2008年12月14日日曜日
平和の神はあなたがたと共におられます
フィリピの信徒への手紙4・8~9、ルカによる福音書2・13~14
「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」(フィリピ4・8~9)
「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」(ルカ2・13~14)
「終わりに」と書いてパウロは、今度こそ手紙を締めくくろうとしています。もちろん実際にはまだ終わりません。なお続きがあります。しかしそれでもパウロの気持ちの中では、とにかくこのあたりでそろそろ終わろうとしたのです。
手紙にせよ、論文のようなものにせよ、最後に書くのは、たいていの場合は、これまで書いてきたことのまとめであり、結論です。わたしは要するに何が言いたいのか、です。そのようなことをパウロは、ここにまとめているのです。
「すべて」の真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なことを心に留めなさいとパウロは書いています。また、「徳や称賛に値すること」もそうだと言っています。
ここにパウロが数え上げているのは、いわゆるギリシア的な美徳です。旧約聖書的な、ヘブライズム的な美徳ではありません。ヘレニズム的な美徳です。別の言い方をすれば、これらのことは、必ずしも聖書に書かれていない、聖書とは別の要素です。ユダヤ人が、イスラエルの民が、長年語り継いできたこと、信じてきたこととは別の要素です。もっと別の言い方をすれば、あるいは事柄をはっきりさせる言い方をするとしたら、異教的要素です。教会の伝統とは異なる要素です。教会の外にあるものです。
それらのこと「すべて」を心に留めなさいとパウロはフィリピ教会の人々に勧めているのです。もちろん心に留めるということには、それらを大事にすること、重んじることが含まれています。「はい分かりました、覚えておきます」というだけでは済みません。無視したり、軽んじたりすることの反対です。軽蔑したり、泥を塗ったりすることの反対です。
ですから、パウロが書いていることの趣旨をくみとりながら大胆に翻訳し直すとしたら、「教会の皆さん、あなたがたは教会の外側にあるすべてのものをきちんと重んじなさい」です。馬鹿にしてはいけません。「くだらない」と言って見くだしたり、「そんなのは異教的なものだからわたしたちとは関係ない」と言って切り捨てたりしてはいけませんということです。
このように言うことにおいて、パウロは、教会の人々に不信仰を勧めているとか、無理難題を吹っかけているわけでは、もちろんありません。彼は至極当たり前のことを言っているだけです。すべてのキリスト者は「教会の内側」だけで生きていないからです。言葉の正しい意味で「教会の外側」においても生きているからです。
牧師だってそうです。牧師の家族もそうです。もし牧師や牧師の家族が教会の内側だけで生きているとしたら、そして教会の内側だけでしか通用しない言葉ばかりを語っているとしたら、伝道は不可能です。伝道とは、教会の外側にいる人々に語りかけることだからです。それは教会の内側にいる者たちが固い砦に引きこもることの正反対です。外に出て行かなければ、外の人々と触れあわなければ、伝道は不可能なのです。
しかもその場合問題になることは、外に出て行き、外の人々と触れ合って、そのとき何をするかです。けんか腰で出て行き、啖呵を切って「あなたがたのしてきたこと、考えてきたことはすべて間違っている。わたしたちが持っているもの、教会の中にあるものだけが正しいものである。だから、ここに、教会にどうぞおいでなさい」と大声で叫び続けることが伝道でしょうか。そのように言われて教会に通い始める人が何人いるでしょうか。多くの人々は、ただ反発を感じるだけでしょう。「もう二度と教会には足を踏み入れません。決して近づきません」と、多くの人が心に誓うでしょう。
パウロが勧めているのは、そのような行き方の正反対です。もちろんパウロ自身も伝道者としての歩みの中で、何度となく失敗や挫折を繰り返してきました。けんか腰の態度や相手を傷つけるやり方もしました。しかしそれでは伝道が進まない。福音が前進しない。そのことにも気づかされてきたに違いないのです。
もちろん、次のような意見が必ず出てくることも私は知っています。「朱に交われば赤くなる。ミイラ取りはミイラになる。不信仰な人々の異教的なやり方に近づきすぎると、我々の確信が鈍り、教会の進むべき方向を間違ってしまう。守るべきものを守りぬくために、頑丈な砦が必要である。そのようなものがないかぎり、我々はあっという間にすべてのものを失ってしまう」。そうだと言われれば、そうなのかもしれません。全く間違っているとも言い切れません。しかし、それでもやはり私はそのあたりでとても慎重な気持ちにならざるをえません。
私は自分がとても弱い信仰の持ち主であると自覚しております。だからこそ、私のこの信仰をしっかりと守ってくれる頑丈な砦があればよいのにという強い憧れを持っています。それは喉から手が出るほど求めてきたことでもあります。しかしその願いは、少なくとも私にとっては未だに叶っていません。未だに叶っていないのですが、しかしまた、それが未だに叶っていないということ自体に意義を見出している面もあります。もし本当にそのような固くて頑丈な砦が手に入ってしまい、その中だけで生きて行くことができるようになり、その砦の外側には一歩も出ないで済むようになったとしたら、果して私はどのような人間になってしまうのだろうかということに不安を抱く面もあるからです。
かつてのヨーロッパはたしかにそのような時期を何世紀も過ごしました。国民のすべてが洗礼を受けている。キリスト教信仰が国民の常識である。そのような中に一度でいいから私も生きてみたいという憧れや願いが、私のなかに確かにあります。しかしまた、その憧れや願いは、私にとっては今の現実から逃げ出したくなる誘惑のようなもの、あるいは大きな落とし穴、危険な罠のようなものに近いと感じられるのです。
パウロがその中にいた現実は、どちらかというと、かつてのヨーロッパが体験した状況のほうではありません。むしろ今のわたしたち日本のキリスト者たちが置かれている状況のほうに近いものがありました。周りを見渡しても、キリスト者はきわめて少数である。文字どおり一握りの人しかいない。いつもさびしい思いを味わっている。理解してくれる人は少なく、むしろ危険視されたり異端視されたりするばかり。
しかし、そのような中であっても、あるいはそのような中であるからこそ、パウロは、教会の内側にあるものだけでなく、教会の外側にある「すべてのもの」も心に留めなさい。それらのものを十分に重んじなさいと勧めていることは、やはり特筆すべき点です。それは教会の中だけで自己完結してはならないという勧めでもあるでしょう。あるいは教会の外なる世界ないし社会との接点を持ち続けなければならないという命令でもあるでしょう。
自分たちの要塞の中にあるものだけが真実であり、気高く、正しく、清いものであり、愛すべきものであり、名誉なものであり、それ以外のすべてはそのようなものではありえないというような絶対的で排他的で独善的な確信を持つことを慎むべきであるという戒めでもあるでしょう。
もし我々がそのような確信を持ってしまうならば、なるほどたしかに、我々の存在は、外側から見ればとんでもなく鼻もちならないものに映るでしょう。また、もし我々がそのような要塞の中に立てこもってしまうならば、自分たち自身はこの上ない安心を得て満足できるかもしれませんが、外側から見ると我々の存在は、どこかしら自信のない、ひ弱な人間のように映るでしょう。
教会の外側の社会ないし世界の中にあるすべての善きものを心に留め、大切にすべきであるという教えには、この個所でパウロ自身がそのことに直接触れているわけではありませんが、間違いなく重要な信仰的・神学的な根拠があります。それは、わたしたちの神は全世界を創造された方であるという点です。
わたしたちの神は、教会だけを創造されたのではなく、世界を創造されました。信仰をもって生きている者たちだけを創造されたのではなく、いまだ信仰に至っていない人々も、神が創造されました。教会の中に生きている者たちは神によって創造されたが、それ以外の人々は悪魔によって創造されたというような事情には全くありません。そのような思想は異端的なものです。創造者なる神への信仰は、わたしたちが教会の外側にあるすべてのものに目を向けるべき明確な根拠を提供しているのです。
パウロは次のように続けています。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」。
ここで勧められていることは「教えられたことを実行すること」です。理解はできても行動に移せないことの反対です。自分の砦、自分の要塞の中に立てこもってしまい、外側には一歩も出ることができないことの反対です。
大切なことは、言われているとおりに実際にやってみることです。自分の砦の外に出て行くとき、まるで丸腰で戦場に出ていくかのような不安や恐怖心を感じるかもしれません。しかし、そのときわたしたちを神御自身が守ってくださる。そのことを確信し、またそのことに安心すべきなのです。「平和の神」とは「わたしたちを平安で満たしてくださる神」また「安心させていただける神」なのです。
今日はもう一個所の御言葉を読みました。ルカによる福音書です。わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになった日に、ベツレヘムの羊飼いたちに主の御使が語った言葉です。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。
ここにもまた「平和」という言葉が出てきます。神の御子イエス・キリストがこの地上に来てくださいました。それは、この地上の世界に平和をもたらすためでした。ただし、御使が語っているように、その平和は「御心」すなわち「神の御心」に適う人々のところにもたらされるのです。
今日私がお話ししたことは、次のように誤解されたくはありません。教会も社会も同じであるとか、社会の人々に嫌われないように教会は敷居を低くすべきであるとか、教会か社会かそのどちらかを選ばなければならないような場面がもしあるとしたら、迷わず社会のほうを選ぶべきであるとか、そのようなことを言おうとしているわけではありません。申し上げている重要な点は、ただ一つ、わたしたちが伝道する相手は教会の外側にいるということです。教会の外側に出て行かないかぎり神の救いを必要としている人々に出会うことはありえないということだけです。
パウロはこの手紙の中にすでに書いていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。
このようにパウロが書いていることこそが、クリスマスの出来事の本質です。イエス・キリストもまた御自身の砦の中に引きこもられなかったのです。そこから出てきて、地上の人々を救う働きに就いてくださった!それがクリスマスの出来事なのです。
(2008年12月14日、松戸小金原教会主日礼拝)