2008年12月7日日曜日
主において常に喜びなさい
フィリピの信徒への手紙4・2~7、ルカによる福音書2・10~12
「わたしはエポディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4・2~7)
「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」(ルカ2・10~12)
今日は聖書を二個所読みました。一つは、先週まで学んできたフィリピの信徒への手紙の続きです。もう一つは、わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになった日に起きた出来事を描いているルカによる福音書の言葉です。
この二個所に共通している一つのキーワードがあることに、すぐにお気づきいただけると思います。それは「喜び」という言葉です。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」
前者は使徒パウロがフィリピ教会に書き送った言葉です。後者は天の御使がベツレヘムの羊飼いたちに伝えた言葉です。別の言い方をすれば、これはベツレヘムの羊飼いたちが天の御使からこのように伝えられたと信じた言葉でもあります。つまりこれは羊飼いたち自身の信仰を告白する言葉でもあるのです。
今申し上げた点はともかく、今日取り上げた二つの個所には、両者に共通する「喜び」というキーワードが埋め込まれているということを確認することができます。しかも私が考えさせられたことは、二つの個所の「喜び」という言葉に含まれている深い意味も実はかなり共通しているようだということです。私が今何を言おうとしているのかを、もう少し説明してみたいと思います。
前者の「喜び」について、すなわち4・4に出てくる意味での「喜び」について、前後の文章を読むかぎりで分かりますことは、パウロはこのことを必死に、一生懸命に言い聞かせているようだということです。「常に」とか「重ねて言います」と書いています。読み方によっては、くどくて、ねちっこい表現です。もしかしたら腹を立てる人が出てくるかもしれないほどに執拗です。子どもたちは親から何度も同じことを言われると腹を立てます。「ハイハイ、分かった分かった。うるさいよ」と。それと同じような反応を引き起こしかねないほどの、くどくてねちっこい反復があると言えます。
これらの表現は、パウロにとっては意図的なことでもあったようです。そのことに私ははっと気づかされました。パウロが書いていることは、カメラマンが写真を撮影する前にみんなに向かって「はい笑ってください」と言うのに似ています。緊張で顔がこわばっている、笑っていない人々に「笑ってください」と、「喜んでください」とパウロは命令しているのです。パウロは「喜び」という言葉を用いながら、そのなかに一種独特の意味での批判を述べています。この点にはっと気づかされたのです。
パウロが「喜び」という言葉を用いて何を、あるいは誰を批判しているのかについては、はっきり分かります。批判の対象は、名前が出てくるエポディアとシンティケという二人の女性です。この二人を名指ししながらパウロが書いていることは「主において同じ思いを抱きなさい」です。逆転させて考えることができるでしょう。短く言えば、この二人は同じ教会に属しながら同じ思いを抱いていなかったのです。二人は対立していたのであり、もっとはっきり言えば、けんかしていたのです。同じ教会の中での女性同士の対立であり、戦いであったとも言えるでしょう。
「真実の協力者」と呼ばれているのは、エポディアとシンティケが教会の中で対立しているということをパウロに告げた人のようです。この人の名前をパウロが伏せているのは、「あの人がパウロに告げ口した」とその人自身が二人の女性から、あるいは教会の他の人々から非難される結果を招いてしまうことを防ぐためであると考えることができそうです。おそらくは、このときすでに、パウロがその人の名前を伏せなければならないほどに事態は深刻なものに発展しており、危険きわまりない状態に陥っていたのです。
ここまで申し上げれば、皆さんには、ぴんと来るものがあるはずです。問題は、パウロが用いている「喜び」という言葉に込められている批判的な意図とは何のことかです。
その答えは単純明快です。「けんかをやめなさい」です。「教会のなかでけんかするのはやめなさい」です。「教会は喜ぶために存在するのであって、けんかするために存在するのではない」です。「教会員同士がけんかしあうことで、どんな良い結果があるのだろうか。良い結果などありえない。けんかなど直ちにやめなさい。教会に混乱をもたらすことは、厳に慎みなさい」です。
この件に関して私は、現実の教会のなかでの実例は挙げないでおきます。そういうことをすること自体、どこかの火に油を注ぐ結果を生みかねないからです。
また、女性同士の対立の場合だからどうだとか、男性の場合はどうだとか。そういう話もしたくありませんし、すべきではないと考えています。何か分かること、感じることがあるとしても、そういうことは決して口にすべきではありません。女性に対しても男性に対しても失礼なことです。皆さんはどうか、そういう分類や割り切り方はおやめください。教会の中でけんかをしてはならないことに関しては、男も女もありません。
ここで、今日二番目に読みました、ルカによる福音書の言葉のほうに話題を移していきたいと思います。私が申し上げたいことは、ベツレヘムの羊飼いたちに向かって天の御使が告げた「喜び」の中にも、ある独特の意味での批判が述べられているように思われるということです。
その根拠ないし理由は、天使の言葉の中にあります。すなわちそれは「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」です。
ここで「あなたがたへのしるし」と呼ばれているのは、明らかに「喜びのしるし」です。つまり、あなたがたに告げるこの喜びの知らせが、あなたがたにとって本当に喜ぶことができる内容をもっているかどうかを判断するための材料ないし根拠としてのしるしです。天使が語っているのは「あなたがたへのしるし」、つまりあなたがたベツレヘムの羊飼いにとって、これは本当に喜ぶことができるものだとはっきり分かってもらえるはずのしるしであるということです。
逆に言えば、もしそのしるしを見て「いや、これは、このわたしにとっては喜ぶことができないものである」と判断する人がいるとしたら、それはそれだということです。その判断そのものは、ある意味で尊重されるべきものでもあるでしょう。
それはともかく、いずれにせよはっきりしていることは、天使が告げているベツレヘムの羊飼たちにとっての「喜びのしるし」とは、すなわち「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」のことです。となりますと、内容的に見れば、このしるしは、明らかに「貧しさのしるし」であると思われるものです。豊かな人、裕福な人、そのような家庭に生まれる人は、通常の場合、飼い葉桶のなかに寝かされたりはしません。そのようなことは、通常ありえません。飼い葉桶のなかに寝かされる可能性があるのはそれとは正反対の人々です。豊かさの反対である貧しさの中にある人々です。
そうなりますと、今申し上げた意味での「貧しさのしるし」としての飼い葉桶のなかに寝かされた乳飲み子の姿を見て「喜び」を感じると見ている天使たちの考えのなかに前提されていることは、明らかに「ベツレヘムの羊飼たちは貧しい人々である」という点です。そして、そこからさらに分かることは、貧しい人々にとって、救い主イエス・キリストのお生まれになったときの姿は「喜びのしるし」でありうるのだと、天使たちが言っているのだということです。
それでは、先ほどから申し上げている「喜び」の批判的な意味とは何かです。明らかに批判されているのは豊かな人々です。豊かな人々が「これはわたしの喜びだ」と感じたり語ったりしているそれは本当の喜びではない。本当の喜びは別のところにあるのだと天使たちが言っているのです。「あなたがた豊かな人々は、本当に喜ぶべきものを喜んでいない。喜ぶべきでないことを喜んでいる」。非常に厳しくはっきり言うとしたら、このような感じになります。天使たちによる批判の矛先は、豊かな人々に向けられているのです。
なるほどたしかに、聖書には、どう読んでも豊かな人にとっては厳しいと感じられる、あるいは不愉快とさえ感じられる言葉がたくさん出てきます。たとえばイエス・キリスト御自身がお語りになったなかでも最も有名な言葉のひとつ、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マタイ19・24、マルコ10・25、ルカ18・25)をどのように解釈すれば、豊かな人々にとっても満足できる説教ができるでしょうか。私には無理だと感じます。しかし、あきらめてしまうつもりはありません。この件についても具体的な実例を挙げることはやめておきますが、ごく一般論として考えてみるときに思い当たることがあります。
それは要するに次のようなことです。豊かな人がいつまでも豊かであり続けることは、無いとは言えないが、非常に困難なことであるということです。また、ひとりの人の人生の中で、貧しかった時期もあり、かつ豊かだった時期もあるという感じに両方を経験するということのほうが現実的には高い可能性としてありうるということです。地上に生まれてから死ぬまでのあいだに一度も貧しさを経験しなかったという人は、いないとは言えないが、多くはないだろうということです。
私が申し上げていることのなかにもし少しでも当たっているところがあるとしたら、天使が告げている「しるし」を見て一度も喜びを感じることがないままで死ぬ人は、いないとは言えないが、多くはないかもしれないというようなことを考えさせられるのです。
豊かな人に向かって「貧しくなりなさい」と語ることは難しいことですし、無理な面があります。しかしそんなことを誰かから言われなくても、わたしたちの人生(それが長いか短いかはともかく)の中では、一度ならず何度となく、貧しい生活に転じることがありうるはずです。かつて貧しかった人々が豊かになった。しかし再び貧しくなるということが十分、または当然ありうるのです。
バブルはいつかはじけます。夢が現実の前に打ち砕かれるときがくるのです。そのとき、わたしたちは天使の言葉に対してもっと素直に耳を傾けることができるかもしれません。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」はあなたがた“貧しい人々”にこそ与えられた喜びのしるしである。救い主イエス・キリストを信じて生きる人々に与えられる「喜び」は、金銭的に豊かな人々が「喜び」としているものとは違うものなのです。
(2008年12月7日、松戸小金原教会主日礼拝)