2008年12月11日木曜日

アペルドールン Apeldoorn

11日(木)は午前6時起床。朝食バイキングが始まる7時よりも前にホテルを出、トラムに飛び乗りました。そして7時半頃にはアムステルダム中央駅から電車に乗り、一路アペルドールンへ。アペルドールン駅前で石原知弘先生と待ち合わせ。石原先生が運転する自動車に乗せていただいて、オランダの東北地方に向かうためです。



■ アペルドールン



アペルドールン市(Gemeente Apeldoorn)は、神学者アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が、生まれてから大学に入学する直前まで住んでいた、まさにこの神学者ゆかりの地です。現在石原先生が学んでおられるアペルドールン神学大学がある市でもあります。



駅から直行したのは、アペルドールン神学大学(Theologische Universiteit Apeldoorn)です。我々が訪ねたときは学生会の設立記念日のパーティーが行われている最中でした。来日講演をしてくださったことがある旧約聖書学者H. G. L. ペールス教授が我々を歓迎してくださり、神学生や近隣の教会の牧師たちと共に、30分くらい親しくお話しすることができました。



ペールス先生はファン・ルーラーがアペルドールン出身であることをご存知なかったらしく、我々の調査に深い関心を寄せてくださり、喜んでくださいました。神学生の一人は私の顔を見るなり、ニヤニヤ笑いながら「昨日アムステルダム自由大学でスピーチした人でしょ?」。私のことを覚えていてくださり、「出席しておられたのですか?」「ええ、行ってましたよ」という話から始まって、いろいろと盛り上がり、意気投合しました。別れ際、ペールス先生は御自身の最新著をプレゼントしてくださいました。最後の最後に「韓国(Korea)の(?)教会の皆様には、くれぐれもよろしくお伝えください!」とおっしゃいました。とても優しい先生でした。



国際カルヴァン学会のH. J. セルダーハイス会長も、この神学大学の教授です。セルダーハイス教授の姿を窓越しにちらっと見かけたので御挨拶したかったのですが、日が暮れるまでに計画したすべてを実行するためには時間が足りそうもないことが判明しましたので、先を急ぐことにしました。



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その後、神学大学の裏というかすぐ隣にあるアペルドールン・ヒムナシウム(Apeldoorn Gymnasium)を見学しました。ヒムナシウム(ギムナジウム)は、大学入学前の準備教育を行う超難関校です。ファン・ルーラーはこのヒムナシウムを卒業後、フローニンゲン大学神学部に入学しました。ヒムナシウム時代のファン・ルーラーは数学、とくに「立体幾何学」が得意であったと伝えられています。校門の柱にAnno 1813(西暦1813年)と刻まれている歴史的建造物は、今も現役で用いられています。学校の前をうろつく二人の東洋人がよほど珍しかったようで、ヒムナシウムの生徒たち(とくに女の子たち)が窓の中から我々に笑顔を向け、手を振ってくれました。



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次に向かったのはアペルドールンの「大教会」(Apeldoorn Grote Kerk)です。アペルドールン教会は、ファン・ルーラーが両親や兄弟と共に(彼は長男でした)幼い頃から通っていた教会です。彼の小児洗礼式と信仰告白式は、この教会で行われました。信仰告白に際しての教理問答教育(catechisatie)は、当時この教会の牧師であったTh. L. ハイチェマが行いました。ハイチェマはアペルドールン教会の牧師を辞任後、フローニンゲン大学神学部の教授になりました。アーノルト少年への教理問答教育には、オランダ改革派教会の伝統に則ってハイデルベルク信仰問答が用いられました。



ただし、今書いた説明は、これまで日本で読んできた書物から得たものです。ところが、今回の調査で、いくらか複雑な事情がありそうだと分かりました。



ペールス先生が、次のように教えてくださいました。ハイチェマが牧師をしていたとき(1918年~1923年)のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk、略称NHK)は、アペルドールンに二つあったそうです。「大教会」(Grote Kerk) と「ヨハネス教会」(Johannes Kerk)です。しかし、後者「ヨハネス教会」は今から数年前に取り壊されました。また、1970年代ないし80年代頃までのNHKの牧師は、個別の教会に赴任するのではなく、複数の牧師で複数の教会を担当していたそうです。そのため、ファン・ルーラーとその家族が「大教会」のほうに通っていたか、それとも「ヨハネス教会」のほうに通っていたかを特定することは、「ハイチェマが牧していた教会である」という情報だけでは無理だということです。別の情報を得られるまでは、それは「大教会」(Grote Kerk)のほうであった「可能性がある」と書くのがより正確だということです。



やはり現地に行かねば分からないことがたくさんあるなあと思わされました。



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