2008年12月21日日曜日

苦しみを乗り越える力、それがキリスト


フィリピの信徒への手紙4・10~14、ルカによる福音書2・15~20

「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」(フィリピ4・10~14)

「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(ルカ2・15~20)

クリスマスおめでとうございます。先週の日曜学校クリスマス礼拝・祝会に引き続き、今日もクリスマス礼拝・祝会を行います。神の恵みを豊かに味わい、楽しく過ごしたいと願っております。

今年のアドベントは、フィリピの信徒への手紙とルカによる福音書を同時に学んできました。とくにフィリピの信徒への手紙については、パウロがそろそろこの手紙を終わりにしようとしている個所を学んできました。

今日の個所に書かれていることは、伝道旅行中のパウロを経済的ないし金銭的に支えてくれたフィリピ教会の人々への感謝の言葉です。以前学びましたとおり、フィリピ教会の人々は、旅先で物資が尽きてしまい苦しんでいたパウロの状況を知ったので、教会の中で献金を集め、また必要な物を集めて、それらすべてをエパフロディトという男性に託しました。エパフロディトはその大きな荷物を抱えて、パウロのもとまで長い旅をしたのです。ところが、エパフロディトはその旅の最中にひん死の病気にかかりました。彼自身も非常に大きな苦しみを味わったわけです。しかし彼はとにかく自分自身に託された使命を全うし、預かったものすべてをパウロに届けることができました。

このことをパウロはフィリピ教会の人々への感謝の言葉として今日の個所に書いているのです。いやそれどころか、客観的に眺めてみますと、実はこの手紙全体が、パウロからすれば自分の生活を支えてくれたフィリピ教会の人々への感謝を表すために書かれたものであると見ることも可能なほどです。実際にそのように主張する聖書学者もいます。その主張とは、パウロがこのフィリピの信徒への手紙を書いた目的は、教会の人々がささげてくれた「献金」に対する感謝を述べるためであったというものです。

私はなぜこのような話をしているかについては説明が必要でしょう。わたしたちが毎年行っているクリスマス礼拝がいつも一年の終わりの時期に行われることは意義深いことであると感じます。クリスマス礼拝においてわたしたちが思い巡らすべきことは、神の御子イエス・キリストが来てくださったことの意味であり、その恵みの豊かさです。神が独り子をお与えくださったほどに世を愛された、その愛の大きさです。クリスマスと言えば巷では「プレゼントをもらう日」ということになっていますが、そのすべてが悪いということはありません。しかし、ただもらうだけで終わるなら、ちょっと悪いかもしれません。プレゼントをもらった人は、くれた人に対して感謝しなければなりません。クリスマスは「プレゼントをもらったことへの感謝を述べる日」でもなくてはならないのです。

教会の牧師たちは、クリスマスだけではなく、まさに一年中、教会の皆さんから生活を支えていただいています。教会の皆さんのプレゼントによって牧師の生活が支えられています。そのことについて牧師がクリスマスのときだけ感謝を述べるというのでは足りないとは思いますが、こういうことはなかなか口にする機会がないものです。感謝が足りていないとしたら、どうかお許しください。この場をお借りしてお礼を申し上げます。いつも助けていただき、本当にありがとうございます!

この個所でパウロは自分の働きのために献金してくれたフィリピ教会の人々に対して、読み方によっては何となく奇妙な感じに響いてしまうような言葉を書いています。「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と。

何となく奇妙な感じと言いますのは、このように書いているパウロがまるで、わたしは別にあなたがたの献金を当てにしているわけではありませんとでも言っているかのようだという点です。献金が少なければ少ないなりに何とかしますので、どうぞご心配なくと。おやおやパウロ先生、教会の人々にしっかり助けてもらっていながらこのような言い方をするのは、教会の人々に対して失礼ではないかと感じなくもありません。

しかし、牧師の仕事をしている者たちからすれば(その中には私も含まれるわけですが)、パウロがこのように書いていることの意味はよく分かるものです。やや俗っぽい言い方かもしれませんが、「わたしたち(牧師たち)は、お金のためにこの仕事をしているわけではない」という自覚と自負を持っているからです。パウロは「物欲しさにこう言っているのではありません」と書いています。今の牧師たちなら「格好をつけてこう言っているのではありません」と書くかもしれません。無ければ無いなりに何とかする。このような考え方を全く持っていないような牧師には、この仕事を続けていくことは不可能です。

パウロは続けて「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と書いています。「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても、不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を知っています」と。もちろんこのことが今のわたしたち牧師たち全員に当てはまることかどうかは分かりません。しかし、私自身が本当に幸せであると感じてきたことは、牧師の仕事をするということは、まさにパウロが書いているとおり、実にさまざまな状況を体験することができるということであり、神から与えられた人生の中でいろんな変化やいろんな苦しみを味わうことができ、しかしまた同時に、その苦しみを乗り越える「すべ」もしくは「秘訣」を身につけ、強くなっていくことができるということです。

私の長男は、1994年のクリスマス礼拝の次の日に生れました。翌年のクリスマスは同じ場所で迎えましたが、その翌年のクリスマスは、私が次に働くことになった教会で迎えました。さらにその翌年のクリスマスは神戸改革派神学校で迎えました。その翌年は山梨県でクリスマスを祝いました。そのとき子どもは二人に増えていました。長男は4歳になるまで、ほぼ毎年違う場所でクリスマスと自分の誕生日を迎えました。親の都合で引きずり回されているという感覚を、幼心に抱いていたかもしれません。本人に聞きますと「何も覚えてないよ」と言ってくれますが、私自身は申し訳ないことをしたという気持ちを未だに持っています。

しかし、そのような大きな変化の中で子どもたちも妻も、そして私も非常に鍛えられてきたと感じています。とくに長男はその町に友達ができたと思ったらまた引っ越しという体験をまだ十分に物心がつかないうちに、何度も繰り返させてしまいました。そのことを本人は「覚えていない」と言うのですが、友達を大切にする人間になってくれたと思っています。長女のことも言わないと不公平なので言いますが、長女も同じです。妻のことは本人に聞いてください。

わたしたち牧師たちとその家族は、自分が仕えている教会に生活を支えてもらうことによって、まさにいろんな人生を体験することができます。今の日本の牧師たちが豊かさを体験するということはあまりないかもしれませんが、それでももっと大きな苦しさの中にある人々のことを考えるならば、わたしたちなりの豊かさを体験もし、しかしまた厳しい生活も体験する。体験できるのです。そしてそうしているうちに、実にさまざまな、ありとあらゆる状況のなかで生きていくことができる「すべ」または「秘訣」を身につけることができます。これらのことは、願ってもなかなか得ることができない貴重な体験であり、まさに神の恵みであると信じることができるものなのです。

そして、そこからさらに、パウロの言葉を借りれば「習い覚える」、つまり「レッスンを受ける」ことができるのは、次のようなことです。

すなわち、わたしたちは、まさにこの世界全体の中に生きている人々が体験しているいろんな苦しみを理解することができます。その人々の悩みや叫び、また愚痴のようなものに共感することができます。しかしまた、そのような人々がどうしたら喜びや幸せを見出すことができ、感謝の人生を始めることができるのかについて自分たち自身の体験に基づく言葉を語ることができます。「牧師たちは世間知らずである」とは言われたくありません。「苦しみも涙も知っているよ」と言いたいです。「それでもどっこい生きているよ」と言いたいです。わたしをも強めてくださる方、わたしたちの救い主イエス・キリストのお陰で、わたしにもすべてが可能ですとパウロと共に言いたいです。本当に、真実に、そのように語ることができるのです。

イエス・キリストがお生まれになった夜に天使がベツレヘムの羊飼いに語ったことは、「救い主」が「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」であることが「あなたがたへのしるし」であるということでした。この天使の言葉の趣旨はどう考えてもやはり「あなたがた貧しい人々へのしるし」であるということです。通常、豊かな人の子どもが飼い葉桶の中に寝かされることはありえないからです。貧しさの中で苦しんでいる人々のところに救い主が来てくださった。救い主は貧しい姿をしておられる。天使の言葉はそのように理解することが可能です。

逆に考えてみて、満ち満ちた豊かさを持った人が「わたしが救い主です」と言いながら登場するとしたらどんなふうだろうかと思わされます。たとえば、自分に与えられた権力を思いのままに振い、贅沢三昧の暮らしをしていたローマ皇帝が、あるいは当時のユダヤの王たちが「わたしが救い主です」と言っている姿は、彼らの暴力的支配のもとで苦しみを味わわされていた人々からすれば、何とも滑稽に見えたでしょうし、怒りや憎しみさえ覚えたでしょう。「わたしたちはあなたに救ってもらいたくはない。あなたから救われたい」と願ったことでしょう。ベツレヘムの羊飼いたちの前で起こった出来事を理解するために、今申し上げた点は重要であると思います。

クリスマスは贅沢三昧にふるまってよい日ではありません。正反対です!貧しさの中で苦しんでいる人々を助けてくださるために、救い主イエス・キリストが、御自身も貧しい姿をとって来てくださったことを感謝する日です。わたしたちの救いはお金に代えがたいものであることを知る日です。わたしたちがたとえどのような状況にあっても、救い主がそのような方であることを信じることができるときに絶望することがないと信じる日です。

今の世界的な経済不況の中で絶望している人は、どうか私の言葉に耳を傾けてください。

あなたの人生は、まだ終わっていません!

キリストがあなたを救ってくださる。そのことを信じていただきたいのです。

(2008年12月21日、松戸小金原教会クリスマス礼拝)