇中のご挨拶とお断りです

ネットつながりのお友達のみなさま

残暑お見舞い申し上げます。

立秋をすぎたとはいえ連日の猛暑の中、いかがおすごしでしょうか。

えっと、ぼくは今週(8月18日~24日)、夏期休暇中です。

本来なら、という言い方はおかしいかもしれませんが、

メールやブログやFacebookやTwitterも休むべきかもしれませんが、

まあ、ぼくの場合、メールもブログもFacebookもTwitterも

どこまでが仕事で、どこからは仕事でないかの区別が難しい状態ですので

閉じたり開いたりしています。

でも、これまた、ぼくの場合ですが、

メールやFacebookのメッセージに返信することや、

Facebookのお友達の書き込みやぼくの書き込みへのコメントへの返信に

「いいね!」を押すことについては、

毎回、細心の注意を払い、神経をすりへらしながら行なっていますので、

(身も心もガクガクブルブルふるわせながら、ポチッと)

これらに関しては、休ませていただくことになるかもしれません。

ですから、今週のぼくは、

どなたの書き込みにも「いいね!」を押さないかもしれませんし、

(押すかもしれません)

メールやFacebookのメッセージやコメントに返信しないかもしれませんが

(返信するかもしれません)

「あ、そーいえば、あいつは休暇中だったな」ということで、

お見逃しいただけますと幸いです。

パソコンそのものも、

スイッチを切っているかもしれませんし、

つけっぱなしかもしれません。

というわけで、

苦しい言い訳ばかりの「残暑お見舞い」になりましたが、

皆さまのご多幸をお祈り申し上げて、筆を擱きます。

それでは、また。

主の2013年8月19日

関口 康

2013年8月9日金曜日

「スマホ後の教会」はどうなるか

(IT!おまえはどこへ)久多良木氏「スマホ後の世界」(朝日新聞デジタル、2013年8月8日)

http://www.asahi.com/business/update/0807/TKY201308070342.html?ref=reca


興味深く読みました。後半も(無料で読めるところまで)読みました。

ぼくの関心はどうしても、「スマホ後の教会」はどうなるか、ということです。

教会に対するネットの「甚大な」影響が明白であることは、そろそろ認めましょう。

ネガティヴな面ばかりであるはずがない。十分に有効活用されています。

「仮想世界」とも、もはや言いがたい。

十分にリアルな言葉が取り交わされています。

一度も会ったことがなく、声を聞いたこともないのに、

お互いの性格や人柄をすでによく知り合ってもいると思う。

嫌なこともあり、致命的な対立に陥ることもあるけど、

顔と名前を出している以上、「絶交」は回避したいという心理も働く。

十分にリアルではありませんか。

ネットで伝道するつもりはないと、以前書きました。

しかし、Facebookに移行してからは、少し方向が変わってきました。

現実に人が教会を訪ねてくださるようになりました。

「メーリングリスト参加してます」

「メールマガジン購読してます」

「ブログ読みました」

を理由に教会に足を運んでくださる人は、ぼくには一人もいませんでしたが、

Facebookは違います。

「ホームページ見ました」

ということで教会に来てくださる方は多いですが、

地図や集会案内を調べるためにご覧になっただけです。

しかし、Facebookは違います。

めっちゃリアルです。

「信頼」のようなものを感じて、足を運んでくださる方が増えてきました。

「スマホ後の教会」、どうなるのでしょうか。将来が楽しみです。

「遊び」の問題は、考えれば考えるほど、ぼくは分からなくなりました

「遊び」の問題は、考えれば考えるほど、ぼくは分からなくなりました。

ファン・ルーラーが母校フローニンゲン大学で、

『ホモ・ルーデンス』のヨハン・ホイジンガ教授から(たぶん直接)「遊び」(spel)の概念を教えられ、

それを神学の中に持ち込もうとしたんです。

それをモルトマンやボーレンが、ファン・ルーラーから受け継いだ面があると、ぼくは見ています。

ぼく自身は、ファン・ルーラーが「遊び」(spel)という言葉を著書や論文で多用するのを、

最初は面白がっていました。

しかし、それが「遊びの神学」だ「喜びの神学」だ、

それがファン・ルーラー神学の特質だ、みたいな取り上げられ方になっていくのが、

だんだん嫌になってきました。

そんなふうにファン・ルーラーをイロモノ扱いして、結局はファン・ルーラーを軽蔑している

そういう人たちの心の中身が透けて見えるような気がして、つまらなくなりました。

あとは、日本語の語感だけの話かもしれませんが、

「真剣に遊ぶ」とか「一生懸命遊ぶ」というのは、ありだとは思いますけど、

「真剣に」とか「一生懸命」とか言った時点で、

プレイしている本人自身は、心理的には「遊んで」ないですよね、日本人は。

「遊ぶこと」と「真剣であること」が対立・矛盾しているかのような言語体系の中に、

やっぱりぼくらは生きているような気がする。

あるいは、「遊んで暮らす」という言葉に代表されるように、

「遊ぶこと」は賃金労働に従事していない状態(だけ)を意味している場面も少なくない。

ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(講談社学術文庫)も読みました。

「遊び」という訳語が悪いのか、別の言葉で訳せば問題は解決するのかは分かりませんが、

「遊び」を軽蔑する人たち独特の冷たい視線というか、鼻で笑うあの感覚は、

笑われている側にははっきり分かります。

だから、「自分は笑われている」と、いったん看取した人は、過剰防衛を始めることにもなる。

ぼくだけの感覚かどうかは分かりませんが、

日本人が「遊び」を軽蔑してきた姿をよくあらわしているような気がするのは、

ほら、あれですよ、

映画「火垂るの墓」の清太と節子が、親戚のおばさんから言われたキッツイ言葉。

「お国のために働いてる人らの弁当と 一日中ブラブラしとるあんたらと なんでおんなじや思うの」というセリフ。

「一日中ブラブラしとるあんたら」というあのおばさんのセリフに、全くギクッとしなかった牧師がいるでしょうか。

福音とイデオロギー

ただ、つと最近悩ましく思っていること、ディレンマは、

改憲反対「運動」や反戦「運動」の人たちとの関わり方や距離感がつかめない、ということです。

その「運動」を継続していくためには、

(べつにぼくは悪い意味で使うのではないのですが)一定の「イデオロギー」の肩口から投げ出され、正確にピンポイントに同じ結論へと投げ込まれる、バッティングセンターのピッチングマシンさながらのような言説と行動が必要であり、それがその「運動」の特徴でもあり、売りでもあります。

ですが、教会が宣べ伝える「福音」は、そのような意味での「イデオロギー」とは全く異なるものであり、似ても似つかぬものです。

「福音」と「イデオロギー」の区別と関係について、我々は正確に把握できているでしょうか。そのへんが一緒くたになっていて、不毛な混乱を招いている面はないでしょうか。

ぼくは「運動」を否定しているわけではないし、非協力的であるつもりもありません。

ただ、「福音」の自由に生きようとすると(「福音」は、なんら金太郎飴ではありえません!)、特定の「イデオロギー」の人たちから、これまた一定の(ピッチングマシンのような)攻撃を受けるというのは、しんどいことです。

2013年8月8日木曜日

「忍耐」はやっぱり必要だぜ

負け惜しみだかなんだか分かりませんけど

経済的に豊かでないとか、生活が必ずしも安定しないとか、

いろんな点で追い詰められた状態にあるときは、

そういうときこそ、ぼくは、

なんだかものすごく真剣に物を考えているし、やたら饒舌になる、

というか、ぼくは口や舌はあんまりうまく動かないけど、

とにかくたくさん字を書きたくなるし、何かを告白し、訴えたくなる。

人によるとは思いますよ。苦労が、練達や希望につながらない人もいる。

それは、字にするとキツいけど、

苦労を持続する「忍耐」が欠けている状態なわけですよね、セオリーどおりで言えば。

でも、まあ、その苦労を忍耐している最中に

「プハア、うめえ」とか言いながら快適ライフを送ってるっぽい雰囲気の人たちの

冷たい視線とか感じると、心折れそうになりますよね。

ぼく自身は、どっちでもありうると思ってるんですよ、

「く、苦しい」って言っているときもあるし、

「プハア、うめえ」って言ってるときもある。

陰鬱な「禁欲主義」よりは快活な「快楽主義」のほうがましだとも思う。

辛気くさい顔して社会悪を裁き続けることをアリバイにしながら、

「おいおい、人のことを言えるようでもなさそうだぜ」

と思われてしまうような人間にだけはなりたくない。

だけど、「忍耐」はやっぱり必要だぜ。それができなければ成長はない。

ぼくがいつまで経っても成長できないのは、その「忍耐」が足りないからだけどね。

「デイリーヤマザキ松戸小金原店」を応援しちゃうぞ!

なかよしのイケメン店長アトウさん率いる

「デイリーヤマザキ松戸小金原店」

応援しちゃうぞ!企画

同店は、コンビニエンスストアです。

しかし、店内でパンを焼いて販売しています。

それがウマイ!ほっかほかです。

ぜひみなさん、

「デイリーヤマザキ松戸小金原店」

お立ち寄りくださいね。

ぼくはただの通りすがりの客なだけですけどね。

デイリーヤマザキ松戸小金原店 開店(2013年7月31日)

「千葉県松戸市小金原6丁目11−5」

で検索すれば、地図が出てくると思います。

Googleの地図は、まだ昔の

「スリーエフ松戸小金原店」のままですけどね。

店長は変わってませんからね。

昔ながらのイケメンのままですよ。

いらっしゃい、いらっしゃい\(^o^)/

イケメン店長 阿藤さん(左)

2013年8月7日水曜日

ゲオルク・ヴォッベルミン(1869年~1943年) ~ナチス政権に協力したドイツのプロテスタント神学者~


ゲオルク・ヴォッベルミン(Georg Wobbermin [1869-1943])は、高校卒業後、プロテスタント神学を学んだ。博士論文は組織神学部門に関するもので、神学博士号を取得した。1922年以来、ゲッティンゲン大学で組織神学の部門長を歴任した。

ヴォッベルミンは若い頃から国家主義的知識人だった。ナチス政権を最初から支持した。1933年11月にはドイツの大学教授によるアドルフ・ヒトラーとナチス国家に対する宣誓に署名し、ナチスの反ユダヤ主義を共有し、喧伝した。1939年には、ドイツ人の教会生活に対するユダヤ人の影響力の調査とその除去のために、アイゼナハ研究所に協力する意思をあらわした。

ヴォッベルミンの神学的構想(『宗教心理学的方法に基づく組織神学』第一巻1913年、第二巻1922年、第三巻1925年)は、宗教の心理学的解釈に基礎づけられていた。それによって彼はシュライアマハーの継承者であることを証明したが、ウィリアム・ジェームズの著『宗教体験の多様性』(そのドイツ語版)の影響も強く受けていた。それは宗教生活の心理と病理の資料および研究であった。(拙訳)

出典 Georg Wobbermin (Wikipedia)
http://de.wikipedia.org/wiki/Georg_Wobbermin

2013年8月6日火曜日

ぼくは「自分大好き人間」ではないですからね

あー、だんだんイラついてくるんですけど。

ネットやってますとね、

「ぼくの」話とか「ぼくの」写真とかばっかり

掲載しているような気がして、嫌なんですよ、ぼくだってね。

だけど、ずっと前から何回も書いてきたことですけど、

「個人情報保護」という観点が

我が国の重要な価値観として導入されて以来、

どんな親しい人であろうと、自分の家族であろうと、

「他人」のことについて書くなんてことは、

ほんっとに限りなく不可能な時代になってますからね。

写真や文書の引用も難しい。

ぜんぶ自分で撮ったもので、しかも、自分しか写っていないような写真。

または、自分で書いた文章、自分で描いたイラスト。

ネットにアップできるものなんて、

そんな「ぼくの」ものしか無くなってしまったわけです。

「関口はきっと自分大好き人間なんだな」とか、

あざ笑わないでくださいな。

そーゆーのだけは、勘弁してもらいたいです。

「カール・バルト生誕130年」(2016年)が近づいています


今日Facebookのやりとりの中で

「バルス祭り」からの連想で(なんの連想なんだ、それ)

「バルト祭り」やりたいねえ、という話になりました。

かなり強引ですけど、3年後の「2016年5月10日」が

「カール・バルト生誕130年」ですね、という話になりました。

いまぼくたちがネットで続けている「カール・バルト研究会」

「バルト主義者にならないこと」が入会条件ですので、

そういう者たちが本家のバルト研究者たちとうまくからめるかどうかは不明です。

でも、なにか動きがあるといいなと、遠い空から願っていますので、

本家のバルト研究者の皆さまや出版関係の方々に、ぜひ

「カール・バルト生誕130年記念事業」の準備・実行をお願いいたします。

ちなみに、ぼくは、

「カルヴァン生誕500年記念集会」(2009年7月6日、会場・東京神学大学)

の実行委員会の書記でした。委員長は久米あつみさんでした。

ああいう感じの記念集会ができたらいいのではないかと思います。

でも、バルトに関しては、ぼくの出る幕は無さそうですけどね。

(最後の一行は、ぼくの野心がにじみ出た、乾坤一擲の告白です。)

カルヴァン生誕500年記念集会(2009年7月6日、会場・東京神学大学)

最近、キリスト教書店に全く足を運んでいませんので、

エラそうなことは言えないのですが、

日本語版のカール・バルトの本が、

なかなか手に入らなくなっているらしいじゃないですか。

ぼくが東京神学大学の学生だった頃(1980年代)には信じられない話です。

バルトの本はぜんぶ揃えられるような環境を整えてほしいです。

バルト主義者になる必要はないですよ。

バルトを読む人は必ず「バルト主義者」になるわけではないです。そんなバカな話がありますか。

だけど読まなくちゃ、彼を理解することも批判することもできないのです。

「もっとバルトを読もう」と盛り上げましょうよ。あと3年かけて。

そしたら、全部揃えられるようになりますよ。たぶんね。

ぼくの書斎の「カール・バルト文庫」(三段分あります)

超マジメな牧師のFacebookです


ぼくFacebookをやっています。超マジメな内容です。

関口 康 Facebook
http://www.facebook.com/yasushi.sekiguchi

松戸小金原教会のホームページの管理者はぼくではありません

ときどき誤解されていることに気づくのですが、

松戸小金原教会のホームページの記事を書いたり管理したりしているのは

ぼくではありません。

松戸小金原教会の引退長老の岩崎昭さんが

教会のホームページを管理してくださっています。

岩崎長老様、ありがとうございます!

松戸小金原教会ホームページURL:
http://www2u.biglobe.ne.jp/~matudo/

「カール・バルト生誕130年」(2016年)が近づいています


今日Facebookのやりとりの中で

「バルス祭り」からの連想で(なんの連想なんだ、それ)

「バルト祭り」やりたいねえ、という話になりました。

かなり強引ですけど、3年後の「2016年5月10日」が

「カール・バルト生誕130年」ですね、という話になりました。

いまぼくたちがネットで続けている「カール・バルト研究会」

「バルト主義者にならないこと」が入会条件ですので、

そういう者たちが本家のバルト研究者たちとうまくからめるかどうかは不明です。

でも、なにか動きがあるといいなと、遠い空から願っていますので、

本家のバルト研究者の皆さまや出版関係の方々に、ぜひ

「カール・バルト生誕130年記念事業」の準備・実行をお願いいたします。

ちなみに、ぼくは、

「カルヴァン生誕500年記念集会」(2009年7月6日、会場・東京神学大学)

の実行委員会の書記でした。委員長は久米あつみさんでした。

ああいう感じの記念集会ができたらいいのではないかと思います。

でも、バルトに関しては、ぼくの出る幕は無さそうですけどね。

(最後の一行は、ぼくの野心がにじみ出た、乾坤一擲の告白です。)

カルヴァン生誕500年記念集会(2009年7月6日、会場・東京神学大学)

最近、キリスト教書店に全く足を運んでいませんので、

エラそうなことは言えないのですが、

日本語版のカール・バルトの本が、

なかなか手に入らなくなっているらしいじゃないですか。

ぼくが東京神学大学の学生だった頃(1980年代)には信じられない話です。

バルトの本はぜんぶ揃えられるような環境を整えてほしいです。

バルト主義者になる必要はないですよ。

バルトを読む人は必ず「バルト主義者」になるわけではないです。そんなバカな話がありますか。

だけど読まなくちゃ、彼を理解することも批判することもできないのです。

「もっとバルトを読もう」と盛り上げましょうよ。あと3年かけて。

そしたら、全部揃えられるようになりますよ。たぶんね。

ぼくの書斎の「カール・バルト文庫」(三段分あります)

2013年8月4日日曜日

苦労のない人生は存在しません


ローマの信徒への手紙5・1~5

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

「わたしたちは信仰によって義とされた」とパウロは書いています。

「義とされる」とは、繰り返し申し上げてきましたように、神と人間との関係が本来の正常な関係へと回復されるという意味です。正常の反対は異常です。ノーマルの反対はアブノーマルです。神と人間の関係がノーマルであるとは、最初に神が天と地、そして人間を創造されたときの状態のことです。はじめに、神はすべてのものをお造りになり、そして人間をお造りにもなり、それらすべてをご覧になって「極めて良い」とお喜びになりました(創世記1・31)。ですから、神と世界、また神と人間との最初の関係は「極めて良い」ものであったというのが聖書の思想です。

それは良好な関係であり、互いに笑顔で接し合うことができる、まさに友好な関係でした。それはフレンドシップ(友達関係)であると考えてもよいものです。神と人間の関係を友達関係だというのはおこがましいとお感じになるかもしれません。しかし、これは私が発明した考え方ではなく、改革派教会の伝統にかなっています。

私は説教で神学の話をすることはめったにありませんので、唐突な印象を与えてしまうかもしれませんが、今日は少しだけお許しください。神と人間の本来の関係を「フレンドシップ」と呼んだのは、17世紀のオランダで活躍したヨハネス・コクツェーユスという神学者です。このコクツェーユスの神学思想は、今日の改革派神学の中で非常に注目されています。

しかし、その良好な関係、神と人間との間のフレンドシップ(友好関係)が、人間側の罪によって壊れてしまいました。人間は神に背を向け、無視して、反抗的な態度をとりました。それが罪です。罪の結果は神との友好関係が壊れ、神を遠く感じるようになり、敷居が高くなってしまったことです。

これから申し上げることはあくまでもたとえですが、わたしたちが窓の外から部屋の中をのぞくと、神の姿が見える。しかし、なんとなく怒っておられる気がする。私のことなど全く関係ないし、興味もないし、こちらから話しかけてもそっけない態度をとられてしまうのではないかという気がする。そうすると、こちらとしても神のことがますます憎らしくなり、嫌になる。自分とは関係ない存在であると心の中で整理をつけて、神のことなどはできるだけ考えないようにする。それが、罪を犯して神から離れているときの人間の状態です。

しかしそれは、聖書の見方からすれば、神と人間のノーマルな関係ではなく、アブノーマルな関係、異常な関係、壊れた関係、倒錯した関係であると言わざるをえません。神はなにも、その人のことをお嫌いになったわけではないのです。神のもとに戻って来て、神の愛を受け入れ、フレンドシップを取り戻したいという願いを持っている人ならばだれでも、神は受け容れてくださるのです。それが、今日の個所にパウロが書いている「義としてくださる」という言葉の意味です。

そして、それは「信仰によって」実現すると、パウロは書いています。この意味の「信仰」は信頼であるということも、繰り返し申し上げてきました。神を信頼することです。

窓の外から見える神のお姿は、この私に対して腹を立てておられるように見えるかもしれません。しかし、窓の外ではなく中に入っていき、顔と顔を合わせて出会うならば、実際には少しも腹を立てておらず、笑顔で接してくださる方であるということが分かるでしょう。しかし、わたしたちは実際にはまだ中まで入ることができないで、窓の外をうろついたままかもしれません。しかし、そのとき神は窓を開けてくださり、「中に入っておいで」と笑顔で呼びかけてくださる。そして、扉を開けて、外まで出てきてくださり、わたしたちの手をつかんで招き入れてくださる。神とはそういう方であるということを信頼することです。それが「信仰」です。「信仰によって義とされる」とはそのようなことです。

ただし、そのとき扉を開けて、外に出てきてくださり、わたしたちの前に立ってくださり、わたしたちの手をつかんで家の中まで招き入れてくださるご存在は、神の御子であられるイエス・キリストであるということを、パウロは説明しています。

「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得る」(1節)とは、そのようなことです。イエス・キリストがおられなければ、わたしたちと神との間の平和はありません。この意味での「平和」とは和解です。人間は罪を犯した時点で神との関係が一度は完全に壊れてしまいましたので、仲直りする必要があります。和解が必要なのです。イエス・キリストは父なる神とわたしたち人間との間に立つ仲保者になってくださり、わたしたちの身代わりに犠牲の供え物になってくださることによって、父なる神の怒りを宥めてくださったのです。

「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(2節)とパウロは続けます。この中でとくに重要な言葉は「神の栄光にあずかる希望を誇りにする」です。わたしたちにとって神との良好で友好な関係が回復されるならば、そこに希望がある、ということです。神はこの私のことを信頼してくださり、喜んで受け容れてくださっている。そのことを信じることができれば、わたしたちは絶望しなくて済むのです。

なぜそうなのでしょうか。わたしたちは自分が不幸な目に遭い、悩み苦しみ、落ち込むときには、私などこの地上に生まれなければよかった、存在しなければよかった、というようなことまで、考えはじめてしまうからです。このことは、ある意味で、神の存在を全く知らなかったときには、考えもしなかったことかもしれません。しかし、生まれて初めて教会に来て、聖書を開く。そこには、神がこの世界と人間をお造りになったという話が書かれている。それは分かった。しかし、もしそうだというならば、なぜ私はこんなに不幸な目に遭っているのかと、そのとき初めて考えはじめるのです。神はこの私を不幸な存在にお造りになったのだろうか。神は私を、苦しめ、いじめるためにお造りになったということだろうか、などと考えはじめてしまいます。

しかし、そうではない、そうではないのだと、わたしたちが自分自身に言い聞かせることができるようになるのは、イエス・キリストによってわたしたちが神との関係において和解されたのだという信仰が与えられたときです。わたしたちの不幸も苦しみも、神がわたしたちを憎んでおられ、苦しめ、いじめるために与えられたものではなく、神がわたしたちに希望を与えてくださるためだったのだと信じることができるようになるのは、イエス・キリストのお陰なのです。

「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(3節)とパウロは続けます。これは信仰についてだけではなく、いろいろなことに当てはまります。スポーツについても、楽器の演奏についても、仕事上の技術や技能についても、あるいは人生の歩みについても、同じことが当てはまります。

「苦難」とは、練習を始めたばかりの頃に味わう苦労です。最初はへたくそ。先生に叱られてばかり。もうやめようかと、何度となく投げ出したくなる状態です。しかし、そこを我慢して訓練や練習を続けていくと、少しずつ少しずつ上手になっていきます。その我慢が「忍耐」です。そして少しずつ上手になっていくことが「練達」です。

「練達」という日本語の意味は「熟練して精通すること。物事に慣れて奥義に達していること」であると広辞苑に書いていました。パウロが用いている原語(ギリシア語ドキメー)の意味は「試験によって立派に証明された品格」(玉川直重 新約聖書ギリシア語辞典)です。スポーツや楽器や仕事の技術や技巧の上達もさることながら、人間として人格的に成長した姿です。その意味での「練達」の境地に達することによって、わたしたちに真の「希望」が与えられるのです。

このようにパウロが書いていることは、別の言い方をすれば、わたしたちが自分の人生を軽く考えないで、日々自分に与えられた務めと仕事に正面から向き合って、コツコツと努力をすることと同じであると考えることが可能です。努力しないで勉強ができる人はいません。努力しないでスポーツや音楽や仕事で成功することはできません。これは当たり前の話です。

プロフェッショナルと呼ばれる人のしていることをアマチュアの人が見ると、だれでもできそうなほど簡単なことをしているように見えるものです。しかし、それがプロの仕事です。だれでも簡単にできることのように見えるほどに熟練しているからこそプロなのです。そうなるまでに「苦難」があり、「忍耐」があります。しかし、自分が苦労している部分を、プロの人は他の人には見せません。黙って、部屋に一人でこもり、歯をくいしばり、血の汗を流しながら、練習し続けるのです。

それは、わたしたちの信仰生活、教会生活においても同じです。教会に通い始めた最初の日から、聖書の内容を全部知っているという人はいません。何をどのように理解すればよいのかは、最初から分かるわけではありません。

「お祈りが苦手です。讃美歌が苦手です。そもそも、毎週日曜日に教会に通う意味が分かりません」。

そのようにお感じになる方がおられるのは当然です。最初からすべてのことに精通しているなら、教会も牧師も必要ありません。教会には卒業式はありませんので、学校とは違いますが、似ているところもあります。すべてのことはだんだん分かって来るものなのです。そこにわたしたちの苦労や努力の意味があります。

しかし、パウロは、そのような苦労、苦難や忍耐が、わたしたちと神との間の良好で友好な関係を回復すると言っているわけではありません。もしそういうふうに言うのであれば、「わたしたちは信仰によって義とされる」という教えは無意味です。結局、人は努力と業績によって救われるという教えであるかのようになってしまいます。

パウロが言いたいことはそういうことではありません。順序が逆です。わたしたちは、自分が苦労して、必死にがんばることによって、神へと至り、救いへと到達するのではありません。神のほうが先にわたしたちを受け容れてくださり、愛してくださり、助けてくださることによって、自分に与えられている苦しみの意味を見出し、絶望しないで前進することができるようになるのです。

人生も同じです。苦労のない人生は存在しません。赤ちゃんの頃はすべてのことを親がしてくれるかもしれませんが、いつまでもそうであるわけにはいきません。自分の足で立ち、自分の頭で考えて発言し、行動しなければなりません。そのときわたしたちに神が必要になります。神の助けと支えが必要になります。

(2013年8月4日、松戸小金原教会主日礼拝)

ヒラヒラかわすのは得意かも

もう眠いのでナニも考えられない状態なのですが

書かずにはおれない気持ちです。

自慢じゃないですが、ぼくはこの年齢になるまで

つかみ合いの喧嘩って、したことがないです。

売られたこともない。

喧嘩、弱いのにね。筋肉無いし。

殴ったことも、殴られたこともない。

勝ったこともないけど、負けたこともない。

ぼくをコワモテと思う人はたぶんいないけど

喧嘩する気にはなれないのかも。

のれんだし、ヌカだし。ヤナギかな。

柔道やってたことがあると書きました。

「柔よく剛を制す」

足は遅いけど、ヒラヒラかわすのは得意かも。

ぼくを嫌いな人は多いかもしれませんけど

ぼくに恨みを持っている人は、いないんじゃないかな。

恨まれるようなことしないもん。

かすりもしない人間を、だれが恨むのよ。

ナニを言いたいんでしょうね、ぼく。

ねます。もうダメ。

2013年8月3日土曜日

いまの「権力者」の最大の誤算(かもしれないの)は、 彼らの脅迫や恫喝がゼンゼンこわくないことです


幹事長の「軍法会議に逆らったら死刑」発言も、

副総理の「ナチスの手口に見習え」発言も、

報道が英雄的なリークをしているのか、

それとも与党と報道が結託して「小出し」にしているだけなのか、

たぶんどちらかですね。

ぼくは今回の「ナチス発言」については、

テレビもツイッターも、なるべく追っかけないようにしています。

発言された事柄そのものは何だったのかを、

書かれたテキストを読んで考えています。

純粋に「反与党ビジネス」を営む職業的政治家たちの発言を見聞きしては

一喜一憂するのも、体に毒です。

ともかく、もう少し様子を見ましょう。

だれがナチスを手本にしようと、

どんな権力が暴走しようと、

今の日本がオートマティックにナチス化していくわけではありません。

そういう「脳内の三段論法」は棄てる必要があります。

歴史は繰り返しませんよ。人間には学ぶ力があるんですから。

いまの「権力者」の最大の誤算(かもしれないの)は、

彼らの脅迫や恫喝がゼンゼンこわくないことです。

中学生たちあたりまでネットでネタにして笑ってますよ。

落ち着いてください。大丈夫ですから。

美味しいざるそばでも食べて、セミの鳴き声を聴きながら過ごす

夏の昼下がりを楽しむのもいいですよ。

一般市民にバカにされるような作文しかできない人たちをどうしたら尊敬できるのか

でも、なんかちょっと面白い...というのは不適切な言い方ですけど、

「実に興味深い」というか何というかなのは、

橋下さんの暴言だか失言だかも、あれで全く無問題で通るわけでもなく、

それなりのダメージが、あの人自身や党にあった、ということですよね。

正直それは意外でした。

「へえ、ダメージあったんだ」と微笑できるものがありました。

「軍法会議に逆らったら死刑」「ナチスの手口に見習え」

こういうのを、

発言者自身の瞬間的な思いつきが、口からほとばしり出たと考えるか、

熟議するシンクタンクの徹底的な推敲を経たシナリオの朗読と考えるか。

後者だろうと思っていたのですが、どうもそうでもなさそうな気もする。

いずれにせよ、

いま「権力」の座を掌握している人たちが

(作文を朗読する人も、シンクタンクも)

一般市民にバカにされるような作文しかできない人たちであることは、

どうやら確からしい。

だれも尊敬してないよ。ていうか、尊敬できないよ。そんなんでは。

大丈夫なのか、おい。

言わずもがなですが、

東大や早慶出たから尊敬されるんじゃないですよ。

ちゃんとした日本語を書けるかどうか、だと思うけどね、ぼくは。

2013年8月2日金曜日

ほとんど「犯行予告」のようにしか、ぼくには思えないんですけどね

どうも腑に落ちないというか、分かんないのは、

前に書いたことのほとんど繰り返しなのですが、

「軍法会議に逆らったら死刑」とか「ナチスの手口に見習え」とか、

そういう言葉をうれしそうに聞いて心から感謝して支持する、みたいな人が

今の日本にどれくらいいるんだろうか、

そんなに多くないんじゃないだろうか、

ということなのですが、

ぼくの見立てが誤っているだけかもしれません。

しかし、もしぼくの見方が間違っていないとしたら、

このたびの副総理の「ナチス発言」も、

国民感情を”意図的に”逆なでするものですよね。

分かってて言ってる。失言じゃないですよ。周りもゲヘゲヘ下卑た笑い方だし。

「炎上政治」かな。不快ですね。

ナチスに憧れがあるんだか、なんなんだか知りませんが、

「過去の犯罪政党の手口に見習え」と煽る与党ナンバーツーさんの「ナチス発言」は

ほとんど「犯行予告」のようにしか、

ぼくには思えないんですけどね。

こんなことブツブツ言ってても仕方ないんだけど。

2013年8月1日木曜日

「鍵」が壊れている今の教会に「権威ある真理」を求められても、そりゃ無理な話ですよ

ぼくは

「信教の自由」を”信じて”いるとか「民主主義の原則」を”信じて”いるわけではなくて、

「神」を”信じて”いるわけですけど、

近代以降の民主化というか個人主義化というかは歴史の不可逆進行だと思うので、

いま「教会」に「権威ある真理」を求められても、「そりゃ無理だ」と答えざるをえません。

いま書いている意味の「権威ある真理」とは、

「キリスト者とはこうあるべき」ということを

全キリスト教会が異存なく納得できる言説と行動の規範のようなもの

を想定しているつもりです。

「教会」が「権威ある真理」なるものを語ろうものなら、バカを見るような目で見られる時代に

(ていうか、そういうことができると思っている時点で相当バカだし)

何が悲しくて、そういうことを言っているふりができる「教養ある教会」があるのよと、ぼくは思う。

それでも「教会」が

そういう何か(「権威ある真理」なるものの断片)を必死で守ろうと努力していても、

教会に与えられていると言われる「鍵の権能」なるものがメタメタに壊れていて、

完全に出入り自由な、セキュリティゼロの状態になっているわけで、守るべきものを守れない。

どうしようもないですよ。

「鍵の務め」ないし「鍵の権能」については、

ハイデルベルク信仰問答の第82問の答えに書かれている言葉の意味で用いています。

「民主主義」の中で「教会」という建物と組織を乗っ取るのは簡単ですよ。

多数でおしかけて、聖書の話より自分の身の上話で盛り上がって、

気に入らないことがあれば聖書と牧師を容赦なく批判して、

多数決で勝てば、建物と組織はその人たちのものになる。

「そんなの教会じゃない」とか言っても後の祭り。

牧師と年配信者が「共依存関係」にあるのは、これどうしたらいいんですかね。

牧師にも家庭があったり、生活があったりするんで、

しっかり献金してくださる方々を「優先」する思いは無くても、

その人たちを怒らせてしまったら困るとは思う。

教会の「鍵」が壊れていて、出入り自由になってしまっているんで。

日本の神学者とかキリスト教学者とか名乗る人たちが、

教会のことを「ヴォランタリー・アソシエイション」だとかのたまわったときは、

正直こけそうになりました。

「自発的」(ヴォランタリー)に集まる集団なんだから、

そりゃ「出入り自由」だと勘違いする人、続出しますわね。

ぼくが言いたいことは、

「戒規」という制度を持っているかどうかということよりも、それが「壊れている」ことの問題です。

どの教団・教派には戒規制度があるが、それが無い教団・教派もある、という話ではありません。

全キリスト教会に「鍵の権能」は与えられているのです。

急に不機嫌ぽい書きっぷりですいません。

べつに何かあったというわけではなくて、20数年の積年の思いが出てきた感じです。

これは愚痴というより、厳粛なる抗議です。

だけど、この抗議文を送るべき宛て先が分からない。

「民主主義の皆さまへ」でしょうか。

そんなバカな抗議文もないので、書いては捨て、書いては捨てのボツ稿です。